あなた自身はどうなのだ?
ワークプレイスラーニング2008、1200名満員御礼!
ありがとうございました。
安田講堂でお逢いしましょう!
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「大人の学び」について他者に語ること、「大人の学び」を仕事にすることとは、「自分の学び」を問うこと、でもある。
饒舌に放たれた言葉は、すべて、自分の側に「ブーメラン」のように鋭く返ってくる。
他人に学べと言っておいて、あなた自身は、学んでいるのか?
他者に変われと迫っておいて、あなた自身は、変わる覚悟はあるのか?
他人に成長すること、成熟することを願っていて、あなた自身は、成長しているのか?
よもや、
他人に学べといっておいて、あなた自身は、「逃げ腰」ではないだろうか。
他者に変わることを迫っていて、あなた自身は「逃げ切れる」と思っていないか。
他人の成長や成熟を語っておいて、あなた自身は「自分は別」と思っていないか。
まさかとは思うが、そんな「虫のよいこと」でお茶を濁せると思っていないか。
あの人は学ぶ「べき」だけど、わたしは学びたくない。
あの人は変わる「べき」だけど、わたしは変わりたくない。
あの人は成長する「べき」だけど、わたしは成長なんてしなくていい。
「他人」に対して「べき」を使い、自分は「別」だと思っていないか。
企業の人材育成担当者、民間ベンダーの方々、インストラクターの方々、コンサルタント、大学教員・・・ふだん、「大人の学び」について語り、他者に迫る、「あなた方」の方は、どうなのか。
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もちろん、「他人に学びを迫ることは、仕事としてやっていることであり、自分の実存とは関係ない」と開き直ることも、可能である。「仕事は仕事、自分は自分」。それもできないことではない。
しかし、ロジックとしては可能ではあるけれど、「オーディエンスの立場から見て」、その説得力は皆無に等しく、彼の言葉は、むなしく空中に離散する。
少なくとも、もし仮に僕がオーディエンスであるならば、
自ら学んでいない人に、学びを語って欲しいとは思わない。
自ら変わることを辞めた人に、変われと迫られたくはない。
自らの成長を諦めた人の言葉は、僕には届かない。
それだけ饒舌に「学び」を語るのなら、もちろん、その覚悟を決めているんだろうな
と、僕なら思う。
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自戒をこめて、再び問う。
大人に学べと、あなたはいう。
大人はまだ成長できると、あなたはいう。
大人に変われ、とあなたはいう。
で、「あなた自身はどうなのだ?」
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大人が「大人の学び」を語ること、それを他者に迫ることとは、これらの問いに対して、自ら実践しようとすることと無縁ではない。
僕は、既に「腹をくくって」いる。
さて、「あなた」はどうか?
あなたが語りかけている他者は、じっと、あなたの方を見ている。あなたの一挙一動に、鋭いまなざしが向けられている。
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追伸.
このエントリーにはたくさんの方々からのメールをいただきました。ありがとうございました。S先生からご紹介いただいた、この言葉が印象的です。
「自分が相手によって変えられるということに私が開かれているのでなければ、相手を変えたいなどと望む権利はない。」
(マルティン=ブーバー)