学びとは「悦び」であり、「痛み」でもある
大人が学ぶことは「悦び」であるのと同時に、「痛み」でもある。
かつて、ジャック=メジローという研究者は、変容学習理論の中の一部で、大人が学ぶプロセスには、
1)ジレンマ、恐れ、怒り、恥辱感などのネガティブな感情を伴う自己吟味が欠かせないこと
その上で、
2)今までアタリマエだと思っていたこと(assumption)の問い直しがはじまること
を主張した。
ちょっと誤解を受けるかもしれないけれど、この様子は「筋トレのメタファ」でも説明できるのかもしれない。
僕は専門家ではないので詳しい話は知らないけれど、筋肉とは、極限まで追い込まれ、筋繊維が「壊れること」をきっかけに増強されるものらしい。
筋トレをやる。激しいトレーニングで、プチッと筋肉が壊れる。「疲労感」や「けだるさ」、時には「痛み」が全身の筋肉に残る。疲れた筋肉をChill outするケアを忘れてはいけない。それを忘れると、時には「筋肉痛」として長く続く場合もある。でも、自分の体には、どこか昨日までの自分とは違った感覚がある。確かに、疲れた。でも、気分は「爽快」だ。
これが「学びが痛みでもあり、悦びでもある」という状況に似ているのかもしれないな、と思った。「筋トレ」と「学び」、ミソクソ一緒にするなとお叱りを受けそうだけど。
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「働く大人の学びや変容」を研究として描きだそうとするとき、僕らは、明らかに「ポジティブなもの」、つまりは「悦び」のことだけに目を向けてしまいがちである。
しかし、「悦び」の背後には、おそらく「痛み」とよばれるもの - 葛藤、緊張、矛盾、抵抗といったものが、おそらくは、ある。
それをいかに誤魔化さずに、ちゃんと書くことができるか。僕はそれがまだできていない。これは僕自身の大きな課題なのかな、と思う。