援助すること、されること
生きることは、援助するか、援助されるかのどちらかである。
たとえば、僕は33年前、この世に生まれた。爾来二十数年(長すぎる!という話もある)、親の援助のもとで育てられ、今は「人の親」になり、愚息TAKUZOを援助しつつ、育てている。
今、TAKUZOは、親の助けなしでは生きていけない。
しかし、僕がそうであったように、近い将来、僕らの援助は必要としなくなり、むしろ、それを「鬱陶しいもの」と思うようになり、やがて自律する。
そして、どのようなかたちかはわからぬが、彼もいつかは「誰か」を援助するようになる。
そして、今まで「援助する側」であった僕は、今度は「援助される側」に回る。あなたと同じように、僕も、「老い」から自由ではない。おそらく、誰かの助けなしでは生きていけぬ存在に、いつかはなる。
かくして、歴史は繰り返す。
援助しているか、援助されているか。
人によって様々なライフスタイルがあるので、一概にはいえないけれど、生きることは、このどちらかと、常に「無縁」ではない。
今日の話は、親子の間柄の話であったけど、学校で、職場で、地域で、僕らは人を援助しつつ、人から援助を受けていることが多い。
生きるている、ということは、援助しているか、援助されているかのどちらかである。僕らは、人を助けること、人に助けられることの「網の目の中」にいる。
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近況.
昨日から冬学期のゼミ開始。このタームは、「自己制御学習(自己調整学習)」に関する書籍、本を読む。
自己調整学習とは、誤解を恐れず僕の言葉で一言でいうと、「自分の学習を自分でデザインしながら学ぶ」ということです。
メタ認知や方略といったコグニティブなもの、自己効力などのエモーショナルなものをレバレッジとして、いかに、自分の学習をデザインできるか、ということを研究します。
昨日の文献は、1)自己調整学習の概論と、2)バンデューラの社会認知理論と自己調整学習の関係についてでした。
自己調整学習の理論を読みながら考えたことのひとつに、「自己」の問題があります。
自己調整学習の理論は、決して目新しいものではない。それなのに、数年前から「脚光」があたっている。
この背後には、自己調整学習が背後に想定する「強い自己」というものが、今の社会思想、今という時代に「共振」しているという問題があるかと思います。 だから、自己調整学習は、ある種の「危うさ」を含んでいます。理論を教育的、心理的に読み解くだけではなく、思想的、経済的に批判的に読み解く必要があるな、と痛感しました。
ちなみに、本日から出張。
某ホテルにて、神戸大学の金井壽宏先生と対談を行う。ワクワク。
明日午後、某所にて講演。
明後日、某学会の若手研究者の会合に参加。僕はその学会の学会員ではないのだけれど、趣旨に共感した。そのまま、日本教育工学会に参加するため、上越教育大学へ。3日間、学会です。
そして人生は続く。