鷲田清一著「てつがくを着てまちを歩こう」を読んだ!

ファッションは決して、わたしたちの存在の「うわべ」なのではない。それは魂のすべてではないけれど、単なる外装ではなく、むしろ魂の皮膚である。

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 最近、鷲田清一氏の一連の著作を読んでいる。鷲田氏といえば、1980年代、現象学やモード論などを下敷きに、ファッションをはじめて論じた日本の哲学者である。現・大阪大学総長。

 1980年代、鷲田氏が、ファッションを論じはじめたとき、日本の哲学者の中にはファッションをまともに扱おうとする人はいなかった。鷲田氏がモード論を発表したとき、恩師から「世も末だな」とお叱りをうけたというエピソードも残っているそうである。鷲田氏は、異端の人であった。

 鷲田氏の著作の中では、特に、寺山修司の「書を捨てよ町へ出よう」をもじった「てつがくを着てまちを歩こう」は、僕のおすすめだ。非常にわかりやすい。

 同書からは、様々な示唆を得たけれど、「かっこよさ」や「際」に関するものが、よかった。下記、長くなるけど、引用する。

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「ひとがみな同じ感受性、同じ価値観でいるときに、そのノイズとなること。いわば、「はずし」の感覚、それが「かっこよさ」:というものの本質ではないだろうか。

(同書 p23)

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「際」といえば、ふつう、物と物との境、ある物が別の物と接するところ、あるいはあるものがそれでなくなるところを意味する。

髪の生え際、海の波打ち際。汀といえば、陸と水の接するところ、水際のことである。同じことは時間についてもいえ、「いまわのきわ」といえば、最期のとき、生死の境のことだ。

際というのは危うい場所である。異物と触れるところ、じぶんがじぶんでなくなりだすところだからだ。しかし、それはまた、エネルギーが異様に充満しているところでもある。

(同書 p93)

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 という具合に、話題は決してファッションだけに限られない。いろいろな示唆が得られる本だと思いました。よろしければ、ぜひ。