うちの組織にはビジョンがない

 「うちの組織にはビジョンがない」
 「トップはビジョンを示してくれないと困る」
 「うちの社長は明確なビジョンをもってない」

 と嘆いている人を、たまに見かけます。こういう方々を、僕は心の奥底で密かに「ビジョン症候群」と呼んでいます。

 正直いって、僕は、ビジョン症候群に罹ってしまった方々の言葉を「鵜呑み」にしていません。というより、どちらかというと「眉唾だなぁ」と思って聞いています。

 なぜか?

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 僕の少ない経験からいって、「組織のビジョンが欲しい」という方に限って、「ビジョン」ができたら文句をいい、何も自分からアクションをとろうとはしない傾向があるからです。

 いざ、ビジョンが明示されたら、

「そもそもビジョンとは上から与えられるものなのか」

 と文句を言い、

「ビジョンを上から与えられても、何をしていいんだか、わからない」
「こんな不明瞭なビジョンじゃ、何から手をつけていいかわからない」

 と言う。
 僕の短い人生で、「ビジョンを欲しつつ、それが与えられたときに、そのビジョンに基づいてアクションをとった人」を、悲しいかな知りません。

 「上」が何かをやってくれるに違いない。「ビジョン」という名の「プラン」や「ルール」をつくって、「上」が何をしたらいいか教えてくれるに違いない。そう思っている方が多いように思います。

 これは、ビジョン・ロマンティシズムといってもよい。

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 かつて、松下幸之助さんは、正月に全社員を集めて、「訓辞」をなさっていたそうです。

 そこで示される<ビジョン>は、どちらかというと、シンプルでいるけれども、難解なものでした。逆に言えば、どうとでも解釈可能なものが多かったそうです。

 重要なことは、訓辞が終わったあとで、全社員が行う会議にありました。

「社長の言っていたことは、こういうことだったのではないか」「いや違う。社長はきっと、こう述べたかったに違いない」

 というかたちで、社長の示したことを相互に解釈する会、ビジョンを語り合う会が開かれたそうです。

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 ビジョンとは、組織メンバーの相互解釈の中で明らかになり、達成されるものなのではないでしょうか。トップができることは、「相互解釈のためのタネ」と、「タネを解釈しあう場をつくること」なのではないでしょうか。

 そして、ビジョンとは、それぞれの立場で解釈され、それぞれにインプリメンテーションされてはじめて、明らかになるものなのではないでしょうか。

 ビジョンとは、あなたが語り合うものである。
 僕はそう思っています。