教育、葛藤、そして岐路
1. 教育は、社会の中の「誰」がイニシアチブをもって、「誰」と協働して(あるいは誰とも協働しないで)、どのようにして、どこまでの範囲を担い、どのような成果を社会にかえすべきものなのか?
そして、
2. 教育研究とは、どういう知識・専門性・経験をもった人がイニシアチブをもって、誰と協働して(あるいは協働しないで)、どのように担い、どのような成果を、誰に返すべきものなのか?
時間がないので、ザッとしか書きませんが、今ほど、これら二つの問題、「教育および教育研究のオーナーシップ、パートナーシップ」の問題が問われている時代はないように思います。これは公教育であろうと、企業人材育成であろうと事態は変わりません。こんな風に、教育を捉えているのは、僕だけなんでしょうか。
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ほんの一例ですが、今日の朝日新聞1面には下記のようなニュースが流れました。くるぞくるぞ、と言われていただけに、受け止め方は冷静ですが、僕のまわりの教育関係者の間では、このニュースについての議論がはじまっています。
難民「第三国定住」導入
http://www.asahi.com/politics/update/0723/TKY200807230351.html?ref=rss
某大学の某先生からもこんなメールをいただきました。
この動向が本格化すれば、学校教育は、「マルチカルチュアリズムへの対応」という未曾有の事態に突入するかもしれない。
その際、現場に対応できることは何か、できないことは何か?
その際、教育研究には何ができ、何ができないのか。
そして、いわゆる狭い「教育」の人々だけで、これに対応できるのか。
こんな風に書くと、「自分は学校教育に関係ないからどうでもいい」と思う方もいらっしゃるかもしれませんね。でも、いわゆるマルチカルチュアリズムへの対応は、いわゆる初等中等教育だけではありません。高等教育も、既にそれに巻き込まれていますし、企業人材育成でも、それが既に問題になっているところもあります。
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もちろん、教育の問題はこれだけではありません。テクノロジーの問題、グローバリズムへの対応の問題・・・マクロな見方をすれば、今、教育がいかに激変する時代の中にあるか、すぐに見て取ることができます。
もちろん、歴史をひもといてみれば、教育が、安定していた時代など、ほとんどありません。人類が自らの歴史を記し始めた頃から、常に教育は「葛藤」の中にありました。教育に関わることは、結局、この「葛藤」の中に身をおく覚悟をもつということでもあります。
しかし、今、教育が置かれている状況は、これまで常日頃教育が置かれていた「葛藤」とは質が異なっているようにも思います。「葛藤」ではなく、むしろ「岐路」という表現が適切かもしれません。
岐路を前にして、自分はどう振る舞い、何ができるのか。
考えさせられる毎日が続きます。