お花、ペンギン、子どもの日
GW前半は、小生、仕事だったので、後半は家族で、毎日、遊びに出かけています。近場でね、近場で。
お花を見に行ったり。
ペンギンを見に行ったり。
毎日出かけていますね。僕とカミサンの性格上、「おうちで一日しんなり過ごすこと」ができないせいもあるのでしょう。とにかく動いていなければ気が済まない。朝出かけ、昼帰ってきてお昼寝をさせ、夕方また出かける、というペースです。結構忙しいね。
今日は子どもの日。TAKUZOは、紋付き袴の衣装です。
めでたいね。
ちなみに、家紋は「クマ」ですけど、何か?
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追伸.
話題の思想雑誌、東浩紀・北田暁大編「思想地図」(NHK出版)を読みました。紹介してくれたA君、ありがとう。社会構成主義に関する問題提起がなされていて興味深かったです。この話は長くなりそうなので、また。
私たちがいわばアクチュアルに体験してきた1990年代以降の日本の思想空間、その全体的傾向をひとつのキーワードで括るなら、おそらく「社会構築主義」、もしくは「社会構成主義」というものになるのではないでしょうか。
(中略)
こうした構成主義的な視座は、フーコーの言説分析や物語論などと合流しつつ、文学、哲学、歴史学、社会学など、様々な領域で、豊穣な成果を生み出すことになりました。しかし、同時にいくつかの隘路にはまりこむことにもなります(中略)
そうしたジレンマを抱え込んだもっとも顕著な例が国民国家論です。それは一定の批判的意識をもちつつ、国民・国家という異質なものの同一性が近代の所産に過ぎないこと、歴史的に形成された物語・共同幻想であることを指摘します。しかし、その仮想的にひとつであったはずのナショナリストたちもまた、「すべてが物語であるのなら、よりよい物語をつくろう」という風に、構成主義的な見解を領有し、自らの物語制作、流布に努めてきました。
(中略)
「構成された共同幻想」を議論の賭け金にしているという点において、国民国家の徹底的な脱構築をはかる人々も、構成主義的な見解を認めつつ「よりよい物語をつくろうとする」ナショナリストたちも同一平面上に位置しているといういえるでしょう。
(中略)
もちろん、構成主義が凡庸化したから批判する、というのではありません。そうではなく、構成主義の成果をふまえつつも、その語り口が陥った隘路を確認することによって、議論が位置づく場を転態させ、現代社会において十分なアクチュアリティをもらう「国家論」、「ナショナリズム論」を展開していくということ。それが重要なのです。
(同書p09-10より引用 北田氏)