プレイングマネジャー考
実際に自分も「プレイヤー」として実務(達成目標)をかかえながら、部下の管理もしなければならない管理職のことを、俗に「プレイングマネジャー」という。
人材育成の世界では、
「最近は、マネジャーはプレイングマネジャー化していますから、なかなか部下育成をする時間がなくて・・・」
といったことが、よく言われる。どちらかというと、現場の多忙感などを表現するような「ネガティヴなコンテキスト」で使われることが多い。
この表現、なんとなくわかったような気もするけれど、僕には少し「違和感」が残る。
そう言われるたびに、
「プレイング」な状態にあるマネジャー以外に、部下を「育てること」なんてできるんだろうか?
心の奥底で、そう思ってしまうのである。
そう思う理由は、認知的な理由と情動的な理由、2つの意味がある。
ひとつめの認知的理由。
確かに「プレイングマネジャー」は忙しく、直接人に教える時間はない。しかし、彼/彼女が「プレイングしている状況」は、常に部下の「まなざし」にさらされている。実際に「直接教えなくても」、部下には、いわゆる「観察学習」を通して、「あんな風にやればいいのか」と学ぶ機会がもてるのではないだろうか。
学ぶの語源は「まねぶ」。つまり、「まねをすること」換言すれば「モデリング」である。「プレイングな状況にあるマネジャー」がある意味で「ロールモデル」になることで、部下は成長するのではないだろうか。
ふたつめの情動的理由。
マネジャーが「プレイング」な状況にあるからこそ、ここぞというときに、何かを言われたときに、「腹に落ちる」のではないか。「あの人が言うんだから、そういうことなんだろう」という感じ。
もし「プレイングしていないマネジャー」に、何かを言われたとしても、素直にその教えの意味を理解できるのだろうか。
言われたことを理解しつつも、心の中では、
「うーん、"あがった人"に、あれこれ言われてもなー」
と思ってしまわないのだろうか。「闘う君の歌」の真贋を、「闘わない人」にあれこれ言われる。このことを、つい不条理に感じてしまわないだろうか。
全く根拠レスで申し訳ないが、以上2点の理由により、僕は「人はプレイングな人から多くを学ぶのではないか」と思ってしまうのである。
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自戒を込めて言うけれど「研究者の世界」も、これに似た構造はある。
職業として大学教員になり、研究室を運営するようになった研究者にも「プレイングな研究者」と「プレイングではない研究者」があらわれてくる。
イメージとしては「自ら本気で取り組む研究をもちながら(率いながら)、時間はないけれど、教えるようとする人」と「自ら本気で取り組む研究はないけれど、教える人」といった感じである(正しくいうと、研究もしないし、教えることもいい加減な人というのもいる)。
もちろん、立場が上になればなるほど、やらなければならないことは、どちらの場合でも格段に増える。それまでと同じような研究スタイルを貫くことは、彼/彼女のどんな努力をもってしてもできない。
しかし、それにもかかわらず、職業研究者は2つのタイプにわかれるような気がする。もちろんのことながら「研究と教育」を両方抱える「プレイングな研究者」の時間はさらに限られる。ゆえに、直接的な学生指導の時間も、なかなかとれない。
しかし、ここが誠に奇妙なのだけれども、多くの場合、卓越した思考をもつ学生は「プレイングな研究者」のもとから育つ傾向があるように思う。直接教えてはいないのにかかわらず、そういう人の元から、いろいろな人材が輩出される。これは、僕の錯覚だろうか。
「教えること」を字義通り解釈するならば、忙しくてスウィング傾向にある!?研究者は「教えてはいない」。しかし、彼/彼女は「教えている」のである。なんか禅問答みたいだけれど、こんな傾向があるように思う。
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人は「プレイングな人」からより多くを学ぶ。
全く根拠のない、言ったもんがちな仮説であるけれど、つい、そんなことを思ってしまう。