「研修」も、「経験」も
「研修」か、それとも「経験」か?
このところ、こういう二者択一の議論が、企業人材育成の一部の関係者のあいだで話題になっているようです。
要するに、企業が社員に提供する学習としては、「研修室による学習」がいいのか、「職場での仕事を通じた経験学習」のどちらがいいのか、という議論ですね。
あるメディアの見出しには
「研修」から「経験」へ
とセンセーショナルに述べられていました。そのような認識が、確実に広範囲に広がりをもちつつあるようです。
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でも、「結論」から述べますと、こうした「二項対立の議論」は慎重になった方がよいのではないか、と思います。
僕の結論は下記です。
一、「研修」も「経験」もともに重要。
一、「研修」で何を学ぶか、「現場」では何を学ぶかを考えて
教育環境をデザインする必要がある
この考えはずっとブレておりません。
ワークプレイスラーニングとは:定義編
http://www.nakahara-lab.net/blog/2007/09/post_1005.html
ワークプレイスラーニングとは:現場の学び編
http://www.nakahara-lab.net/blog/2007/09/workplace_learning.html
ワークプレイスラーニング (Workplace Learning)とは:学習環境のデザイン編
http://www.nakahara-lab.net/blog/2007/09/workplace_learning_1.html
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「中原は研修賛成派なのか?」
上記のようなことを言うと、こんな「誤解」をされそうです。
もちろん「誤解」です。
僕が「仕事を通じた経験学習」のもつインパクトや効果を軽視しているわけがありません。
よく言われているように、「成人の能力開発の70%は、現場での学びによって説明がつく」わけですから、それを棄ててよいわけなどあるわけないのです。
しかし、ともすればいくつかのメディアの論調は、自社の教育体系を「現場での経験」だけで組み立て、また、それを実現する「現場」や「現場の上司」に過度に依存するモデルになりつつあります。そして、これはいくつかの理由で、僕は慎重になった方がいいように思います。
まず第一に、何らかの教訓や持論をひきだせる「よい経験」は「有限=限られている」ということです。
誰もが「ゼロからの事業立ち上げ」などという「良質な経験」ができるわけではないですし、誰もが「修羅場」を乗り越えられるわけではありません。
先行研究が明らかにしているように、日本企業は社員への報酬を「給料」などによって外発的に保証するのではなく、「次の仕事のおもしろさをもって、報酬とする」傾向があります。つまり、「良質の経験」はそもそも限られて配分されます。
「良質の持論や教訓」をひきだすことのできる「経験」は「有限」です。仕事のすべてが「やりがい」があって、示唆にとむわけではありません(そうなるべきだと思いますが)。
「経験からの学習」だけに過剰に依存するモデルだけを、自社の教育体系として採用することは、長期的視野にたった場合、本当に組織の生産性にプラスをもたらすのでしょうか。
僕は経営学者ではありませんので、「生産性」云々については知りませんが、そのあたりがとても気になります。
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第二に、「良質の経験」があったとしても「経験からの学習が成立する」ためには、様々な要因を勘案する必要があるということです。
過去の先行研究の知見をひもときますと、「経験からの学習」の成否には、たとえば「経験の質」「個人が経験から学びを引き出す力」「上司要因」「組織要因」という4つの要因が影響を与えることが知られています。
経験からの学習 = f(経験の質, 個人が経験から学びを引き出す力, 上司要因, 組織要因)
大きな問題は、この4つの要因が個々に「経験からの学習」に作用しているのではなく、非常に複雑にからみあいながら、「経験からの学習」に影響を及ぼすということです(この一部について、東大の我々の研究チームが研究しています)。
要するに、「良質の経験」のみを与えれば「学習はOK」、というわけには行きません。個人がどの程度経験から学べるか、上司や組織の状態・・・様々に複雑に絡み合う要因の「結果」として学習の成否があります。
このことは「経験からの学習」というものが外部からコントロールしにくいこと、換言すれば「部下によい経験を積ませ続けていくマネジメント」というのは、とても難しいことを意味します。
もしそれを実現しようとするならば、「個人の能力」「上司の能力」「組織の風土」・・・様々な要因間の作用を勘案しなければなりません。
「個人のPDCA能力を開発すること」や「上司の理解や支援」をひきだすためには、どうしても「研修」などが必要になるのではないでしょうか。
「組織風土の改革」ということになりますと、「組織変革」「組織開発」をめざすことも必要かもしれません。
いずれにしても、「現場での経験を与えるだけで人は学べる」と考える、一部のメディアの見方は、やや議論が性急かな、と思います。
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第三に、「経験からの学習」を支えるサイクルのうち、重要な役割を果たすであろう「内省:reflection」についてです。
熟達研究の知見によりますと、人が「適応的熟達」をとげるときには、いったん取り組んでいるところから「離れて」、やっていることを内省する必要があるとされています。
しかし、同時に教育学では、この「内省」は一人で行うことが非常に困難なことがよく知られています。皆さん、思考実験してみてください。
「あのー、あなた、ちょっと内省してくださいよ」
こう言われて、「内省ができる人」はどのくらいいるでしょうか。
内省には他者の存在が必要な場合が多いのです。「自己内対話」というのもないわけではないですが、人は自分の行動を振り返るとき、「語るべき他者」「応答する他者」を必要とします。
そして、他者とともに実施される内省のことを、collaborative reflection(協同的内省)といいます。そして、この協同的内省を実現する場所としては、「現場から離れる場所=研修」が非常に大きいのではないかと、僕は思っています。
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クドイようですが、僕は「現場での経験が重要でない」と言っているわけではありません。「現場における経験からの学び」の重要性は、百も承知です。
また、その研究の重要性や意義は大変高いと思います。僕自身も積極的に行っていきたいと考えておりますし、実際に共同研究者の方々とそれを推進しています。
ただ、「研修は時代遅れ、これからは経験、万歳!」のようにメディアのあおるブームにのっかり、自社の学習モデルを、「現場での経験」だけに過剰に依存して設計することは、慎重になったほうがよいのではないか、と思います。
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こういう風に僕が思うのは、僕が教育研究者であることに理由があるのかもしれません。現在の企業人材育成をとりまく状況が、初等教育、中等教育の教育業界の言説空間に非常に似ているのです。
よく知られているように、日本の教育の歴史というのは、「振り子」のように右に、左に揺れてきました。一言でいえば「リジットな基礎基本」と「リベラルな応用学力」の間を常に揺れ続けてきたのですね。
戦後の自由教育、60年代の基礎基本の徹底、80年代のゆとり教育への転換、90年代の総合的な学習の時間の実施、2000年代には基礎基本と反復練習ブーム・・・。
「振り子」のように、ブームが訪れ、右に向いていたものがすべて左を向き、左を向いていたものが右に向く。そういう教育業界特有の「落ち着きのなさ」「すわりどころの悪さ」には、心の底から辟易としているのかもしれません。
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教育業界には「はい回る経験主義」という言葉があります。「体験」や「経験」を重視した問題解決型の教育がブームになった際に、それを批判する言葉として誕生した言葉です。
企業人材育成も「はい回る経験主義」になってはいけないと思います。これまでの「研修」への過度の依存、無批判な実施を反省しながら、「経験からの学習」の重要性を認め、それらを組み合わせ、シナジーをさぐる「第三の道」をめざすべきだと思います。
「研修」か、それとも「経験」か?
ではありません。
まして
「研修」から「経験」へ
でもありません。
二項対立を避け、中庸を主張することが、人を苛立たせ、退屈させることだとはわかっていつつも、僕は思うのです。
「研修」も、そして「経験」も