「批判すること、されること」考
研究発表するということは、自分を「ヴァルネラブルな立場(脆弱な立場)」におく行為である。
誰も知らないあなただけの発見、新たに考案した手法とその有効性・・・あなたが研究発表を行えば - それがセンセーショナルでであればあるほど、他者から「批判」が次々と加えられる。
そこで大切なことは、「批判されている対象」を「誤解しないこと」である。
アカデミズムのルールに基づき建設的な「批判」がなされた場合、他者は「知見」を「批判」しているのであって、「あなた」を「批判」しているのではない。
そこを誤解して、「あの人ったら、わたしを非難しているのだわ」とヒステリックになってはいけない。というよりも、批判をされるたびに一喜一憂していては、アカデミズムでは生きていけない。職業研究者ならなおさらであるが、「批判」は「仕事上のこと」とわりきって、受容されなければならない。
もちろん、他人の批判が、必ずしも「正しい」わけじゃない。冷静なアタマでそれが正しくないと感じた場合には、批判に打ち勝つ「強さ」を持つ必要がある。
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しかし、残念なことに、すべての「批判」が「アカデミズムのルールに基づき建設的になされる」とは「限らない」。そのことが話をややこしくする。
人生いろいろ、研究者もいろいろ。「批判」のルールを知らない「困ったちゃん」もいないわけではない。
例えば、「自分の過去の経験」や「自分の研究」が、ものごとの判断の「公準」になっており、他人の研究をすべてネガティヴにとらえる人もいる。
「誰一人として解決できないアポリア」を無責任になげかけて、初心者の出鼻をくじこうとする人もいる。
批判すること自体が自己目的化し、それをもって「優越的な立場」を築こうとする人もいる。
「批判」には、その人の「知性」が如実に反映されている。
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誰もが、可能ならば「よい批判者」になりたい。そのためには、批判をする前に、いくつか「簡単なチェック」が可能だと思う。
第一に、あなたの批判には「誰もが納得できる根拠や理由」があるかどうか。
意外に「~だと思うんですよね、何となく」「~だと感じるんですよね、経験上」という批判は多い。それは「批判」にはなっていない。「勝手なあなたの思いこみ」である。
「思いこみ」は時間の許す限り当人の自由である。が、当人が言語化できないものは、他者が理解するのは限りなく難しい。よって有益な「批判」にはなりにくい。
第二に、あなたの批判している対象が明確かどうか。
意外なことであるが、「批判対象」が明確でない「批判」は多い。おそらく批判者からすれば「研究の全体が気にくわない」のであろうが、それでは他者が、その批判をどのように受容したらよいのかわからない。何がよくて、何が悪いのか・・・批判対象を明確にする必要がある。
第二に、あなたの批判には「代替案」が含まれているかどうか。
学部時代、筆者がお世話になった気鋭の教育社会学者のK先生は、いつもゼミのときにこうおっしゃっていた。
「批判するのなら、代替案をだせ。代替案なき批判は、批判とは言わない」
ゼミのときに行う「批判」は、一般的に学会でなどで繰り広げられる「批判」よりも、基本的に「援助行為」的色彩が強い。ゆえに、K先生からは「批判のときは代替案をだす」という、わかりやすい提案がなされたのだと思う。
ちなみに、教員の行う「指導」とは「指導学生とのコミットメント」であり「責任のともなう助言」である。それは「批判」とは異なるが、この考察に関しては、別の機会に譲る。
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批判することも、批判されることも、難しい。
感情が先に立ったり、自分の経験がじゃますれば、ともすれば「批判にならない批判=知性の感じられない批判」をしてしまい、自分を貶めることになる。
批判される側だって、批判に一喜一憂していてはサバイブしていけない。また批判に対する「オープンさ」と「強さ」がなければならない。
しかし・・・ここまで散々「批判」について述べたきたというのに、最後に「ちゃぶ台」をひっくりかえすとね・・・
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実は、本当のことをいうと、研究者にとって最も深刻な事態は「批判されること」ではない。「ポジティブな反応=賞賛」でもなく、「ネガティヴな反応=批判」でもないものが辛い。
研究者にとって本当に辛いことは「反応がないこと=無視されること」である。
「批判する」「批判される」というのは、実は「幸せなこと」なんですね。
嗚呼、今日もありがたき幸せ。