ブログ・・・僕の知的生産術!?
先日、共同研究者の方から、こう問われました。
「中原さんはなぜブログを書くのですか?」
この問いにはいくつもの答えがあるけれど、最も大きな理由のひとつは、「自分の考えたことを、いつでも、どこでも検索可能にして、再利用するため」です。
僕は、自分の考えたこと、感じたこと、見たこと、聞いたことを、10年くらい前から、すべてデジタルデータにしています。その一部がブログとして公開されており、下記のように「検索」ができます。
過去のエントリーで「知識統合」について書いたものをグーグルで検索すると、こんな風にババーンとでてきます
http://www.google.co.jp/search?sourceid=navclient&hl=ja&ie=UTF-8&rlz=1T4RNWN_jaJP231JP231&q=%e7%9f%a5%e8%ad%98%e7%b5%b1%e5%90%88%e3%80%80site%3awww%2enakahara%2dlab%2enet
ブログに公開できぬものに関しては、ローカルのコンピュータに保存されています。コンピュータはノートブック型のものを肌身離さず持ち歩いています。
学術論文もほとんどはデジタルデータでもっていますし、必要ならば新聞記事でさえスキャンしてデジタルデータにします。こちらの方も、すべて「検索」ができるようになっています。
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「検索」できるものだけが「存在」する
こういうと、グー●ルの回し者のように思われそうですが、日々、新しい知識が生まれ、消費されていく大学の研究現場では、それをいかに整理して、必要なときに引用し、新たな知識を生み出すかが、重要です。
知識とは、その大部分は忘却される運命にあります。人間の記憶はあまりにフラジャイルなものなのです。
そうであるならば、「覚えること」を脳だけに依存するのではなく、外化し、外部にも分かち持たせればいいのではないか。そして、せっかく外化するのであれば、「検索可能」にしてしまえばいいのではないだろうか、と思うのです。
人間は、決してアタマの中の情報処理プロセスだけで賢く振る舞うわけではありません。外界の「道具」を利用して、時にはそれを、いわば「外部脳」のように利用することができるのです。
クドイですが、その際、もっとも重要なことは「検索可能性」です。このデータは「手帳」に、このデータはコンピュータに、という風に分散し、検索不能になってしまうのではなく、すべての知識を必要なときにアクセス可能、再利用可能にしておくことが重要なのではないか、と思います。
ところで、もう今から15年くらい前の話になりますが、当時高校生だった僕は、大学受験を控え、あることに気づきました。
大学受験では、入試直前まで見ることのできる「参考書」を一冊決めて、そこに知識を集約することが重要だ、ということです。
入試の直前というのは、とにかく「時間」がありません。限られた時間の中で、自分が調べたい知識、記憶していない知識にたどり着くためには、それまでの勉強で培った知識を「分散」させては効率が悪い、ということです。
そのことをつづっている日記が2000年11月4日の日記です。
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2000年11月04日の日記
http://www.nakahara-lab.net/2000diary11.html
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ところで、思い出してみると、僕は「参考書キング」だった。たぶん、全国の高校生の中で僕ほど多くの参考書に目を通している人間は他にいないと思う。
僕の勉強法はこうだった。たとえば、英作文が苦手だとする。そしたら、英作文に関する参考書を10冊ほどごっそりと買ってくる。
受験コーナーにはだいたい「わたしの勉強法」とかいう成功話を納めた書物があるので、それを参考にして参考書を選べばよい。
ともかく参考書を10冊ほど買ってきたら、まず、それらをすべて流し読みする。ざっとでいい。問題なんかはとかなくてよい。赤ペンをもって、今まで知らなかったこと、気になったことに赤をつけながら、約一週間ほどでそれをすべて流し読む。そうすると、赤が多い参考書とそうでない参考書が自ずとでてくる。
そして、1番、赤の多い参考書をメイン参考書とみなすのだ。メイン参考書が決まったら、それはじっくりと問題を解いていく。
そして、同時にメイン以外の参考書の「赤がはいっている部分」をメイン参考書にどんどんと書き足していく。その際には、「その大切な部分がどの参考書に載っていたのか?」を簡単に書いておくといい。つまり、出典を明記しながら、残り9冊の参考書のエッセンスだけを1冊に集めていくのだ。
情報が集約されたメイン参考書は、みるみるうちに、余白がほとんどないほど、情報が詰まっていく。わからない問題、新しく知った事実があるたびに、そこには情報が詰まっていくのだ。
メイン参考書一冊ならば、どこにでも持っていける。入試がはじまる直前まで、それだけ見ていればいいのだ。
今から考えてみると、僕の勉強法というのは、広範に散らばっている情報をハンドヘルド化することに他ならない。また、情報の出典も同時にしるしていくことにもなるので、ハイパーリンクをつくっていくようなものだ。
その当時は、何も思わなかったけれど、実は当時の自分がやっていたこと、というのは、膨大な受験知識をハイパーリンク化して、ハンドヘルド化することだったのだ。
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もしかすると、今も僕は、15年前から同じことをやっているのかもしれません。15年前は「キーワードで一発検索」なんてことはできませんでしたけど、やっていることの本質は、知識の「集約」と「再利用」の促進であることにかわりはありません。
いかに、頼りない自分のアタマに依存せず、知識を再利用するか。僕は、そんなことをずっと昔から考えてきたようにも思えます。
今日も、やはりブログを書きます。
いつ、どんな役にたつかはわからないけれど、やはり書きます。
「書くこと」とは、未来の「思考」のリソースに他なりません。