「ソファから降りる」
人間の「学習」とは「すさまじい」ものです。
たとえば、つい1日前まで、TAKUZOはソファから「アタマからダイビングすること」でしか降りることができなかったのですが、次の日には、「足から降りること」ができるようになっている。
考えてみてください。もし、この動作が「人間」ではなくて、「ロボット」によって行われるのだとしたら、どうなるかを。
確かに、やっていることは「ソファから降りる」だけです。でも、一見単純な動作ですが、これができるようになるためには、おそらく「長いプログラム」か、あるいは、長い「試行錯誤学習」が必要になるのではないでしょうか。
こういう現実を目にしますと、おいそれと、「学ぶ」とか「学び」とか、そういう言葉を使う気にはなれません。
僕らは生まれながらにして「学べる存在」である。そのことを素直に喜び、さらにはその機構に「畏敬の念」を持たなければならないのではないでしょうか。
学べるということは、「とてつもないこと」なのではないか。
「学ぶこと」に心を奪われ、10年以上研究を続けてきましたが、僕は、ようやくそのことに気づきはじめているのです。