「オール」がない
先日、義妹が、いわゆる「オール」の飲み会をやって、朝帰りしてきた。
夜を徹して話をして、酒も相当量を飲んだはずなのに、元気、元気。少し寝て、次の夜には、また「別の飲み会」に出かけていった。あっぱれ、その「元気さ」には、恐れ入った。若いとは、かくいうものなのか。
かつては、僕も、「オール」をしたことがある。学生時分には、盆と正月の限られた期間しか帰省せぬというのに、まともに実家で夕食をとったことがない。気の置けない旧友たちと、夜を徹して、遊んで、飲み歩いていた。
しかし、ここ5年~6年くらいは、そのような経験は全くない。いくつか理由はある。
まず第一に、悲しきかな「カラダ」がついていかない。おそらく、今、オールで飲み会などやったなら、次の日は「廃人」だろう。アタマは痛いし、胃のむかつきに苦しむ。夕方近くまで、無為に過ごすことになることは目に見えている。
社会人を長くやっていると、そういう「飲み方」を本能的に避ける。無意識のうちに、いわゆる「守り」に入る。
第二の理由が家族であろう。この年になってくると、お互いに家庭をもっている人たちも多い。オヤジがベロンベロンになって帰宅する様子は、カミサンにとっても、子どもにとっても、はなはだ迷惑である。
第三に、これが本質的な理由かな、とも思うのだが、「オール」で語り合うほど話題が、年々少なくなっているような気がする。お互いの近況を話し、いくつかの馬鹿話と、いつもの昔話をしたら、おおかた満足してしまう。
かつての僕らには、お互いの人生で重なるべき部分が多かった。また、僕らは「無知なるがゆえのべき論」の世界に生きていた。だから言い合いにもなったし、夜を徹して話すこともできた。
今は、もう別々の人生を歩いていて、そのような「重なり」が少ない。そして、多少なりとも世の中の片鱗を知ってしまった。「そうはいっても、しょうがないよね」というモノイイを覚えてしまった。そんな僕らには、数時間を共有するくらいが、お互いにちょうどよい、のかもしれない。
話は「する」ものよ。「ある」ものじゃないわ
そう書いたのは、岸田國士である。もしかすると、「するべき話」の少なさ、レパートリーの少なさが、最大の問題かもしれない。
こんなわけで、最近の僕は「オールがない」。
オールをしていた頃を懐かしむ一方、なぜだか、少し切ない。