「世界」と「傷」
最近、息子の「世界」はさらに広がっている。
「おすわり」ができるようになり、これまでより、ちょっぴり高い位置から、ものを見渡すことができるようになった。「ハイハイ」を覚え、これまでより、より広い空間を行き来できるようになった。
水平方向にも、垂直方向にも、彼の「世界」は日に日に広がっている。
しかし、「世界が広がること」は、「傷を負うこと」でもある。ゴロンとひっくりがえってはアタマをうち、足を伸ばしては膝をすりむく。先日などは、リモコンをとろうとして、顔を強く打って血を流した。
子どもに「生傷」はたえない。
親がいくら心を砕いて、一挙一動を見守っていても、子どもの動作を完璧に把握することはできない。否、そうするべきでもない。涙を流すときもあれば、時に血を流すこともある。
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「男の子は、そんなことで泣くな、腕もげたら泣け」
「そんなもん、ツバつけとけば治る」
これは、僕が子どもの頃、よく周りの大人たちに言われた言葉だ。「腕がもげるまで泣かせてもらえない」のは、さすが北海道、豪快極まりない。
しかし、僕も同じ言葉を「息子」にかける。
「腕もげたら泣け、ツバつけときゃ治る」
子どもの頃、自分にも生傷がたえなかった。僕が負ったたくさんの生傷を、これから、TAKUもイヤというほど経験するのだろう。親としてはいたたまれない気持ちになる。できることなら、防いであげたい。しかし、それはできない。やむなきことなのだ。
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TAKU。
世界が広がれば、君はもっと「傷」を負う。
今は「擦り傷」くらいですむかもしれない。しかし、「世界」は君に優しく、そして厳しい。近い将来には「擦り傷」ではすまない「深傷」を負うかもしれない。それは「心の傷」かもしれない。
「世界が広がること」は「傷を負うこと」である。
いつしか君は、予測不可能かつ不条理な「方向」から、予測不可能かつ不条理な「悪意」を、必ず受ける。その「悪意」で傷を負うことも覚悟をしなくてはいけない。
イタイのイタイのトンデイケー
TAKUのアタマをさすりながら、僕は、つぶやく。
TAKU。
それでも「世界」は愉快で楽しい。
深傷を負うことを怖れ、自分の「世界」を小さくするほど、馬鹿げたことはない。