オープンエデュケーション(Open Education)の未来

 昨日土曜日、東京大学で、「オープンエデュケーションが切り開く未来」というシンポジウムが開かれました(というか僕は司会者だった!)。東京大学大学院情報学環 ベネッセ先端教育技術学講座の主催のシンポジウムになります。

東京大学大学院情報学環 ベネッセ先端教育技術学講座
BEAT
http://www.beatiii.jp/

 オープンエデュケーション(Open Education)とは、一言でいうと、

「インターネットを使って、教材を無償で公開すること」

 の総称、そういう運動の総称のことです。公開の主体は、主に「大学などの高等教育機関」が多いですね。

 「ははーん、あれね、大学が自分のところの講義を無償公開するやつね、聞いたことあるもんね」

 と思う方も多いのではないでしょうか。

 2001年、アメリカ・マサチューセッツ工科大学がMIT Open Course Ware(オープンコースウェア)とよばれるサイトを開設し、MITの全授業を公開すると世界中に宣言しました。

MIT Open Course Ware
http://ocw.mit.edu/

 それから7年。「オープンコースウェア運動」に関しては、グローバルに展開し、全世界で150の大学が参加するコンソーシアムに発展しました。

 東京大学も2005年より、この運動に賛同し、UT Open Course Wareを開設、「東大でしか聞けない講義の公開」をスローガンに、少しずつではありますけれど、講義の公開をすすめています。

UT Open Course Ware
http://ocw.u-tokyo.ac.jp/

学術俯瞰講義 2005「物質の科学」
(小柴昌俊先生、小宮山宏総長の講義があります)
http://ocw.u-tokyo.ac.jp/course-list/ut-lecture-series/science-of-matter-2005/movies.html

学術俯瞰講義 2006「学問と人間」
(佐伯胖先生、上野千鶴子先生の講義があります)
http://ocw.u-tokyo.ac.jp/course-list/ut-lecture-series/academics-and-humans-2006/movies.html

学術俯瞰講義 2007「社会から見たサステナビリティ」
(緒方貞子先生の講義があります)
http://ocw.u-tokyo.ac.jp/course-list/ut-lecture-series/sustainability-2007/movies.html

 MITがはじめた「オープンコースウェアの運動」。しかし、すべての大学がそれに賛同したわけではありません。いくつかの大学は、教材を無償公開する際に、MITのスタイルとは違ったかたちで、それを進めようとした。

 「オープンソース」と同じビジネスモデルを採用し、出版と連動したかたちで教材の無償公開をすすめようとしている、ライス大学のConnexions、教材を「生の素材」として単に公開するのではなく、インタラクティヴな教材として仕立てて公開しようとしているカーネギーメロン大学の試み。

 全世界では、いまや30ほどのアプローチがあると言われています。そうしたアプローチを十把一絡げに、エイヤッとひっくるめて、オープンエデュケーションというのですね。

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 今日のシンポジウムでは、2008年1月に「Opening up education」という本をMITプレスより上梓なさる予定の飯吉透先生(カーネギー財団)、クマー・ヴィージェー博士(マサチューセッツ工科大学)をお招きして、オープンエデュケーションの最新の動向についてご講演いただきました。「Opening up education」では、37のオープンエデュケーションの主催者たちが、自分のところの取り組みとその教育学的背景について論じているそうです。飯吉先生とクマー先生の講演は、「教材の無償公開」の米国最新事例がよくわかる、とてもinformativeなものでした。

 講演のあとは、山内先生のラップアップをはさみ、恒例のフロアディスカッションへ。お近くの方々でグループをつくり、20分間のディスカッションをして、質問や感想などを出してもらいました。

「質問」「感想」に関しては、予想どおり非常にたくさん寄せられました。「オープンエデュケーションへの問い」は「パンドラの箱」のようなものです。そこをいったん開けてしまえば、次から次へと問いがでてくる。

 下記は、飯吉先生、クーマー先生、山内先生に寄せられた質問の一部を抜き出したものです。問いの多くは、かなり深い。

●オープンエデュケーションの「目的」を一言でいうと何でしょうか? なぜそれがなされるべきなのでしょうか? 「社会知識基盤の整備」でしょうか? それとも「公教育の不信を背景にした教育の代替」でしょうか? 「教育の民営化」なのでしょうか? それとも「大学の宣伝」でしょうか? 

●大学がコンテンツをつくらなくても、いまや、様々な人々がWeb2.0的ツールを使って、コンテンツをつくり、公開しています。そのような中で、「大学」がコンテンツをつくり公開する意味はどこにあるのでしょうか? クオリティが違うのでしょうか? それとも、オーソリティがあるのでしょうか?

●教育/学習用に仕立てられた、いわゆる「教材」は本当に使いやすいのでしょうか? 学校放送では、視聴者に「長い番組を提供するべき」か「短い素材を提供するべき」かという議論がつねにあります。敢えて「教材」を提供するのではなく、「生の素材」を提供するだけでよいのではないでしょうか。あとの利用は、ユーザーにゆだねるべきではないでしょうか?

●「生の素材」を提供すること以上に、「教材」としてコンテンツを仕立てるにはコストがかかります。なぜ、これをなぜ大学が負担しなくてはならないのか? その理由は何でしょうか?

●大学がオープンエデュケーションを推進する理由としては、「広報的価値」以外に何がありますでしょうか?

●オープンエデュケーションを「長続き」させるためには、推進者の「燃えるような情熱」だけではなく、「ビジネスモデル」が必要でしょう。大学や民間企業がどのようなかたちでビジネスモデルを構築することができるでしょうか。

●オープンエデュケーションはボランティアでいいのでしょうか? 提供されるコンテンツにコマーシャルを入れるなどのことは検討されるべきではないでしょうか?

●オープンエデュケーションのターゲットユーザーは「誰」なのでしょうか? 誰が、どのような文脈で、どのように利用しているのでしょうか?

●全員が「自分が得たいもの」をわかっているわけでありません。オープンコンテンツは、自分が得たいものがわかっている人とわかっていない人の格差を広げるのではないでしょうか?

●オープンエデュケーションは「格差」の問題の解決と位置づけられることも多います。しかし、それはテクノロジーを用いてなされるので、テクノロジー格差がもろに反映してしまいます。ゆえに、オープンエデュケーションは「格差の縮小」をめざしながら、「格差を拡大」してしまうというのではないでしょうか。

●オープンエデュケーションで公開されるコンテンツの著作権は誰に所属するのでしょうか?

 会場では、これらの問いに対して、3名のプレゼンターの方々が意見を述べました。この「やりとり」は非常に本質的で大変オモシロかった。

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 ・・・今回のオープンエデュケーションのシンポジウム、僕は、司会者として聞いていて、いろんなことをぼんやりと考えていました。

 まず第一に思ったのは、なぜオープンエデュケーションに対して、これだけの深い質問が集まったのかなぁということです。おもうに、これには、いくつかの理由があると思うんですね。

 一番大きな理由としては、オープンエデュケーションに対して投げかけられた「問い」が、はからずも「大学一般に関係する大きな問い」を投射してしまうからでしょう。

 つまり、

オープンエデュケーションの目的とは「何」で
「どのような人」に対して
「どのようなコンテンツ」を
「どのように提供する」か

 という問いについて「解」を用意するためには、

・社会の中で「大学」とはどのようなものであり、
・「誰」が知識を享受されるべき人間であり、
・大学教員や関係者はどのような役割をもっているか?

 という、より大きな問いに考えざるを得なくなってしまうのですね。そこをすっ飛ばして、オープンエデュケーションだけを議論することって、なかなか難しい。

 さらにいうならば、「思弁的な問いの逆投射」がおこるだけですまないんですね。

「大学とは何か」
「大学教員や関係者はどのような役割をもつか」

 という問いは、「大学関係者のサバイバル」に密接に関係してしまう。

 寄せられた意見の中にも

「わたしは、これからもコンテンツを売って生きていけるのでしょうか?」
「大学教員として、これからどのように生きていけばいいのでしょうか」

 という意見が寄せられていました。

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 いずれにしても、オープンエデュケーションが本格的に離陸するためには、会場から出された上記のような本質的な問いに、何らかの「解」を出す必要があるのでしょう。

 でも、この問いは、「アポリア(難問)」どころの騒ぎではない「アポリア」です。非常に慎重に、様々な角度から、冷静になって考える必要がありそうですね。

 思うに、そのためには2つの議論が「同時」に必要だと思うのです。「教育的価値に関する議論」と「経済的、経営的側面からの検討」ですね。

 前者の議論を主導するのは、21世紀に大学が担うべき役割は何か、という歴史学的かつ哲学的アプローチ、かつ、実際に、デザイン、開発、評価してみたらこうなったという工学的アプローチ、人間に与える影響はこうであった、という心理学的アプローチでしょう。

 後者の議論は、「もしそれを実施したら、どのような投資効果が得られ、逸失損益は何か」という経済学的アプローチ、そして永続的に事業を継続するためには、どのようなビジネスモデルが必要か、という経営学的アプローチから構成されるように思います。できれば、後者を相対化できる言説であった方がいい。

 必要なのは、これらのアプローチのオーケストレーションであるように思います。

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 ともかく、オープンエデュケーションの潮流は、今後も急速な勢いで進行していくような気がします、何となく。大学の思惑とか、大学関係者のサバイバルの成否とは無関係に、そうならざるを得ないんではないかな、と思います。だって、教育素材を無償公開する主体は、必ずしも高等教育機関ではなくて、個人でもいいわけです。
 大学がやろうと、やるまいと、「教育の素材」はネットに今よりもっとあふれるようになる。

 僕は占い師ではないので、その先の未来は、僕には読めません。でも、ひとつ読めることがあるのだとしたら、オープンエデュケーションの潮流の中で、最終的に問われていることは、

「あなたは、どんな社会をのぞみますか?
 その中で教育には何ができますか?」

 ということですね。
 この問いが、我々に突きつけられていることだけは、間違いないような気がします。そして、教育学が社会的合意をつくるための議論の下地を提供しなくてはいけないことだけは、確かなことであるように感じました。

 慣れない司会、疲れました。

 週末はゆっくり休みます・・・・といいたいところだけど、これからTAKUをプールに連れて行きます。それでは。

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 結構、パパが多かったぞ。

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