サルバドール=ダリの名言

 現代美術のアーティストの中で、もっとも有名な人にサルバドール=ダリがいます。恐妻をもち、奇人変人パフォーマンスで世をわかせた人です。「記憶の固執」とか、彼の作品は、かならず美術の教科書にのっていると思うので、多くの方がご存じなのではないでしょうか。

記憶の固執
http://www5.ocn.ne.jp/~thanatos/dali.htm

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 で、彼の言葉にこんなものがあります。

 私はいつも人が見ていないものを見た
 人が見ているものを見なかった
(サルバドール=ダリ)

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 もちろん、ダリほどの天才になれば、「人が見ているもの」を「見ない」で、「人が見ていないもの」を「ゼロ」から「つくる」ことが可能なのだと思うのです。こういうのを「フロム・スクラッチからの創造活動」というのかもしれません。

 が、僕としては、これには少し違和感があります。
 これはいつもゼミなどで言っていることですが、「人が見ていないもの」をつくるには、多くの場合、「人が見ているもの」を「周知すること」が重要です。
「人が見ているもの」を自分なりに消化してはじめて、「人が見ていないもの」の存在がおぼろげながら見えるようになるのではないでしょうか。

「人が見ているもの」を消化するのは、思いの外苦しい作業です。言うのは簡単だが、実行はとても骨が折れる。

 でも、少なくとも僕の研究領域に関する限りは、「人が見ていないもの」を面倒くさがって「見ようと」しない人は、「人が見ていないもの」も見いだせずに終わる可能性が高いと思います。「人が見ていないもの=オリジナル」は、「人が見ているもの」との差異によって生み出される可能性が高いのではないでしょうか。

 否、さらに踏み込んでいうならば、研究だけに言えることではないのではないようにも思います。「フロムスクラッチからの創造」というのは、思いの他、少ないと思うのですね。和歌の世界なら本歌取り、芸美術の世界なら、パロディ、オマージュという表現の形式があります。この世の「創造活動」は、本歌取り、パロディ、オマージュを基本に成り立ってるのではないでしょうか。比喩的に言うならば、

 僕らは、先人の肩の上にいる。

 あるいは、

 私はいつも人が見ていないものを見た
 人が見ているもの「も」見ていた

 ということになるのかな、と。

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 今、見ているものは何ですか?
 人が見ているものですか、それとも誰も見ていないものですか?