中原ピポットターン理論
研究はピポットターンの連続です
この喩えは、僕がよく大学院生さんに話すことです。
ピポットターンとは「バスケットで、片方の足を軸足にて、くるくると回ること」ですね。中学校とかのバスケの時間にやったことあるよね、なんかクスッと笑っちゃう、コミカルな動きの「あれ」です。
バスケでは、両方の足を動かすと、バイオレーション(違反)になります。だから、いったん動きをとめた選手は、必ず、くるくると回り出す。で、パスするのが一般的ですよね。
で、「研究はピポットターン」の言葉の真意、要するに言いたいことは「軸足が大切なんだよ」ということですね。
どんなに新しい領域に自分が着手しようとも、「軸」になる足だけは決して動かさない。逆に、自由になる反対側の足は、縦横矛盾に「くるり」「くるり」と動かす。研究生活では、その「不動の軸足」「自由奔放な足」が大切なのではないか、ということです。
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たとえば、僕は、自分を「教育屋」だと思っています。そして「教育」、この言葉こそが、僕の軸足でしょう。どこにいっても、どんなことを語っても、僕は「教育の観点」からモノゴトを考えようとします。
「あなたは教育じゃなくて、教育工学、学習科学じゃないか」
人によっては、そう考えるかもしれません。ノンノン、チチチ、違うのです、ちょっと待っててね、今、くしゃみするから、ハクショーイ。
「こちらサイド」にいる事情通の<あなた>から見たら、僕は「漢字4字」かも知れません。僕も「こちらサイド」にいるときは、そのように思います。しかし、「動く方の片足」を一歩、教育の外からだしてみてください。「漢字4字」は認知されません。アルファベットや英語なんて論外。
理由、細かすぎて、事情を知らない人には「わかんない」から。全くの他人の手には、あくまで「○○」の「漢字2字分のラベル」しか、用意されていないものです。
(漢字4字の学問が悪いと言っているわけではないですよ、念のため)
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研究とはピポットターン・・・。
簡単にいいますけれど、でも、これはなかなか簡単なようでいて、実は難しいことです。つい、「軸足」を動かしそうになる。自戒をこめて難しいなぁ、と思います。
といいますのは「軸足を固定していること」の方が、「軸足を動かす」よりも、簡単なことなのです。
動かしたあとで、幸せになるかどうかは別にして、「うるせー、こんなくるくるとしたこと、チマチマとやってやれるか!」と、「ちゃぶ台」をひっくりがえして歩き始める方が、どんなに楽か。
でも、両方の足を自由にしてしまうと、かなり深刻な問題が生じます。
研究を世に問うていくには、説得力があり、自信に満ちた言葉や論理展開ができること・・・そういったものが不可欠だと思うのですが、やはりそれには軸足が必要なのです。それが失われる可能性が高い。
あと、最大の問題は、あなたが「何者か」かわからなくなってしまう、という問題です。つまりは、アイデンティティ・クライシスに陥る可能性が高い、ということです。
もちろん、器用な人もなかにはいますよね。両足を自由にしても、饒舌な言葉、シンプルで説得力のある論理を展開でき、キャラたちまくりの人もいる。しかし、一般的にいうと、それはなかなか難しいと言わざるを得ない、というのが僕の見てきたところです。
いくら学際的な領域について研究をすすめようと思っても、「軸足なき探求」は、かなりシンドイものですよ。
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今日は研究について書きましたが、このあいだ、ある飲み屋でこの話をしたら、全然違う仕事をしている人にも、「そうそう」と言われました。
やっぱり仕事は「軸足」がなきゃね、新しいことをやるにしても、軸足を築いて、一歩踏み出さないと。
なるほど、にーちゃん良いこというね。誰か知らないけど。つまり、「研究のみならず、仕事はピポットターン」ということでしょうか。真偽は知りませんけど。
というわけで、ピポットターンの「軸足」ね、これが重要なんじゃないの、いう話でした。「中原ピポットターン理論」、これにて終了。
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追伸.
かくいう僕も、今日は自分の軸足を再認識しました。ある先生にこう言われてハッとした(ありがとうございました)。
「中原さんは今の立ち位置から、モノを考えたほうがいい、敢えて相手の土俵にのらないのがいい」
軸足、どっかりと根におろせ>自分