自立している人間とは誰か?:内田樹氏「期間限定の思想」
内田樹氏の「期間限定の思想2」を読んだ。相変わらず切れ味が鋭い。
「自立している人間とはどういう人を言うのか?」
あなたならこう問われたらどう答えるか。内田氏なら、こう答える。
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支えてくれるものに頼って立つのが「非-自立者」で、支えを求めてくれるものを利用して立つのが「自立者」なのだ(中略)
(前者は)「どこかに堅牢な基盤があるにちがいない」と信じて、それを必死に探しながら他者と関係している。
一方は、「どこにも堅牢な基盤などない」ことを知っていて、他者との「やりとり」の中江バランスを保つことに集中している。
その意識の照準のあわせ方がちがうのだ。
「自立者」というのは堅牢な基盤の上に立っているもののことではない。そうでなはなく、「自分が」つかまっているもの、「自分に」つかまっているもの、そういったすべての関係するファクターの織りなすネットワークのうちに、自分の「いるべき場所」を見つけ出すことのできる人間のことなのだ。
(p24より引用)
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激しく同意する。人間とは、交換・贈与自体に快楽を見いだす。他者との贈与・交換の網の目のなかに、自分はある。このあたりは、最近、僕も勉強をしている「社会観系資本」の議論に通ずるところがある。
おなじ論法で「なぜ仕事をするのか?」という問いにも答えうる。
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仕事をするというのは、他者を目指してパスをだす、というただそれ「だけ」のことである。
私たちは、「自分のために」「自分に向けて」「自分になにかを もたらし来すいために」仕事をしているのではない。
思慮のない若者は、「自己実現のために」とか「オレの生き様を示すために」とか「自分探し?」とかいうが、それは貨幣の意味も市場の意味も知らない人間の寝言である。
仕事の本質は、他者をめざす運動性のうちにある。
(p47より引用)
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いかがだろうか。
最後にもうひとつだけ紹介しよう。最後のお題は、
「なぜ、居酒屋風教育談義が跳梁跋扈するのか?」
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「ほんとうのこと」というのは、決してきっぱり言い切ることのできないものなのだ。私たちは、常に言い過ぎるか、良い足りないか、どちらかであって、決して言いたいことを過不足なく言うということはおこらない。
「ほんとうのこと」を言おうとする人間には、誰も真剣には耳を傾けてくれない。だって、「何」を言っているんだかわかんないんだから。ぐちゃぐちゃしていて(中略)。
人間の社会では、他者に対して政治的優位に立ちたければ、「断定できないこと」についてさえ断定的に語ることが必要であり、断定的に語るためには、自分の「ほんとうに思っていること」を言おうとしてはならず、「誰かが断定的に言ったこと」を繰り返すしかないのだ。
(中略)社会的に非力でものを知らない人間ほど、より断定的になる・・・
(p57より引用)
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この指摘は切ない。