現場を見る目
先日、教職歴30年以上の、あるベテランの先生と、現場に行ったときのことです。
教員を長く続けていた方だけがもっている実践的知識、子どもを見る目の鋭さに、舌を巻きました。
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「中原さん、あの先生の、今の動作を見た? あれはなかなかできないよ。
今、先生が手を離せないときに、あの子どもが、先生に何か言ってきたでしょう。
それで、あの先生、「ちょっと待って」とか言わなかったよね。その作業を既に終わった子どもをちょいちょいと呼んで、二人をペアにしたよね・・・あの先生は力があるよ」
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ほんの一瞬のことなのです。時間にして数秒。
端から見ていると、「確かに一人の子どもが先生のところにいって、違う子どもがやってきて、2名でどこかに消える」という何気ない場面です。それは僕にも「見えて」いる。
だけど、その背後にある意味、そこで動いている教師の意図などは、決して「見えない」。
「見えている」んだけど、「見えていない」わけです。そんなことが、この日だけで何度も何度もありました。
これが「実践的知識」「見る目」なのか、と思いました。そしてアタリマエのことですが、僕にはそれがないと思いました。
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きっとこうした力量は、現場での教育経験を積み重ねて養われたものだと思います。ですので、僕のような外部の人間が、一朝一夕に身につけようとしても、それは不可能でしょう。僕には僕なりの、知の発揮の仕方があるのでしょう。
ですが、一方で、もう少し「現場にいく機会を増やさなければならないな」とも思いました。実践的知識とは言わずとも、やはり、日々続けられている実践に対する、ドメスティックなカンや感覚みたいなものは、ぜひ、もっていたいものです。
外部の人間がドメスティックなカンや感覚をもとうとする場合、それは第二言語として英会話を学ぶことに似ているように思います。かつて、ある人がこんなことを言いました。
「第二言語として英会話を学ぶことというのは、栓のないお風呂に、すごい勢いで上からお湯を入れるようなもの。蛇口を閉めれば、あっという間にお風呂のお湯は抜けてしまう」
現場を少しでも離れると、そうしたカンが働かなくなるのです。
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いわゆるピュアな研究?から見れば、僕の研究は「カタチをつくる - つくる - 現場で使って評価する」というサイクルがありますので、「泥臭さ満点」です。
しかし、「実験としての実践を支える智恵」と、日々現場で続く「日常的な実践を支える知性」の間には、深い溝があるようにも思います。
Back to basics・・・僕は研究者としてのキャリアを、「現場で働く知性を明らかにする研究」からはじめました。それからほぼ10年・・・。その研究を支えてくれた先生の何気ない一言が、胸に刺さります。
「深く考えさせられた一日でした」という紋切り型の言い回しで締めくくるには、あまりに重い。目的語を持たない「考えさせられた」は、「何も考えていない」のと同じですから。
目的語が何かを見つけようと、昨日からため息ばかりです。