コミュニティとは何か?
大橋洋一氏著「新文学入門」を読んでいて、非常に興味深い記述を見つけました。「新文学入門」は、テリー=イーグルトンの「文学とは何か」の解説書。
※ちなみにテリー=イーグルトンの「文学とは何か」は、僕の愛読書のひとつです。
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ギリシアの哲人ヘラクレイトスは、同じ川に二度とはいることはできないと語ったといいます。ところが、弟子筋にあたるクラテュロスは、川には一度として入ることはできないと語ったとアリストテレスは伝えています。
(中略)川という流動体は、分子の集まりであり、どこからが川で、どこからが川でないか、その境界は定かではないということでしょうか。
(中略)文学とは何かという問題をたてるとき、おなじようなことが言えるのではないかと思います。
文学というのは、雲のようなもので、遠くから見ると、金属にも似た強固な輪郭を誇示しているのに、近づくと水蒸気の固まりであって、どこからが雲か、雲でないかはっきりしない。
同じように文学も、遠くから指し示すことはできても、近づいてみると、文学と文学でないものとの境界がはっきりしない。
文学はわたしたちの外に歴然と存在するのではなく、気づかぬうちにわたしたちを取り込み、わたしたちはいつのまにか文学の内にからめとられているのかもしれません。
(p29より引用)
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これは、我々が使う「コミュニティ」という言葉にも言えることです。たまたま昨日、研究会で「学習コミュニティの外縁性」に関しての議論があったのですね。それで、上記の文章を見たとき、ほほーと思った。
コミュニティというのも、遠くから見ているときには「外縁がある実体」のように思えるけど、近くに寄ってみると、自分が今コミュニティの内部にいるのか、外縁を出てしまっているのかがわからなくなってしまう。
しかし、コミュニティを研究するものとしては、そんなにコミュニティが「フラフラ」していたら困る。「いつまでもフラフラしててどうするの、もう、シャキッとしなさい」と言いたくなってしまいます。どうしても、それを実体として把握しなければならないのです。
うーん、どうしたものかね、この矛盾。
悩み深いですね。