「コミュニティ」と聞いたらご用心!
誰かが「コミュニティ」という言葉を口にしたら、まず疑ってかかる必要がある。
「その人」を疑え、というのではない。その人が、何を指し示して「コミュニティ」といっているのか、について言外の意味を含めて、注意深く類推する必要がある。
ベネディクト=アンダーソンのいう集合的虚構としての「想像の共同体」から、「セカンドライフ」風の最新ヴァーチャルコミュニティまで、コミュニティの意味は多様に広がっている。
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僕の研究に近い学問領域でいえば、教育学の人がコミュニティという場合と、工学の人がコミュニティという場合は全く意味が異なる場合が多い。
教育学の人がコミュニティという場合は、「ある複数の人によって「共有できる実践」があり、各人がそれに相互に貢献しあっているような集団」を想定していることが多い。いわゆるエティエンヌ=ウェンガー流の「コミュニティ」である。
ところが、工学の人が「コミュニティ」という場合は、中心に「共有された実践」がない。むしろ、顔も名前も知らないのだけれど、ある関心をもった人たちを称してコミュニティといっている場合がある。相互貢献性のニュアンスはやや薄い。
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まぁ、僕としてはやはり教育学風の「コミュニティ」に親近感を覚える。ただ、それに共感しつつも、「コミュニティ」というのを人に説明するのは、本当に難しいなぁ、と日々思っていた。
そしたら、先日、友人のK君のblogで、ある経営学者の言葉が目にとまった。
コミュニティとは「共通の記憶」をもつ集団である
うーん、わかりやすい。
今度から、そういって説明しようとネタ帳に書き込んだ。「共通の記憶」か。なるほどなぁ。そんな気がするなぁ。