12の春

 昨今は、「18の春」ならぬ「12の春」である。

 本年度、私立・国立中学受験をおこなう12歳は、40万人になると言われている。

 特に、都心は激烈な進学競争が予想される。本日の朝日新聞記事によると、もっとも高い進学率を示しているのは、千代田区39.5%、港区37.4%らしい。

 受験が集中する日には、「クラスメートの7割が欠席してしまう」という異常事態も発生してしまう。

 公立校を避け、私立中学受験を志向する理由は、いくつかあげることができる。もっとも大きな理由は、下記の2点だろうか。

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1.私立では「こういう生徒を育てるために、こういうカリキュラムをつくっている」と親に明示し、その結果をアカウントしている

2.いじめなどの問題行動をおこした生徒に対して、断固たる態度がとれる(ゼロ・トレランスポリシーなど)

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 これはウラを返すと、「公立校では、1も2もできないだろう」と、親自身が認識し始めているということだろう。

 「子どもを預かる学校ならば、このくらいはやって当然なのに、それさえちゃんとやっていない」と公立校を批判する親は多い。一言でいうと、親は教育を「消費」するものだと考え、学校は「サービスの提供機関」だと思っている。だから、「サービス機関だったら、そのくらいやってアタリマエ」の、サービスクオリティを学校に求め始めてきている。

 かくして「公立学校に対する不信感」と「そのオルタナティブとしての私立学校に対する信頼と依存」が渦をまいている。

 いったん親がこういう認識にたってしまった場合 - つまり、「今まで公立学校がなしえなかったことが、当然、学校が果たす義務だ」「学校はサービス機関なのだから、それくらいのことはするべきだ」と、ある一定以上の数の認識された場合 - には、もう公立学校は、今のままではいられない。

「いいや、そもそも公立校とはそういうものじゃない」とか「そもそも教育の公共性とは・・・」という、そもそも論からはじめても、説得力はゼロに近い(はじめたい気持ちはよくわかる)。

 なしえることは、ひとつ。肥大化する親の希望をある程度満たしつつも、社会基盤を構築する役割を担うこと。つまりは、公共性を保てるような「第三の道」を模索することの他はないと、個人的には感じてしまう(専門的な議論は専門の方におまかせする)。

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 そういえば、先日、教育再生会議は、下記のような7つの方針を提出した。

1.ゆとり教育を見直し、学力向上
 ▽基礎学力強化プログラム
 ▽習熟度別指導の拡充
 ▽学校選択制の導入

2.学校を再生し、安心して学べる規律ある教室にする
 ▽出席停止制度を活用
 ▽反社会的行動に対して毅然たる指導

3.すべての子供に規範意識を教える
 ▽道徳の時間の確保と充実
 ▽高校での奉仕活動の必修化

4.魅力的で尊敬できる先生を育てる
 ▽社会の多様な分野から大量に教員採用
 ▽メリハリある給与体系で差をつける
 ▽不適格教員は教壇に立たせない

5.保護者や地域の信頼に真に応える学校にする
 ▽教育水準保障機関による外部評価
 ▽管理職に外部の人材を登用

6.教育委員会のあり方見直し
 ▽危機管理
 ▽教職員の人事権を移譲
 
7.社会総がかりで子供の教育にあたる

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 上記の施策に対して細かいことを問えば、「学校選択制度導入すれば、なぜ、学力が向上するのか」「教員免許をもたない民間人を大量採用すれば、なぜ、魅力的で尊敬できる先生になるのか」など、おおよそ、論理飛躍・根拠レスとしか思えないようなものが散見される。「誰のアタマの中で、この理屈が立派につながってるんだろう・・・」と訝ってしまう。しかし、個々の施策の是非に関しては、ここでは敢えて問わない。

 要するに、再生会議がやりたいことというのは、

「公立校に、私立学校なみのスタンダードを導入しますよ。ひいては、競争環境の中で、質を向上させていってほしいねー」

 ということだと思う。

 一言でいうと、教育再生とは「グローバル化の流れに教育をのせること」であるらしい。トマス=フリードマン風にいうのなら、「グローバル化のための黄金の拘束服を公立校にも着てもらうからね!」ということになるのだと思う。

 いったん公立校が「黄金の拘束服」を来てしまえば、「公立校」という聖域が瓦解し、「公立校以外」との「境界」が曖昧になっていく。その先には、果てない競争空間が広がっている。

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 是非はともかくとして、こうした流れ、つまり「教育のグローバル化」は、私たちが望む、望まないにかかわらず(私たちが世界の王だったら話は別だけど)、不可逆に進行するのではないか、と僕は予想する(あくまで予想する)。それは「教育の世界だけで完結するスタンダード」ではなく、「冷戦以降の世界秩序のスタンダード」であるからだ。

 問題は、もはや2社択一問題ではない。いわゆる「調整問題」である。こうした流れを「やり過ごしつつ」も、教育のもつローカルな特殊性をいかに守ることができるか、ということにあるのではないか、とため息混じりに思ってしまう。

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 話を元に戻す。

 僕も一人の親として、我が子が10年後、どのような進路をとるのか、考えないわけにはいかない。

 タクが「中学受験をするか、しないか」を決定する時期になったとき、僕らの目の前には、どのような「教育空間」が広がっているのだろうか。そして、その教育空間は、我が子が幸せになれる場なのか、そうでないのか。

 親として、いつかこの問題に直面するべき時は、必ずくる。そして、そのことは、子どもをもつ決断をする前から、僕は、教育学者としてわかっていたつもりである。

 それにしても、想像力をフルに働かせ、感情レヴェルで、この問題を見つめるとき、やはり「12の春」は厳しいと言わざるをえない。そりゃ、うまくいけばいい。だけれども、確実に「人生のはやい段階で失敗する大量の子ども」が出てくる。その果てに重松清的な世界 が待っていないとは限らない。

 親としては、そのことを考えるだけで、やるせない。