大学の授業料と奨学金:誰にどんなかたちで投資するか?

 東京大学 大学総合教育研究センター 10周年記念シンポジウム「高等教育の費用負担と学生支援の国際的動向」に参加した。

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東京大学 大学総合教育研究センター
http://www.he.u-tokyo.ac.jp/

シンポジウム「高等教育の費用負担と学生支援の国際的動向」
http://www.he.u-tokyo.ac.jp/

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 アタリマエのことだが、教育には金がかかる。
 国立大学であろうと、私立大学であろうと、一斉講義であろうと、プロジェクト学習であろうと、金がかかるものはかかる。

 同時に、これもアタリマエのことだけど、教育には、知識を与えるべき人間を選別し、知識を配分するという役割がある。「すべての子どもの目が輝く教育」であっても、教育は、この機能を果たす。

 国家レベルから教育を見た場合、どのような人間に教育を受けてもらうか、それにいくら投資を行うかは、国家の将来の卓越性、競争力を追究、維持する意味で、非常に重要である。

 具体的には、授業料をどうするか、奨学金をどうするか、どの程度支出するべきか、といったような「マリアナ海溝」なみに深い問題が生じてくる。

 どのような教育を受けている
 誰に対して
 どの程度
 どのような形式で
 投資を行うべきか

 高等教育の費用を誰がどの程度負担するのか。本シンポジウムのテーマは、このような内容であった。

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 印象的だったのは、ジョンストン先生(ニューヨーク大学・前総長)の話。「どのような奨学金を誰にあげるのか?」について下記のような指摘を行っていた。

 一口に奨学金といっても、いろいろあるよ。親が貧乏な人にあげるのか?、それとも、学業成績が高い人にあげるのか?、また国が強化したいと思っている特定の分野に進学予定の人にあげるべきなのか。

 でも、一つだけ確かな事がある。助成金の絶対金額は落ちているから、すべての人に奨学金をあげることはできない。だから、誰に、どの程度、奨学金をわたすのかは、明確なクライテリア(基準)がなければならない。

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 彼が述べているのは、アタリマエダのコンコンチキである。しかし、ちょっと考えてみればわかるように、この問題に答えることは結構難しいなぁ、と素朴に思った。

 たとえば、「親がカネモ(金持ちの関西弁)で学業成績が高い人」と「親がカネモで学業成績が低い人」だったら、誰も迷わない。

 でも、「親が貧乏でも学業成績が高い人」と「親が裕福で、学業成績が中程度の人」というのがいた場合に、どちらを優先するべきなのだろうか。

 リソースは限られている。何らかのクライテリオンがどうしても必要になる。が、そのクライテリオンを設定する、ということは国が何を重要と考えるか=国の政策に密接に関連している。

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 労働法の改正により生まれた派遣、非常勤職員等の非正規社員。広がっていく所得格差。この動きは、それこそ、「フラット化する社会」の中で、ますます加速化していく。

 現在、日本では無利子の奨学金を利用しているのが8.4%(希望者の7割程度に支給)、低利子の奨学金(望めば誰でも借りることができる)は14.9%であるが、おそらく、この数字は今後もっとあがっていくに違いない。

 小林先生(東大)によると、一般に低所得者層ほど、借金を回避する傾向があるのだという(アタリマエだ)。

 だから本来高等教育にアクセスし、その便益を受けるべき低所得者層が、借金を回避するあまり、高等教育へのアクセスを辞めてしまうのだという。すると、さらに格差は広がる。

 この問題、なかなか一筋縄では解決にたどり着きそうにない。しかし、放置してよい問題では、断じてない。
 
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付記1.
 現在、国立大学の初年度納付金(入学金+授業料)は、817800円、対して私立大学は1110616円であるそうだ。

 僕が入学した頃は、国立大学は70万弱であったように記憶している。少しずつ国立大学も授業料があがっている。

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付記2
 小林先生から報告のあった、東大調査の結果によると、男子よりも女子の方が、親の所得階層によって、大学進学率に変化があらわれるのだという。

 つまり、親が貧乏でも、男の子であれば、大学には進学する。でも、親が貧乏ならば、女の子の場合は進学をあきらめてしまう確率が高い。

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 午後、夕方とどうしても都合がつかず、途中で中座したが、大変オモシロイシンポジウムだった。ふだんは、あまり知らないことばかりで、とても勉強になった。