揺れるアメリカの教育大学院

 某先生に勧められた文献、「学位から見たアメリカ教育大学院」を拝読した。

小川佳万(2002)学位から見たアメリカ教育大学院. 名古屋高等教育研究. Vol.2
http://www.cshe.nagoya-u.ac.jp/publications/journal/no2/11.pdf

 非常に興味深い事実や、指摘がなされていたので一部引用し、ここでも紹介する。

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 巨大なアメリカの大学院の中で、分野別に見た場合、教育分野の学位授与数が修士学位・博士学位ともにトップを占めていることは案外知られていない。

 例えば、1997-98年の学位授与状況のデータによれば、この年に全体で約43万件の修士号が授与されたが、教育分野は、11万5000件と全体の4分の1強を占め、第一位である。また同年の博士号授与件数は、全体で約4万6000件であるが、同様にトップは教育分野で6700件となっている(The Chronicle of Higher Education Almanac Issue, 2001, p.25)。

(中略)

 教員養成課程の中心は修士課程に移行してきている。州によって詳細は異なっているが、一般的傾向として終身免許の取得に修士課程修了を条件にしている州が増加してきていることは確かである。

 例えば、マサチューセッツ州の場合、学部レベルで教員養成プログラムを終了したものには、教員免許が授与されるが、それは5年間の期限限定の仮免許(Provisional Certificate)であり、終身免許(Standard Certificate)を取得しようとすれば、修士課程レベルでの教員養成プログラムを修了しなければならない。

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 上記の事実は、前々から、このblogでも話題にしていたことである。現職教師の43%が修士号取得者というのは、こうした巨大な教育大学院マーケットを背景にしている。

 それにしても、「仮免」と「終身免許」というのがあることは知らなかった。なんだか車の免許書みたいだなーと思うけれど、考え方によっては、いいことなのかもしれない。

 専門職には長い研修期間と、定期的な知識・技能のアップデートが必要になる。少なくともこの制度があれば、5年間は修行期間と位置づけられる。そして、その後、大手をふって大学院に進学することができる。現場の経験をともなって大学院に戻れば、問題意識もずいぶん違うだろう、と推察される。

 ともかく、こういうリカレントが制度的に位置づけられている以上、Master of Education : MEd学位というのは、教員免許に限りなく近いものになるだろう。

 しかし、教員と大学院のつきあいは、これで終わらない。

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 終身免許を取得した教員であっても、ちょうど自動車免許と同様に、5年毎の更新が義務付けられ、その際に教育大学院で開講されるコースの履修をしなければならないことである。つまり、教員は教育大学院と「一生縁を切れない」仕組みになっているのである。ここに教育大学院が巨大になる理由の一つがあるのである。

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 筆者が指摘するように「専門職を大学院レベルの教育課程と結びつけ、
制度化したことがアメリカ的特徴」であり、「特定の職業をターゲットにしないプログラムは存在しないことが、プロフェッショナル・スクールの一般的傾向」である。

 当該人物が専門職を自称する以上、大学院は存続する仕組みができあがっている。

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 しかし、このように見ると、アメリカ大学院の「財政的基盤」「精神的支柱」は盤石であるように見えるが、同論文によると、それは必ずしもそうとはいえないのだという

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1.教員がセミプロフェッションとしての扱いしか受けていないこと
  教員の給与が非常に低いこと
2.教員養成試験への対応
3.学力低下問題への対応

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 などが問題になっている。そして、教育で何らかの問題が発生するたびに、教育大学院は常に批判にさらされ、翻弄されるのだという。

 教育大学院の苦難は、それだけでは終わらない。MEdがほぼ教員養成プログラムと同義の意味をなし、経験中心、実践中心のカリキュラムに移行していく中で、アカデミックなものへの憧憬に常に心を揺り動かされている、という。

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 教育大学院は(プロフェッショナルスクールなのだから)アカデミックでないことには何ら問題ない。しかし、重要なのはこのアカデミックにこめられた非アカデミックに対する序列意識である。

 教育大学院に対して「アカデミックでない」というとき、それは単に分類上の差異を超えて、学問ではない、質が低い、大学の中にはなじまない、等の冷たい視線が含まれることになるのである。

 教育大学院は、巨大であるにもかかわらず、学内的には非常に地位の低い位置に甘んじているという心理的なプレッシャーを感じることになる(Clifford &Guthrie 1988、p.325)。

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 かくして、実務者の博士号としてのEd.Dではなく、研究者の学位としてのPh.Dを輩出することにこだわりが生まれたり、MEd.ではなく、Master of Arts in Teaching(MAT)/ Master of Science in Teaching(MST)という学位の差異化が生まれたりする。

 日本には、そもそも実務者が大学院博士課程にくることは、それほど多いことではなかったので、実質、Ed.DとかPh.Dという区別はあまりない。だけれども、「アカデミズムに対する憧憬」と「実践的であることに対する侮蔑」については、僕もよく理解できる。

 たとえていうならば、「心理学理論より導き出された教え方のテクニックをためしてみる」よりは、「いかに正確な心理尺度をつくり、いかに偏りのない被験者を集め、いかに測定するか」が価値あるものとされる。それは日本にいても、アメリカにいても、あまり変わらない。
 「研究は実践的であれ」と口ではいいながら、「はい回ってどうする?」と心の中では思っている。そんなメンタリティが見え隠れする。

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 アメリカの大学院といっても一様ではない。もしかすると、ここでとらえたも大学院も、ひとつのイメージなのかもしれない。

 しかし、ひとつだけ間違いがないことがあるとすれば、アメリカの大学院「も」揺れている、ということである。

 時に「アメリカの教育大学院は実践的で、日本はダメ」みたいな偏狭なステレオタイプが流布しているけれど、それは全く実像をとらえていない、と僕は思う。

 王道はない。