意味こそ戦争!:功名が辻に思う。
NHK大河ドラマ「功名が辻」を毎週楽しく見ている。忠実に歴史の流れをドラマ上で再現するのではなく、取捨選択をする。あくまで「山内一豊」「千代」の目線から - それが功名とは何か、ということなのだろう - 信長、秀吉、家康の乱世を描く。絶妙な演出にいつも舌をまく。
ドラマの中での山内一豊の葛藤、そして信長、秀吉、家康の人物イメージは、そのまま現世を生きるわたしたちの煩悩、そして日常の風景に直結している。
日本中で何十万人の人々が、ドラマの登場人物の「誰か」に自分を重ねて見ているのだろう。
「オレにはカズトヨの気持ちがわかるよ、彼はオレみたいだ」
「僕の上司は、秀吉みたいに調子のいいやつだなぁ」
日曜日の8時は、そんな風にして終わる。月曜日、また新しい週がはじまる。
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いよいよ物語はクライマックスに入ってきている。関ヶ原の合戦前夜。秀吉死して、家康がまさに実権を握ろうとしているちょうどそのときである。
実力ではすでに家康は日本を治めている。しかし、彼が名実ともに政権を掌握するには、建前がいる。そして諸国に散在する反家康派の大名たちを叩く必要がある。戦がどうしても必要なのだ。
家康は、戦の大義名分をさがす。実直な石田三成、それに続く大名をうまく挙兵させ、秀頼をあくまでたてた上で、彼らをたたけば、もう家康に抗する人間はいない。あの手この手を使って、家康は諸大名達を揺する。この老獪さが、面白くてたまらない。
孫子の兵法にいう。
兵とは詭道なり。故に、能なるもこれに不能を示し、用なるもこれに不用を示し、近くともこれに遠きを示し、遠くともこれに近きを示し、利にしてこれを誘い、乱にしてこれを取り、実にしてこれに備え、強にしてこれを避け、怒にしてこれをみだし、卑にしてこれを驕らせ・・・
家康の戦略は、まさに、この「詭道」そのものであった。実直な石田三成は、これに翻弄される。
けだし、戦いは、兵の数ではない。大義名分、すなわち「戦う意味」である。「戦う意味」を賢明に練り上げることのできる人間が、最後は勝つ。これは現代戦争にも通じることである。
意味の戦い・・・必要なのは老獪さである。
今日の午後8時が待ち遠しい。
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