今日は刺激を受けました!
「いやぁ、今日の○○先生のご講演、非常に刺激を受けました」
「先生の今日のワークショップは大変刺激的な内容でした」
よくこんな言葉を聞きます。
でも、教育や学習に携わる人であるならば、学習者の、こういう物言いを手放しで信用するのはいかがかな、と僕は思っています。
こういうのを、僕の言葉では、「お茶濁しランゲージ」といいます。糸井重里風にいうならば、「オトナ語」といってもかまわないかもしれません。どんなときにも使える言葉であるわけですね。
「既存の何にとって、どこが、どう刺激的だったのか」
「その刺激が、これからの何にとって、どういう意味があるのか」
「刺激を受けました」という言葉を聞いたら、いったん、それを思い切って棄却する。
その上で、もし時間があり、高い教育効果を狙おうとするのならば、「刺激を意味づける時間」を十分確保し、本人にそれに従事させる必要があると思うのです。
そうでなければ、「刺激」は新たな意味構成には至らないことが多いように思います。比喩的な言い方をすれば、「刺激」は「刺激」のままで終わる。
僕の経験でいえば、リフレクションが足りない場合に、「刺激を受けました」は頻発します。あるいは、スゴイカリスマが講演を行ったとき。
そういう場合、多くの発話者は、ほとんど何も考えていないか、あるいは受けた衝撃を消化できずにとまどっている。しかし、消化されない衝撃は、そこでストンとおちるのです。
全く学問的ではないですが、そう思います。
で、そういうときこそ、リフレクションの出番ではないでしょうか。記憶の定着にも結びつきますし、既存の知識と融合して、新たな意味が生まれる可能性がある。
刺激を受けました!
僕はこの言葉をきくたびに、ドキリとします。