愛読書・・・内田樹氏「子どもはわかってくれない」
ここ最近の愛読書になっているのが、内田樹氏の「子どもは判ってくれない」というエッセイ集である。これが、すこぶる面白い。
この書物に僕が引き込まれるきっかけになったのは、「教養」について論じた章を読んで以来である。やや長くなるが、下記に引用してみよう。
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サラリーマン1年生のハラ君が、道場からの帰り道にいきなり「先生、どうして、僕たちの世代の人間ってこんなに教養がないんでしょう」と訊ねてきた。
(中略)
「それは君たちの世代が、ほかの世代に対して閉じているからだよ」
(中略)
問題は若い人々における教養の不足ではない。
「教養が不足している」同時代人としか自分を比較しないので、「自分たちには教養が不足している」という事実そのものが認知されないこということ、これが問題なのである。
(中略)
教養の深浅は、自分の「立ち位置」を知るときに、どのくらい「大きな地図帳」を想像できるかによって計測される。
教養のない人というのは、「自分が何者で、どこに位置しており、どこへ向かって進んでいるか」を考えるときに、住んでいるマンションの間取り図のようなものしか思いつかない人のことである。
教養がある人というのは、世界史地図のような分厚い本を浮かべて、そのどのあたりの時代の、どのあたりの地域に「自分」を位置づけたらいいんだろうと考えられる人のことである。
(-p50より)
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世代間の交通が失われ、「井の中の蛙」的に同時代人の間だけでコミュニケーションが刹那的に消費される結果、わたしたちは「教養」を得る機会を失う。否、正しくいえば「自分が何もしらない存在」であるという謙虚さを失うことになる。
そしてその結果として、「マンションの間取り図」をもってしか、自己定位を行えない狭隘な視野の持ち主 - 教養のない人 - が今日もまた一人生まれる。
悲劇的なのは、かの人の「視野狭窄」は、「同時代人ではない他者」と交わらない限り、認識されることはないということである。人間の目は、「表面に疾病を抱える自分の眼球」を、第三者的な視点から見ることはできない。
上記のような「教養」をめぐる若者の現代的状況に対する内田氏の指摘は、見事に本質を喝破しているように、僕には思えた。そして、この指摘を自分の問題として受け止めた。
なぜか・・・?
その理由は、僕自身が、いつも自分の「教養不足」について、負い目をもっているからに他ならない。確かに、同時代人と話していて、そう思うことはほとんどない。だけれども、いったん上の人たちと議論したり、飲みに行って語らうときなど、僕の「教養のなさ」は、一瞬のうちに露呈する。
ここでいう上の世代とは、50代くらいの方々であろうか。彼らの中には、本当に「博学」な人がいる(そうでない人もゴマンといようが)。
たとえば、数学が専門の人であっても、漢詩を読み、ミシェルフーコーを語ることができる。化学の専門家でも、モーツァルトとシューベルトには詳しい。
社会学が専門の方であっても、不完全性定理については、なんとなくわかっており、量子力学とニュートン力学の違いを、ある程度は説明できる。
あるディレクターの方は、黒澤映画、ゴダールの映画であれば、どのシーンであっても、台詞を言いまわすことができる。
あるWebディレクターは、ポスト構造主義のことなら、何でも説明ができる。
そういう人たちの「地図」は限りなく縮尺が大きい。そして、彼らと話すたびに、僕自身が、そういう幅広い地図を持ちえていないこと - つまりは、僕自身の縮尺がいかにちっぽけなものであるか - を認識せざるを得ない。
もちろん「中原君、ところで○○を読んだことある?」と直接的に聞かれるわけではない。そうではなく、まさに展開される会話に僕自身が十全に参加できない、というその状況によって、すべてはおのずと明らかである。それは非常に悔しいことであるし、残念なことである。
もちろん、やられてばかりいてはイヤなので、僕も読書はする。しかし、追いついていないのが現状だ。
古典を読む前に、自分の日々の問題解決のために振り下ろす「剣」を、眼前にそろえるだけで精一杯になってしまっているのが現状だ。そんな自分に僕は密かに嫌悪感をもっている。
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そんな負い目を感じているせいか、先の内田氏の指摘は腑に落ちた。それをきっかけに、一瞬にして彼の文章の虜になったことを素直に認めざるを得ない。そして、他の部分についても、何度も繰り返し繰り返し、夜な夜な読んでいる次第である。
内田先生の指摘には、そのほかにも目を見張るものがある。その一部を下記に引用しておく。が、もし可能ならば、ぜひ書籍の方をご一読いただきたい。
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「誰にも迷惑をかけてないんだから、ほっといてくれよ」といって、売春したり、ドラッグをやったり、コンビニの前の道路にへたりこんでいる若者たちがいる。
彼らは「人に迷惑をかけない」というのが、「社会人として最低のライン」であり、それだけクリアすれば、それで文句はないだろうというロジックを使う。
なるほど、それもいいかもしれない。でも、自分自身に「社会人としての最低ライン」しか要求しない人間は、当然だけれども、他人からも「社会人として最低の扱い」しか受けることができない。そのことはわきまえていたほうがいいと思う。
(p125より)
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職業選択というのは「好きなことをやる」のではなく、「できないこと」「やりたくないこと」を消去していったはてに「残ったことをやる」ものだとわたしは考えている。
つまり、はたから見て、すきなことをやっていりょうに見える人間は、「好きなことがはっきりしている人間」ではなく、「否なこと」「できないこと」がはっきりしている人間なのである。
自分が何かをやりたくない、できないという場合、自分にそれを納得させるためには、そのような倦厭のあり方、不能の構造をきちんと言語化することが必要だ。
「やりたくないこと」の言語化は難しい。「だって、たるいじゃんか」とか「きれーなんだよ、きれーなの、そゆの」とか言っていると、一生馬鹿のままで終わってしまう。
(中略)「だっせー」とか「くっせー」とか「さぶー」とかいう単純な語彙で己の嫌悪を語ってすませることができる人間には、そもそもおのれの「個性」についての意識が希薄なのである。だから、そのような人間が「好きなこと」を見出して、個性が実現する、というようなことは100%起こりえないのである。
(p114より)
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多くの人たちが勘違いしているが、人間の(市場としての:筆者注)価値は、その人にどれほどの能力があるかで査定されているのではない。その人の「替え」がどれほど得がたいかを基準に査定されているのである。
現に「リストラ」というのは、「替えのきく社員」を切り捨て、「替えのきかない社員」を残すというかたちで進行する。どれほど有能な社員であっても、その人の担当している仕事が、「もっと給料の安い人間によって代替可能」であれば、逡巡なく捨てられる。
(p303より)
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こんな風に、物事に鋭く切り込むことができたら・・・。
眠りにつく前、僕は、いつもほんの少しの嫉妬と焦燥を感じることを正直に吐露せざるをえない。
追伸.
今日から、科学教育学会で筑波です。