魁!学習科学塾:第2日目
朝っぱらから19:00までぶっ通しです。第二回目の「学習科学本読み会」が東京大学で開かれました。
今回も、遠方から何名かの研究者の方々に参加いただきました。今回は総勢15名強で下記の新刊を読み、ケンケンガクガクと議論をしました。
読んだ論文は、エキサイティングなものが多かったです。が、個人的には、ミシガン大学のクラチックさんのものがよかったなぁと思います。
上記の書籍のchapter19かな。彼はプロジェクト学習を成功させる要因について、見事にまとめていました。さすがはミシガン学派のドンですね。貫禄と余裕があります。
それにしても、この本を読んでいて、いつも思うのは、アメリカの学習科学・・・というより「手を動かす教育研究」の「層の厚さ」です。これにはビビルね。
いくつかの論文では、ごくごくアタリマエのことのように、ひとつのプロジェクトの被験者数が、2000人とか3000人とか書いてあるわけです。
もしあなたが英語を読むことに疲れていたりなんかしたら、「はーん、被験者数2000ね、はいはい、そうですか」くらいの反応で、「被験者数の記述」を通り過ぎちゃうかもしれません。でも、これ、よく考えてみたら、すごいことです。この人数は恐ろしい。
だってアンケートやテストを配って、集めるだけじゃないよ。ちゃんと「使用に耐えるもの」を開発して、それを配布して、実践をして、評価をして・・・それでいて被験者が数千単位なんですよ・・・。
そのためには、協力してもらえる教師を数十人集めて、彼らにワークショップを行い、ポスドクをつけて支援。質問紙を大量に印刷し、大量に分析。開発物はバグテストをやりまくって製品に近い状態で出荷し・・・嗚呼、途方もないような努力といいましょうか、労力がかかります。
一体何を食ったら、こういう被験者数を確保できるのだろうね、全く。やっぱり肉食う国は違うねー、とか冗談言ってる場合じゃないんだ。
もちろん、いくつかストラテジーはあります。
たとえば、学校との協業体制の確立・・・。都市の貧困層子弟が通う学校を中心にアプローチを行い、大学とがっちりとした協力体制をつくる。そういう学校は、革新的な教育プログラムを切望していますから、比較的協力を得やすいですね。
また、いったん実施した質問紙は、年度を超えても常に使いまわす、とりあえず被験者数を増やし、比較できるデータを蓄える・・・などなど。
でも、規模の違いに大きく寄与しているのは、そうした教育研究を実現するリソースでもあるように思います。
たとえば、NSF(National Science Foundation)が、2004年からすすめている「science of learning center」プロジェクトの研究費用は、3年間で43億円です。WISE、Learning by Design・・・こうした「手を動かす教育研究」には、どのプロジェクトでも、億単位の費用を国が投資しています。
もちろん、カネだけが重要なわけではありません。いったんプロジェクトが動き出せば、大きなプロジェクトになれば十数名のポスドク、Research Assistant等が雇用されます。プロジェクトによっては、一人のプロフェッサーに10名以上の人間が雇用される場合もあるのだそうです・・・。
なぜこんなに人が雇用できるのか?
その背後には、アメリカの教育学研究者の層の厚さがあるでしょう。これは以前どこかで書いたかも知れませんが、アメリカでは1年間に教育学博士が6716人、教育学修士が12万9066人(2000年度)生まれる。対して日本は何人かというと、博士号が90名。教育学修士が4368名ですね。
アメリカと日本の人口差は約2倍ですね。そして、高等教育のもっている強さは、アメリカが桁違いに違う。でも、これらの事柄をすべてあわせて考えてみても、修士号、博士号取得者が多いのは歴然とした事実です。だって博士号が60倍以上、修士号は30倍近くなのですから・・・。
そこでこういう人たちを、大量に雇用できるわけですね。この「層」が違う。彼らが有能なのか、そうじゃないのかは論じません。優秀な人もいれば、そうでない人もいる。だけど、重要なことは、優秀じゃない人もいるかもしれないけど、ある一定以上の専門知識を有した人間を大量に生産し、それを消費するシステム、リソースがある、ということなのです。これが決定的に違います。
ちなみに、これは話がズレますが、米国の大学では、プロフェッサーの給料は9ヶ月しか保証されていない大学もあります。そういうプロフェッサーは、獲得した研究費から一定額を自分の給料とすることができるそうです。また、ティーチングロードなどを減らすために、自分の授業をやってくれる人を探して雇用することもできます。これで「考える時間」を確保できるというのが羨ましいですね。
日本では、プロジェクトが増えても、ほとんど給与には連動しませんし、もちろん普段の負荷が減るわけではありません。お金をとってくればくるほど、忙しくなる仕組みです・・・。
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もちろん、こう言ったからといって「教育学研究にもっとお金を落として下さい」と言いたいわけでもありません。また、「お金があれば、いい研究ができる!」なんてことを主張したいわけでも、毛頭ありません。法人化の大学は、ずいぶん、研究もやりやすくなりました。
それに、もし万が一、現在の日本の高等教育のシステムで、もしアメリカ並みの予算があったとしたら確実に破綻でしょう。そんな大量の資金をまわせるヒューマンリソースが圧倒的に少ないですので。
だけれども、僕が言いたいのは、いわゆる教育学研究のグローバルスタンダードとは、こういうスケールで勝負しているということです・・・思わず、嘆息がでてしまいます。
昨日の話じゃないけれど・・・
「がんばれ、ニッポンの教育研究!」
と思わず叫びたくなります。
もちろん、その前に
「激しくがんばれ、自分」
でもあるわけですが・・・。
頑張るよ、嗚呼、頑張りますとも.
ほしがりません、かつまでは。
自爆。