「本番」の中で学ぶ
昨日のエントリーにもやや関連があるのですが、実は、ある認知科学系のメーリングリストで「徒弟的学習」について、最近、やりとりがありました。
発端は、「イタリア料理屋に勤め始めたの新入りに対して、サラダづくりを、どのように教えるのか」という話題に僕が反応したことからはじまりました。
サラダは、一皿千数百円するもので、かつ、直接「お客」に出されるものだそうです。要するに、「失敗」は許されないわけですね。いわば「本番」の中で、新人は学ばなければならない。
ある先生は、仕事場の学習の場合、「プライオリティは本番の成功にあって、徒弟の学習は必要な副産物となっている」という鋭い指摘をなさっていました。この点は、この点は、「失敗」が「練習」という名で呼ばれ許容されることの多い学校的学習とは、ちょっと違う側面があるとのことでした。まさにご指摘のとおりだと思います。
いつもとにかく本番、うまくいってアタリマエ。
そうした厳しい環境の中に学習が付随するわけです(もちろんOff-JTの場合はこの限りではありません)。
これに関連して、ここ数ヶ月、僕は、ドラマ「医龍」を見ていたのですが、このドラマでは外科医の研修医がいい役を果たしています。
外科研修医の学習も、明確に場がブレークダウンしてしまうような失敗は許されないわけですね。
万が一もし失敗をするにしても、局所的なエラーとして処理できるもので、かつfatalなものではない(患者としてはコワイ限りですが・・・)箇所を見いだし、その部分の処置をまかせ学ばせることいったようなことを、折に触れ、行うのでしょう。生き死にの「本番」の中で、新人は学ばなければなりません。
ここで僕は「仕事場の学習」と「学校的学習」を対比させて考えていますが、断じてそれらの優劣を論じたい、とかそういうことではありません。
興味をもつのは、この「本番性」という奴です。それが学習に与える影響について、何だか言いようのない興味をもってしまいます。
というのは、教育の世界では「失敗しても、そこから学べばいい」という支配的な価値があります。いわゆる「誤りから学ぶ」という方略です。
しかし、逆に「失敗出来ないからより学べる」ということもあるのではないか。「失敗できない環境で、プチ失敗をすることで、より深く学べるのではないか」と思っちゃったりもするのです。
もちろん、すべて世の中にある学習を十把一絡げに論じるつもりはありません。世の中には文脈によって、いろんな学習が日々行われています。場合によっては、「失敗が許される場合」もあるし、「失敗が許されぬ場合」もあるでしょう。
しかし、「失敗」や「本番性」ということをキーワードにして、学習の現場を見ていく研究って、オモシロイよなぁと思ってしまいます。このメーリングリストでのやりとりは、そんなことを気づかせてくれました。
ちょっとマニアックな関心かもしれませんが。