東京人になる
先日、ある人と「自分が、東京人になったなぁと思った瞬間っていつ?」という話で盛り上がった。僕も彼も田舎出身者で、大学進学と同時に上京し、今ではもう十数年ここに住んでいる。そんな僕たち自身が、いつ、「自分も東京の人だと思うようになったのか」ということについて話していた。
少し考えてみれば「東京人」という概念は、どことなく変な気がする。生まれも育ちも「江戸っ子」というなら、話はわかる。
しかし、どこかで聞いた話では、東京にすむ人々の約半数以上は、田舎出身者らしい。そうであるならば、東京人というのは人の属性をさすものではないと考えることも可能である。その場合、それはむしろ、後天的に「学習された結果」ということになる。
ボーヴォワール風に比喩的にいうのであれば、
東京人として生まれるのではない
東京人になるのだ
ということになる。
僕の場合、「東京人になったなぁ」という瞬間は、2つある。
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1.夏に背中に汗をかいて歩いていても「ちょっと暑いなぁ」くらいしか感じなくなったこと
2.最寄りの駅ではなく、ちょっと遠い駅からでも、歩いて目的地につくことができるようになったこと
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1については、言うまでもない。北海道出身の僕は、上京当初、夏の暑さにやられて、「ヒッキー寸前」に陥ったことがある。
確か、記憶では、僕が上京した94年は記録的な猛暑だったはずである。家の外をでると、即、38度。毎日毎日そんな日が続いた。まさに灼熱地獄である。
なにせ、僕が18年を過ごした北海道は、胸をはって「夏だなー」と言えるのは8月の前半から中旬にいたるわずか2週間ほどしかない。
お盆を過ぎると、北海道の人は、「なんか、最近、朝晩冷えるもねー」なんてのが、朝晩の挨拶である。そんとこから、38度空間に、突然来たら、死ぬで、そら。
結局、家の中は、「アンタ、ここはシベリア?」ってくらい、クーラーをキンキンにきかせて、一歩も外に出ない日がずいぶんと続くようになってしまった。それで友達もすいぶん失ったねー(笑)。苦い思い出である。
それが、あのね、だんだんと慣れてくるのよ。
あんまり「暑い」と思わなくなってきたってーのかね。今では、きっと、みんなよりも僕の方が「暑さ」耐性が強いと思います。みんなが「今日は暑いねー」と言っていても、「そう?」なんて言っている。血行悪いだけかもしれないけどさ。
昔の僕は、外を歩いていて背中に汗をかくと、それだけで耐えられなかった。だけど、今じゃ、フツーに歩いてるよね。
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2つめは、つまりこういうことです。たとえば、今、秋葉原にいるとする。そこから淡路町に行って、藪でソバを食いにいくぞーって話になるとするよね。
そうすると、昔の僕ならば、秋葉原からお茶の水にいって、で、そこで乗り換えて淡路町に行っていたと思う。いうなれば、「乗換案内」そのもののルートで動いていた。
だけれども、今だったら、秋葉原から南下したくらいが神田だろって、鳥瞰図的にわかっているから、とりあえず南にいくと思うんです。で、あっ、ここの通りだったら、淡路町はこっちだよなーという感じで、たぶん歩いて、目的地につけると思う。
つまり、前者は、いつも毎日「川口浩探検隊」なのですよ。地図をもって、ルートのとおりに冒険しなきゃならない。
だけど、今はバードビューを手にいれた気がするのです。いったんバードビューを手にいれると、東京って、駅と駅の間が近いから、かなりの部分は歩いて目的地につけるんだよね、そういうところが本当に変わった。
そして、歩いて目的地にたどり着くことができるよなー、とふと思ったときに、僕は、「オレも東京人になったなぁ」としみじみ感じたことを思い出します。
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まぁ、東京人という言葉はこの際、どうでもよい。
だけれども、きっと、人それぞれ、昔を思い出してみれば、今住んでいる地域になじんでいくプロセスってあると思うんですよね。
本当は、そういう学習のプロセスが、アイデンティティの問題と結びついているんでしょうけど。
そういうの、オモシロイと思うなぁ。