学校選択制度の果てにあるもの?

「教育機関が競い合うことで、教育の質はよくなるはずである」

 これは、多くの人々が共有している<常識>ではないかと思います。

 しかし、この<常識>はいくつかの事柄を前提にしています。

 ひとつめは「ある一定期間において、教育の質が誰の目にもわかるかたちで、測定され、表現され、伝えることができなければならない」ということです。

 もうひとつは「公開された教育の質がきっかけとなって、教育機関の競い合いがおこらなければならない」ということですね。

 つまり、教育機関側は、教育の質を、第三者が了解可能なかたちで、表象する必要があります。そして教育機関を選ぶ側が、判断の際に「教育の質」を把握し、判断し、それに基づいた意志決定が起こらなければなりません。

 しかし、一言でまとめてしまうのは簡単なのですが、これはそう易しいことではないように思います。

 教育の質を表現することには、膨大なコストがかかりますね。先生はまた作業負担を強いられる。ともすれば、「評価のための作業がふくれあがり、授業研究はさっぱり」という逆転現象が生まれてしまうこともありえます。また、どんなによい教育を行っていたとしても、教育の効果が必ずしも短期間に発露するわけではない。教育というものはそういうものです。
 
 万が一仮に教育の質を、親に公開しえたとしましょう。しかし、実際に親が、学校を選ぶときに判断の基準とする指標は、そんなことではないかもしれない。

 「家から学校が近いから」とか「学校の人数が多いから」とか「あまりガラのよくない地域にあるから」とかいう理由かも知れません。

 また古くから「あの学校からはよい学校への進学者が多い」という、あまり根拠のないブランド化した学校イメージが流布している場合、それが一人歩きしてしまって、親の意志決定のインパクトファクターとなってしまう。

 かくして「教育機関が競い合うことで、教育の質はよくなるはずである」という命題は、必ずしも真ではなくなる可能性がでてきます。

 ・・・ただし・・・じゃあ、そうかといって、このまま何の「劇薬=外部刺激」も導入しないで、学校の自己組織化作用だけで、学校を変えることができるのか?

 これはかなり難しいだろうなぁ、という社会通念があるように思います。少なくとも行政官や親の中には、「内部からの学校変革の可能性」を信じている人たちは、あまりいないのではないでしょうか。

 ここに最大のディレンマがあります。

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 本日の朝日新聞、「競争導入で光と影」は、公立学校の学校選択制度についてでした。

 いったんよいイメージがついた学校は、栄えていく。しかし、競争に敗れた学校は、どんな教育内容を精選しても、固定化した悪いイメージを変えることは難しくなる。学校版「The rich get richer」が少しずつ進行している、という話でした。

 かつて学校選択制度が議論されていたとき、「人数の少ない学校では、少人数教育ができる。教育の質をわかる親たちは、そういう学校を選ぶだろうから、人数の多寡は是正される」という話がまことしやかに語られていた時代がありました。

 もちろん、まだ制度が導入されて、あまり時間がたっていません。どのような事態が起こるかは、まだわかりません。

 我々は競争の果てに、どんな学校の姿を見るのでしょうか。そして、その学校は、私たちの知る「学校」なのでしょうか。「学校選択制度」による学校改革は、こうしているあいだも、静かに進行しています。

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