詰め込み教育のこと
「耳の穴かっぽじって、よく聞きなさい。理屈なんてあとからついてくる。アタマの中に、先生の言うことを詰め込みなさい」
「詰め込み教育はダメなんです。そういう教育で人間性が失われ、いじめが増える、不登校が増える結果となるのですから」
「早期幼児教育ですよ。幼児のアタマは柔らかいのです。そのうちに全部丸暗記、詰め込んでおくべきなんです」
世の中では、「詰め込み教育」という言葉を含む様々な教育言説が存在する。
それにしても、この「詰め込み教育」という言葉は、僕にとっては本当にオモシロく感じられる。
1)詰め込み教育という言葉の内実が議論されぬまま用いられていること、2)「詰め込み教育か、ゆとり教育か」みたいな感じで、「詰め込み vs アンチ詰め込み」が語られていることから、どうも奇異に感じられて仕方がない。
教育工学や学習科学の観点からいえば、そうした問題の切り取られ方に欠けていることのひとつは「そもそも知識は詰め込めるのか? 詰め込めないのか」ということだと思う。
「詰め込むべきか、詰め込まぬべきか」そして「詰め込めるのか、詰め込めないのか」・・・非常に似ているけれど、この2つの問いは根本的に異なっていることに注意が必要だ。
詰め込み教育というものの実態がどのようなものであるか、そこが実は本当に議論する必要があるところなのだけれども(先にも述べた、ここが一番のポイントだったりする)、それが仮に「脱文脈化した知識や手続きを記憶し、その知識をもとに他の問題を解決することをめざすこと」だったすると、僕はこう言いたくなる。
「知識を詰め込むべきだという議論は、いったん脇においておいて、そもそも知識は、そんな風に詰め込むことができるのですか?」
1980年代、90年代の認知科学、学習科学が明らかにした知見によると、その答えは必ずしも肯定的なものではなかったはずである。たとえ記憶ができたとしても、領域固有の問題があったりで、必ずしも他の領域に知識を活用することが難しかったことは記憶に新しい。
そうだとすると、「詰め込めないものを、詰め込むべきだ」というのは、根性論や精神論の世界の話だと思ってしまう。
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雑誌では、今日も「詰め込みか、否か」という問いがたてられ、<教育評論家>が意見を戦わせている。今週号AERAには早期幼児教育の記事が掲載されていた。それによると、激烈きわまる受験大国、韓国では、「詰め込み教育からの揺り戻し」がきているのだという。
またも振り子は、揺れるのか?
・・・無反省に、そして根拠レスに。
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