安野モヨ子、「働きマン」:24h働けますか?
安野モヨ子の漫画「働きマン」を読んだ。
主人公である松方は、雑誌「JIDAI」の29歳未婚女性編集者(元巨乳らしい)。通称「働きマン」。新しい企画を日々提案しまくり、また、スクープに命をかけている。あまりの激務のために彼氏との関係は最近パッとしないけれど、自分の仕事に誇りをもっている。
彼女の周囲には、様々な「事情」をもった人たちが働いている。言うことはいつも一人前だけれども、何一つ仕事のできない新人。社会に求められる行為だとしてパパラッチを続ける芸能記者。「働きマン」は、そんな彼女と周囲の人々のかかわりを中心に、「働くとは何か?」「人生において仕事とは何か」を描いている。
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読んでいて、いくつかの想いがアタマをよぎった。
まずまっさきに思ったのは、この漫画にでてくるような人たちが、僕らの読む雑誌、参加するイベント、視聴するテレビを支えているんだなぁ、ということ。僕はマスコミにいるわけじゃないけれど、なんだかそういう人たちの「日々の奮闘」にささえられ、僕らのメディア空間が構築されていることを、今更ながら考えた。
次に、アタマによぎったのは「仕事にうちこむことの快感」。
「働きマン」のように働くってことは、一見、大変なことのように思えるけど、没頭してしまうと、僕らはその状況がだんだんと見えなくなってくる。
かつてチクセントミハイという心理学者は、フロー理論というのを提唱した。フローとは、ある事に打ち込み集中・没頭している状態のこと。人はフローを経験すると、やっていることに完全に集中しているため自我がなくなってしまい、自分の行為が環境を支配しているという感覚におそわれるようになる。「仕事に打ち込むことで快感」はかくして生まれるのではないか。
しかし、同時にこれは大変危険な状況を生み出すのではないかと思う。僕の同期でも、あまりにも仕事に打ち込んで、カラダを壊す人は大変多い。最近では、ココロを一時的に閉ざしてしまう人も多い。先日、ある新聞でよんだ記事には、「鬱は生涯に25%の人が経験すること」なのだという。
働きマン的な仕事の仕方は、それはそれでいい。
だけれども、これが過剰に拡大解釈され、「24時間働けますか?」「3日間、家にかえってないんですけど」状態になるのはきわめて危険であると思う。
さらに厄介なのは、先のフローではないけれど、そういう状況になると、その危うさは、本人には見えないのである。他人は「なんかあの人危ないなぁ」とわかっているのだけれども、何にもいえない。さらに本人は「自分の仕事」に酔っているところがあるので、さらに指摘は難しい。
「無理すぎる無理はいけない」
「休みはキチンととるべきだ」
アタリマエのことなんだけど、そう思う。
そういえば、先日、ある外資系企業の方から聞いた話なのだが、その企業に勤める外国人マネージャは、「金曜日の7時以降から週末は仕事をいれるな」と公言してしているらしい。そのかわり、ウィークデーはバリバリと働く。そういうメリハリのある仕事の仕方はとても憧れるし、100%同感である。それでいいんだと思う。
そうはいいつつも・・・以前日記に書いたかもしれないが、僕は研究者にならなかったとしたら、雑誌の記者、編集者になりたかった。翼の王国とか、東京人とか、そういうプチ贅沢+リラックス系の雑誌をつくりたいと思っていた(今でも思っている)。
人生に「もしも」はないけれど、「もしも・・・あのとき大学に残る道を選ばなかったら、僕もきっと”働きマン”になったんだろうなぁ・・・」と考えた。
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