流行としてのプロフェッショナル
「プロフェッショナル」という言葉が大流行ですね。
あの名番組「プロジェクトX」の後継番組の名前は「プロフェッショナル」ですね。
プロフェッショナル
http://www.nhk.or.jp/professional/
あと、出版業界でもプロフェッショナル論が流行しています。B-ingの「プロ論」とかね、大前研一さんの「プロフェッショナル」とか、ずいぶん話題になっているようですね。
世の中いろんなところにプロ意識がある人たちが増えていくことは、大いに歓迎することなのですが、ただ、何でもかんでも、「プロフェッショナル」という言葉で言い表してしまうことに関しては、どうも、僕には違和感があります。
よく知られているようにプロフェッショナルの定義には、いろいろなものがあります。これは事実です。数限りない。
医療には医療の世界の定義がありますし、法律には法律の定義があります。もちろん、generalにプロフェッショナルとは何かを論じた研究もあります。が、ここではそれを議論しません。おおざっぱに、いろんな定義を共通すると、下記のような項目が共通点としてあげられる、という認識からスタートしたいと思うのですね。
おおざっぱにいいますと、プロフェッショナルとは、
1.公につくす職業であること
2.業務遂行に必要な体系的な科学的知識・技能があること
3.高い倫理綱領があること
4.同業者団体に所属すること
5.知識をアップデートしていく必要があること
こういう人のことをいうのですね。これだけ見たら、なんだかスゲーと思ってしまいがちではあるけれど、どうも、こういう人みたいです。
で、上記の定義の中の、特に1が問題だと思うのです。
世の中で流布しているプロフェッショナルには、どうも1の側面が欠けている傾向があって、それに違和感を感じます。
1の「公に尽くす」という側面ですが、もともと、Professというのは、「公に誓いをたてる」という意味なのですね。英英辞典で調べてみて下さい。きっとそういう意味がのっていると思います。
で、その誓いの前に、人々からリスペクトされてあるパワーを付与される。
フツーの人にはできない、フツーの人にはマネできないチカラを行使できるパワー - たとえば弁護士であったら、法律のナレッジベースをつかって裁判にたつという特権、医者であったら、医学の膨大なナレッジベースを背景に、手術をするという特権が、与えられているわけです。
で、そういうパワーを付与された人が、「プロフェッショナル」なわけですね。で、そういうパワーは、人々から与えられたものなので、人々に返さなくてはならない。だから、よく知られているように、プロフェッショナルのシゴトには、公共性が必然的についてまわるというわけです。
ところが、世間で流布しているプロフェッショナルのイメージというのは、まさに中村モンド、「必殺仕事人」ですね。一般には、ワザさえあればプロフェッショナルということになる。ヒドイものになれば、シゴトがたくさんくれば、プロフェッショナルとよんでしまう議論もあります。あるいは仕事に哲学をもっている日とのこと、流儀のある人のことを、プロフェッショナルとよんでしまう。細かいことはどうでもいいのかもしれませんが、このあたりが、どうも僕の違和感につながっているところです。
とはいえ、牧師・弁護士・医者・教師だけをプロフェッショナルと呼べと言いたいわけではないのです。時代に応じて概念は変わっていくのが必然でしょうから、それが指し示す範囲も拡張していくのでしょう。
ただ、もしプロフェッショナルというからには、「公共性」を意識して欲しいと思うのです。人々を喜ばせたり、救ったり、支えたり・・・自分のシゴトの背後に、そうした側面を見る人を、プロフェッショナルと呼んでほしいな、と思ってしまいます。人々から託されたパワーを人々にかえすという意識のあるヒトです。自分だけ儲かる、というのはちょっと違う。
その意味では、プロフェッショナルと一般には言われる人でも、プロフェッショナルではない人もいる。一般にプロフェッショナルとは言われない職業でも、プロフェッショナル的側面をもっている人はいる。そういうことになりますね。
たとえば、耐震強度偽装問題・・・建築家はプロフェッショナルのひとつでしょうから、これはプロフェッショナルのおこした犯罪と考えていい。この問題の一番キツイところは、人々から与えられたパワーを、人々から寄せられたリスペクトを裏切ってしまった、ということにあるのだと思います。
前に書いたように、プロフェッションは、人々の期待に裏打ちされて成立しています。そうであるならば、人々を裏切ると、プロフェッショナルそのものへの信頼を裏切ってしまう。これは痛いと思うのですね。
プロフェッショナルの時代だそうです。
みなさんはどう思いますか?