コンテンツの囲い込み
新しいメディアがこの世に登場するたびに、繰り返されるのが「コンテンツの囲い込み」というやつです。
要するに、これまで既存のメディアで利用されていたもの、たとえば、番組、音楽といったものが、新たなメディア上でも利用できるように、作り直されたり、権利処理されたりするのです。
そういうプロセスをへて、なるべく多くの「コンテンツ」を独占したものが、新しいメディアでの覇権を握ると考えられているのです。コンテンツホルダーのもとに、将来の儲けを夢見る企業が殺到します。
この世界は先行投資による利益独占がモノをいいます。いったん囲い込まれたら、あとから挽回することはとても難しいのです。ネットの世界では、ひとつのサービス領域に、1つの有名なサイトがあればよいのです。だから、どんなにカネをつんでも、有力なコンテンツを、今、囲い込もうとするのです。
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でも、話しはそう簡単ではありません。
「今までのものを作り直したり、権利処理するのは、新しいものをゼロからつくるよりも、費用や労力がかかったりする」ことが多いのです。
特に権利処理の場合は、深刻です。
よく「これからコンテンツの時代になる・・・だからコンテンツを持っているものが勝つのだ」といいますね。これは半分はあたっているけど、半分はウソです。
たとえばテレビ局などは「コンテンツの著作権はもっているかもしれませんが、二次利用する際には、新たに権利処理を行う必要」があるからです。それが異常なほど煩雑なのです。
つまり、「コンテンツは持っているけど、使えないものが多い」のです。その意味では、ほとんど「持っていない」ことと同義かもしれません。
将来、二次展開やMM戦略をとるものは、最初からすべて権利を押さえないとダメなのです。最初ですべての勝負はついているのです。
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このところ、コンテンツ業界が動いていることをヒシヒシと感じます。
僕は大学の人間ですので、もちろん、それに直接関わっているわけではありません。ただ、仕事柄おつきあいする方の話しを聞いたり、うわさ話を耳にしたり、はたまた彼らの動きを見ていると、イヤがおうでも、そう感じてしまうのです。カミサンとも、そうした話しをよくします。
先にも述べましたとおり、多くの場合、コンテンツは再利用が難しいものです。権利がクリアでない古いものを処理するくらいなら、新しいものをくった方が、話しが早いことが多いといいます。
とはいえ、予算は無限にかけられるわけではありません。新たなコンテンツの開発費を回収可能な額にするためには、開発の初期投資を押さえる必要があります。
ということは、低予算でクオリティの高いものがつくれるクリエータが注目されます。「低予算でクオリティの高いものがつくれる」ということは、どういう意味でしょうか。端的に言ってしまうと、「創作を行ううえで、あまり分業をせずに、自分ですべての工程をやってしまえる人」ということだそうです。
しかし、当然、そういう人は決して数がいるわけじゃない。たとえば、アナログで絵もかけて、デジタルにも強くて、映像のこともわかる・・・みたいな人は、限られているのだそうです。
そんなわけで、みんなが、そうした人のところに殺到するのだそうですね。
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しかし、「コンテンツの囲い込み」の歴史は、ビジネスとしての失敗の歴史でもあります。
最初は世間に注目され、消えていくメディアの数に思いをはせてみてください。その背後には、無数の、誰の目にもとまらなかった、囲い込まれたコンテンツがあるのです。
そういう意味では、コンテンツビジネスとは、かなりバクチに近いものだとも言える気がします。
コンテンツまわり - コンテンツの製作者たちは、自らがつくったものを「コンテンツ」といわれることには抵抗を示す人が少なからずいるでしょうね - が熱いと思います。本当に目が離せません。
何が生き残り、何が消えゆくのでしょうか。
それは誰にもわからないのですから。