クラシック

 あなたが自明だと思っているものは、そのほとんどが歴史的な構成物である。アタリマエのコンコンチキ、アタリ前田のクラッカー、アタリキ、しゃりき、ケ○の穴だけど(3連発!)、僕らは、時に「自明なるもの」が「自明でないこと」に気づき、驚く。それが歴史研究を読む醍醐味なのでしょうか。

 たとえば「恋愛」という愛情の表現形式について。
 既にセクシャリティの社会学が明らかにしてきたように、これは、人間にもって生まれた自然の感情発露というわけではなく、近代に確立された社会的かつ歴史的な構築物、つまりは制度なわけです。

 いにしえの人たちが、みんな、今僕らがフツウに経験している「恋愛」をしていたわけじゃない。それは想像するよりも短い歴史しかないのですね。そう、僕らは、「こーんな長い人類の営み」の、ハナ○ソ程度の時間しか生きられないんだよ。

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 そういう意味で、岡田暁生さんのかかれた下記の西洋音楽史はオモシロかったです。

岡田暁生(2005) 西洋音楽史―「クラシック」の黄昏. 中公新書, 東京
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4121018168/nakaharalabne-22

 「クラシック音楽」というとね、「あー、あれね」となんか確固たるイメージが僕らにはうかんじゃう。

 でも、それは決して、最初からあったわけではないんですね。ルネサンス、バロック、ロマンというその時代ごとの制度や経済状況の中で、次第に、その音楽形式が形成されていったのです。

 特にオモシロイなと思ったのは、クラシック音楽が、いわゆる特権階級だけが局所的に楽しむものから、大衆化し、一般人に繰り返し聞かれるようになっていくプロセスです。

 貴族たちの飲食のBGMから、だんだんと一般の人たちが、ホールにでかけて繰り返し聞くことのできる音楽にかわっていく。オーディエンスの誕生とでもいうのでしょうか。そのプロセスがあって、はじめてベートーベン、リスト、シューベルトの音楽があるのですね。

 そういうことを知って、クラシックを聴くのも、またオモシロいですね。