パタッと寝入って起きあがらない
フロリダから帰ってきた当日。なぜかフツウどおりにベッドに入って、カッーと寝て、フツウどおりに翌日起きることができた。
おや?、今回は「時差ぼけ」がないのかな。オレも成長したな。ダハハ、どうだ、参ったか!
と思っていたら、なんと1日遅れて、ひどい時差ぼけが。
もう連続28時間起きているのに、全く眠たくない。
この前「オトナ買い」した「のだめ」をベッドの中で13巻読破しても、全く目が疲れない。アタマの奥には、「ブラームス」が流れる。ところどころ大爆笑してよけいに眠れないのかもしれないけど。
「そうだ、きっと、こういうときはマンガなんて読んじゃいかんのだ」と思って、「M&Aの基礎」やら「現代文学理論」やらのちょっと小難しい本を、を、ベッドに入ったまま読んでも、目が冴えてくる。いつもだったら、「おやすみ3秒、のびた状態」なのに。隣で死んだように寝てるカミサンに、「プチ殺意」を覚える。
もはや地獄。
目がランランと光って、今にも「得たいのしれない光線」がでてきそうだね、シャー。
こんな「変速3面待ち(麻雀用語だね、意味不明だけど)」のような時差ぼけに苦しむのなら、素直に初日から時差ぼけがきた方がよかったわ。
まぁ仕事ができていいんだけど。
おかげではかどったわ。
でも、反動が怖いなぁ。
パタッと寝入って、二度と起きあがらないんじゃないか。遠くなる意識の中で、僕の名をよぶ声を聞くんだろう。さようなら、皆さん、また逢おう。
追伸.
おやおや、1週間も進んでしまったね、このblog。まぁいいんです、僕のblogはそれで。きっとまたネタギレになると、全く書けなくなるから。気にしない、気にしない。
投稿者 jun : 2005年10月31日 06:20
夢
今年もそのシーズンである。次の研究ネタの仕込みである。
「科研」やほかのグラントに「申し込む」とか、「申し込まない」というのは関係ない。
ここらあたりでプロポーザルを書いておかないと、来年の4月まで半年くらいのあいだ、いろいろな文献やフィージビリティを検討できない。僕はだいたい10月にはいったら、次の年以降の計画をたてることにしている。
先日、学内でよく知っている先生にあったら、「いやー、この時期はプロポーザル書くので一年で一番忙しいけど、一番愉快だね」とおっしゃっていた。
そういう人たちは、「夢」を見ているのだと思う。あんなことできたらいいな、こんな風にならないかな。こんなことが起きたら、オモシロイだろうな。こんな風に、現象に迫れたら、すげーだろうな。
研究は、そんな「夢」からはじまる。
投稿者 jun : 2005年10月30日 08:31
サルトル
言うまでもなく、フランスでもっとも有名な哲学者の一人である。「実存主義」とか「アンガージュマン」という言葉でよく知られているかもしれない。はたまた、フェミニズムの泰斗であるシモーヌ=ド=ボーボワールとの恋愛は、多少の誇張を含みつつ、よく人々の語りぐさになっている。
僕がサルトルを知ったのは、大学学部の頃であったと思う。演劇が好きだった友人に「嘔吐」という小説を貸してもらい、読んだのが最初だ。手に取った本の表紙を見て「ゲロも嘔吐と書くと、なんか、かっこよく見えるな」と思ったことを覚えている。
正直に告白すると、「嘔吐」には、僕はあんまり触発されなかったんだけど、なんだか「牛乳瓶の底のようなめがねをつけた、この人の不思議ないでたち」には興味をもって(なんという凡庸な理由!)、いくつか彼の著作を読むようになった。
で、この人、知れば知るほど、変な人であった。
何が変かっていうと、「つかみどころ」がない「ぬえ」のような人なのである(失礼極まりない!ごめん)。もっと具体的にいうと、「サルトルさんは○○な人だよね」とラベルをつけられない人なのである。
サルトルは小説家であった。
同時に彼は戯曲家でもあった。
また雑誌の編集者でもあった。
一方、「人間の自由と責任」を論じる哲学者でもあった。
また、積極的に「知の倫理」の問題にも口をだしたし、政治にも参加した。紛争や社会問題が起こった際には、積極的にマスメディアに論考を発表し、ときにはフィジカルに運動を組織する運動家でもあった。
もちろん、彼は場当たり的に、そうした仕事をしてきたわけではないと思う。「社会参加」「人間の自由と責任」「知識人のあり方」といぅたようないくつかの根本的で、揺るがぬ「彼自身の思想」のもとに、いろいろなペルソナを使い分けてきたのではないか、と思う。
そういう人だから、とっても敵も多かったし、他人とあたることも多かった。同時代を生きた文学者カミュ、哲学者メルロ=ポンティとの論争は、とっても有名な話である。
ちょっと前にブルーナのことを書いたけれど、どうも僕は、こういう人、こういう知識人が好きみたいだ。「狭間を生きる知識人」というのか、なんというのか。
確立された「安穏とした研究領域」から片足さえも出すことなく、生きている分には、闘う必要はない。
博士号を手にしたときが最後、それ以上の挑戦を行わずに生きる、すでに「あがってしまった若手」だって、少ないわけじゃない。
自分の研究領域から片足をだし、社会に参加する。知識人として社会に働きかける。
狭間を生きるということは、「闘う」ということである。
投稿者 jun : 2005年10月29日 08:29
食事
前にも書いたかもしれないが、うまいものを食べられる機会は、そう多いわけではない。人生は短いのである。
仮に不健康きわまりない僕が70歳まで生きられたとして(健康には人3倍気を遣っているが、人の3倍ほど体調が悪い・・・トホホ)、残りは14600日。
そのうち、毎日毎日うまいものが食べられるわけではないので(財力もあるし、貧乏ひまなし共働き家庭のうちの場合、それほど一緒に食事ができるわけではない・・・)、仮に1週間に1度と考えると、2085回。
そう、残りはたったの2085回なのである。なんか少ない気がしないか。
こういうしょーもない計算をしてしまうと、どうも、なんか1回1回の食事が大切なもののように思えてくる。まさに一期一会の精神だ。一回だって無駄にはしたくない。
それなのに、ここ1ヶ月、海外出張が続いたせいか、たとえば機内食などでファーストフードな食事をずいぶんしたように思う。あー、もったいなかった。
あと数時間で東京につく。
今日の夕食は、和食をつくってくれているらしい。今はリハ中だから、きっと夜に長い時間をかけてつくっているんだろう(笑)。楽しみである。
今日は、久しぶりに2085回分の1を味わうことにしよう。それは素朴であるかもしれないが、今の僕が、一番求めているものである。
---
追伸.
とはいいつつも、いわゆるアメリカンなファーストフードの食事がすべて辛いわけじゃない。特にサラダとベーグルだけは、圧倒的に日本のそれを超えていると思う。
カリカリとクリスピーなものと、新鮮な歯触りのよい野菜がまざったアメリカのサラダを食べるとき、はたまた、モチモチとした弾力のあるベーグルをかじるとき、僕は、アメリカに一生住んでもよいかな、と一瞬だけ思ってしまう。
ほんの一瞬だけ。
投稿者 jun : 2005年10月28日 21:38
あそび
僕の研究領域で、開発研究を志す人は、「あそび好き」であった方が得だと思う。
「あそび」といっても、「泥だらけになってパンツまでしみちゃった・・・ママに叱られるかも」というような「あそび」ではない。もちろん「おねーちゃんと、チョメチョメをチョメチョメしてガハハハ」というような「あそび」でもない。もちろん、「なーさん、最近、どうしてお店にきてくれへんのん、いけずー」というような「あそび」でもない。
いうなれば、「今、一番何がオモシロイのか」「何が人々を魅了してやまないのか」「そして、これから何がオモシロくなるのか」を把握するために、時には書を捨てて街にでることをいう。
あそべた方が得な理由はひとつ。
自分の研究が「重箱のすみをつつきすぎて穴をあけちゃうような研究のための研究」とか「えー、そんなシステムつくって、誰がウレシイねん、誰がオトクを感じんねん」というものになってしまうのを避けるためである。
もちろん、街にでたあとは書に戻らなければならない。遊んでばっかりいるのは、単なる「遊び人の金さん」である。要するに、「遊び」と「研究」の往復ができることがよいと思う。
まして、「一日中、メールが、メールが」といっていたりするのは、書からも離れ、はたまた遊びからも離れている。そういうのは、多くの場合、「忙しさ」に酔っているだけである。自戒をこめていうが、そういうのは多くの場合、「仕事のやり方の効率が悪く、見直した方がいいだけの話し」であることが多い。しょーもない。
よく学べ、よく遊べ
一言でいうと簡単だ。かくいう僕も、いつも片方だけになってしまう(遊びの方かな・・・悲しい)。
短い言葉ほど、実行するのはとっても難しい。
投稿者 jun : 2005年10月27日 21:54
アタマと酒
酒は嫌いではない。むしろ、好きな方かもしれない。
でも、もともと酒に強いわけではないと思う。ビールジョッキなら2杯。ワインでもグラス2杯目で、僕は、心地よく酔うことができる。
もちろん、それ以上飲むこともできるけど、次の日に「あとを残さない」ということになると、これが限度だ。要するに、「下戸」ではないが、「強く」はない。
どういう因果か、酒席に赴くことはとっても多い。だけれども、心地よく酔える酒席というのは、それほど多いわけじゃない。
心地よく酔うために重要なこと。
それは「頭で飲まない」「頭を使って飲まない」「頭にきて飲まない」ということである。この「頭シリーズ」を避けることができれば、よい酒が飲める。
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まず「頭で飲まない」。
これは「酒に過剰な講釈をたれない」ということである。中途半端な講釈ほど、退屈な話しはない。どうせ講釈をたれるんだったら、ホンモノを目指してほしい。
また、飲む酒ごとに文句をたれるヤツがいるが、それで目の前にある酒がおいしくなるわけではない。
「うーん、まぁまぁですね、このワイン」だと!、このタクランケ!
オマエが頼んだワインを、オマエが試飲して、オマエがけなしてどうする。それを飲まなければならない、こっちの身にもなってみろ。こっちはどういうレスポンスを返せばいいのだ?
黙って飲めばいいのである。
酔えば、何でもおいしく飲める。
粋に飲みなさい、粋に。
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次に、「頭を使って飲まない」。
別にバカ話ばっかりをしろとは言わないけれど、過剰な議論をふっかけてくる人、あるいは、何が何でも、こちらのいうことに反論してくる人と飲むのも、肩がこって仕方がない。
どうせ、酒の席で議論をしたって、ほとんどのことは忘れてる。無用な反論をしたり、批判をしたりしても、誰もそもそも聞いてないことが多い。議論がしたいのなら、アタマがすっきりしているときに、ガンガンとぶつかったほうがよい。
頭を使いすぎて飲むのは野暮である。
粋に飲みなさい、粋に。
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最後に、「頭にきて飲まない」。
人は生きていれば、憤りを感じる機会は多い。そりゃ確かにわかるけど、「人の悪口」「日々の愚痴」だけを聞かされるのは、辛い。
ぼくはカウンセラーじゃないし、人生の酸いも甘いも噛みしめている人間でもない。だから、ずっと耳を傾ける忍耐力もなければ、的確なアドバイスもできない。むしろ、それがよけいに辛い。
飲んだ勢いで上司にふだんの愚痴をブチマケルというのもいいかもしれないけど、どうせ、次の日起きたら、「きのうはすみません・・・酔っぱらって覚えてないんです」と謝ることになるんだから。
アタマにきたことを酒でごまかすことはできない。これも、アタマがすっきりしているときに、解決するほかはないのです。
粋に飲みなさい、粋に。
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以上、「頭で飲まない」「頭を使って飲まない」「頭にきて飲まない」であった。自分にも強く言い聞かせよう。
酒は粋に飲みたいものである。
投稿者 jun : 2005年10月26日 21:47
読書
海外出張中は、本当に本を読む。ここぞとばかりに本を買い込み、退屈な機内で、はたまた、枕が変わって眠れないホテルの長い夜に読むことができる。
前回のロシアは10冊、今回のフロリダ出張では8冊の新書、専門書をもっていき、すべて読破した。
今回の出張中に読んでオモシロかった本。
黒田玲子(2002) 科学を育む. 中公新書, 東京
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4121016688/nakaharalabne-22
黒田氏は東京大学に勤務する著名な化学者で、総合科学技術会議のメンバーでもある。
「優秀な科学者を育てること」「科学に理解のある市民を育てること」は、制度、政策といった問題であることがよくわかる。科学を振興するには、場当たり的に対応してはいけない。戦略的に、科学を育む「環境」をつくりだしていくことが重要なのだろう。
ミドリ・モール(2001) ハリウッドビジネス. 文芸春秋, 東京
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4166602101/nakaharalabne-22
著者は、ハリウッドで知財の案件を扱う弁護士。本書では、ハリウッドで起こった著作権、知的所有権関係の事件を簡単に紹介している。
映画産業とは、権利ビジネスの王道。映画は映画だけで収益をあげているわけではない。
映画に付随するビデオ、DVD、ケーブルテレビ放映料、キャラクターグッズの売り上げ、書籍・・・ひとつの映画には、様々な2次利用が付随している。複雑に絡み合う権利を整理し、それを掌握したものが莫大なお金を手にする。
お金の臭いのする場所には、争いがある。これは世の中の摂理である
「行き着くところは裁判所」という言葉にあらわれているように、ハリウッドでは、権利に関する裁判が毎日毎時間のように行われている。裁判所での悲喜こもごもの物語、それが本書のテーマである。
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仕事柄、僕も、最近、権利に関しては相当考えることが多い。4月、東大に異動した頃は本当にこういう話しが苦手だったんだけど、最近は、だんだんとわかるようになってきた。
僕がいつも関係しているのは、教育の世界のことであり、映画の世界のようにドロドロ・生臭い世界ではないけれど、それでも、基本は変わらない。
コンテンツに関与する人には、おすすめの1冊かもしれないなと思う。
投稿者 jun : 2005年10月25日 21:29
EDUCAUSEにいってきた!
毎年、米国にて開催される「高等教育とIT」の学会であるEDUCAUSE2005に参加した。参加者は8000人近くといわれる、とてつもなく大きな学会である。「大学の情報システム」に関係するCIO(Chief Information Officer)、副学長、教員、技術者などが主な参加者である。
結果からいうと、この学会、とても勉強になった。アメリカの大学で、今、何が問題になっているのか、どのようなことがトレンドだと思われているのか、身をもって感じることができた。というか、自分がたてた研究方針 / プロジェクト運営方針が、それほどハズしていないことが確認できて安心した。
ちょっと話しはズレるけど、実は研究者にとって、いつのまにか、しょーもないことを企画したり、運営したりしていること、これが怖いことである。
いったん、職業研究者になったら、誰も指摘してくれないものなのです。僕の恩師はいつも言っていたけど、「研究者は最後は一人、最後は自分」なのです。そういう意味では、こうした場に出かけていって、軌道修正をはかったり、将来のプランニングのリソースを仕入れることは重要なことなのですね。
ちょっと、あまりに「クソ忙しい時期」の渡米で、いろいろな人たちに迷惑をかけたけど、この結果は、TREE(Todai Redesigning Educational Enviroment)プロジェクトに反映されるだろう。だからゆるちて。
今年の開催地はフロリダ・オーランドであった。ちょうど、カトリーナを超える最悪のハリケーン「ウィルマ」が迫っており、とっても冷や冷やしたけど、何とか、今、フロリダを脱出。帰路でこの日記を書いている。
来年は、テキサス州ダラスだという。ジョージ=ブッシュの嫌いな僕としては、決して行きたい場所ではないけれど、きっと、来年もそこに出かけると思う。
投稿者 jun : 2005年10月24日 21:27
ご相談
Movable Typeに詳しい皆さん、ひとつ教えてください。
NAKAHARA-LAB.NETですが、「online poker」「バイアグラ」のスパムに集中砲火をあびまして、今、コメントとトラックバックの機能を切っています。
これを何とかするため、実は、青山学院大学の橋本さんにアップグレードをご快諾いただき、助けていただいたのですが(自分でやる暇がとにかくないのです・・・トホホ)、WebarenaではBerkeleyDBしか運用できず、しかもこれでは3.2がうまく稼働しないことがわかりました。具体的には、Internal Server Errorに見舞われました。結局、現在はダウングレードして運用しています。
※橋本さん、ご多用中、本当にありがとうございました。
この場を借りて感謝いたします。
これを機会に、もうWebarenaをやめて、どこかよいホスティングサーバを借りようと思っているのですが、どこかよいところ、評判のところはないでしょうか。具体的には下記のような条件があるのですが。
・NAKAHARA-LAB.NETのドメインを運用できる
・Mailing listをガシガシつくれる
・Movable typeをPostgreSQLかMySQLで運用できる
もしご存じの方がいらっしゃいましたら、是非、アドバイスをいただけると幸いです。
jun [アットマーク]nakahara-lab.netまでメールをいただけると、とってもウレシイです。
投稿者 jun : 2005年10月23日 21:01
田口先生、生ツバゴックン貴重生撮ビデオ
こんなところで、田口先生の「生ツバゴックン貴重生撮ビデオ」を発見しました。というか、ご本人から「見てみてー」と教えていただきました。是非、お茶の間、お誘いあわせの上、ご覧ください。
大学eラーニングの経営戦略
http://www.iiv.ne.jp/booklounge/
このビデオ、わたしはどうしても都合があわず、参加できなかったのですが。
大学eラーニングの経営戦略を、よろしくお願いします。
投稿者 jun : 2005年10月22日 21:28
無理すぎる無理は
どこで覚えたんだかわからないけど、最近、僕が他人にかけてあげる言葉。
「仕事、無理するなといっても、無理するんでしょうが、
無理すぎる無理は禁物ですよ」
「無理」には「適度な無理」と「無理すぎる無理」があるということか。
皆さん、ホント、「無理すぎる無理」にはご用心!
投稿者 jun : 2005年10月21日 20:49
グダグダシンポにご用心!>自分
シンポジウム...
僕自身、この「形式」で他人に講演をしていただいたり、はたまた自分が呼ばれることも多いんだけど、どうも、このところ、いわゆるこの形式のイベントが好きになれないんだよねぇ。
正直、あんまり、「オモシロイ」と思えないんですよね、この形式って。講演内容がオモシロくないというのでは断じてありません。僕の講演はオモシロクないけど。
そうじゃなくて、この形式のイベントが生み出すドキドキ感、お得感みたいなものが少ない気がします。いや、綿密に練られたシンポは知的にオモシロイんだけど、そういうのって本当に少ない気がするのです。
「じゃあ、やんなよ」と殴られそうだけどさ。
おっしゃるとおり!ですね。
自戒をこめて懺悔します、今日は。
ただね、なるべく多くの人を集めたかったり、横やりがはいったり、いろいろ事情があってですねぇ・・・そうなってしまうことも多いのです、ブツブツブツ・・・ゴメンなさい。
少しでもプレイフルになるよう、努力します。
---
日本で行われる...いや、あんまり海外も変わらないけど...典型的なシンポジウムといえば、だいたいこんなんじゃない。
まずテーマがあるよね。で、そのテーマに「関係のある人たち」講師として集める。
で、細切れにするよね、全時間を。
最後に30分くらい「まとめ」とか「ディスカッション」「質疑」なんかの時間をとっておいて、それ以外の時間を全講師の人数で割っちゃうわけだ。たとえば一人15分みたいな感じで。
で、講師に順に語ってもらう。語る内容は、講師にだいたいまかされてる。主催者側も、何を話すかは直前まで知らないことが多い。
事前のうち合わせは、ない方が多いかな。「みんな忙しい」ということで、ほとんどの場合、ぶっつけ本番ですよね。
だいたい講師に呼ばれる人は決まっていて、「あーどうも」なんて言っていることが多い。
でも、当然、講師同士、お互いの話しがどう関係しているかは、あんまりわかっていない。壇上で、「へー、そういうことなの」という感じでようやくわかる。
講師が5人いたら、3名くらいは時間超過しちゃう。本当に「シャキ」っとはじまって、「カキーン」と追われる人は少ない。
最後の人は大変。「皆さんに、既に言われてしまいました・・・」なんて弁解しつつ、スライドをどんんどん送ることになる、とにかく時間がないから。
あのね、だいたいシンポジウムで「おおとり」の講師をつとめるっていうのは、「もう自分の好きなことは語れないこと」を意味します、だって、時間がないもん。「オマエはもう死んでいる」って感じです。粛々と、残った時間の中でベストを尽くすしかない。
で、それでも時間が足りないから、「質疑」とか「ディスカッション」の時間が大幅に削られる。それらは時間をコントロールできないし、時間食うからね。中には、質問なんだか、自分のやったことの自慢なんだか、よくわからない<質問>をする「困ったちゃん」がいて、よけいに時間を食う。
かつて「そのことについては、わたしも研究しているが、あなたの発表の中には、わたしの文献が引用されていないから不十分であり、研究とは言えない。勉強不足甚だしい」なんていう「質問」をしちゃうオッサンがいました。
質問じゃないってーの、それは。なんて「困ったちゃん」だ。
閑話休題
「質疑」とか「ディスカッション」とかを削るときは、だいたい主催者は、「会の終了後、懇親会をしますので、その際にでも、個人的につかまえてください」なんて言っちゃうことが多い。で、懇親会にいったら、「めあての先生はもう帰っちゃってるか、あるいは、人だかりになってとても話しにいけない」みたいなオチもあるかな。
質疑やディスカッション、ハイ消えたぁ!。
で、何をやるかっていうと、司会者がまとめを行いつつ、ひとつの大きな質問を講師になげかける。で、講師はこれに順番に答えていくって感じ。
いきなり突然話題を振られるから、人によっては何を言っているかわからないことになる場合がある。そういうのは見ていて痛々しい。
でも、振り自体が無理な場合もある。「IT教育、さてどうでしょう?」って言われたって、答えられないよ・・・。「○○のことについては、わたしはもっとも重要な問題だと思うんですが、いかがでしょうか」って言われてもさぁ・・・「オレ、重要だと思わないんだけど・・・」みたいな時は、本当に何をしゃべっていいかわからない。
もちろん、講師たちが言っていることは、あまり噛み合っていない。コメントも「おおとり」をつとめると大変。だいたい「まとまらない」んだから。結局、「わたしの言いたいことは既に皆さんからご指摘いただいたので」みたいな感じで同じことをいう。
それでタイムアップです。
参加者はシンポジウムのあいだ中、しゃべる機会がないから、不満をかかえる。講師は、どことなくやるせない思いで、会場をあとにする。
---
これ、「ダメなシンポジウム」の見本なのですが、自戒をこめていうと、こういう風になりがちなんですよ、本当にシンポジウムというイベントは。
10個シンポジウムがあったら、9つはそうですね。僕は、そういうシンポを「グダグダシンポ」って呼んでいる。
どことなく、シンポって「手軽」にやっちゃえるイメージがあるんでしょうね。「とりあえず講師を決めて、あとは当日、でたとこ勝負」みたいなね。自戒を込めて言いますけど。
決定的に不足しているのは、1)主催者側がシンポ全体で何を伝えたいか、の確認、2)講師とのうち合わせ、3)受講者のインタラクションの確保、4)演出と当日の流れの周知、5)タイムキーピングとかでしょうか。
要するに、「事前準備」と「演出」なんですよね。
やっぱり、お手軽にやるべきものじゃないんだろうね。しっかり打ち合わせて、キチンとやるべきなんでしょう。アタリマエですよね。
「グダグダシンポ」にならないよう、精進いたします。
ちゃんとやれよ>自分
投稿者 jun : 2005年10月20日 20:38
寄付
今月のANA機内誌「翼の王国」にのっていた興味深い数字。
2004年、日本とアメリカのGDPは、それぞれ4兆6664億ドルと11兆7129億ドル。3倍はいってないね、GDP的には。
それに対して、法人・個人の寄付額は、日本が推定7281億円。対して米国は20兆5800億円。日本の寄付は7割が法人であるのに対して、米国の場合は9割が個人。個人の寄付だけを比較すると、日本の寄付額は米国の88分の1しかない。
文化、教育、福祉、そしてそれらの担い手である大学、NPO、社会教育施設...様々なものが「寄付のカルチャー」によって支えられていることは周知の事実ではあるけれど、こうして数字を比較すると、その差に改めて驚いてしまいますね。
もちろん、「黙って口をあけていれば親鳥がエサをもってきてくれる」ように、篤志家が寄付が舞い込んでくるわけではない。その背後には、寄付者に対するあの手、この手をつかったサービスがあり、綿密に計算されたPublic relationがある。そして、それらを生み出す専門家がいる。
投稿者 jun : 2005年10月19日 20:34
ブルーナ
少し前になるけれど、あるゼミの夏合宿参加させていただいた際、「自分の研究に強い影響を与えた学者を3名、全員に紹介せよ」という宿題をいただいた。
これは簡単なようでいて、非常に難しい。自分の研究領域に近い優秀な研究者は、どちらかというと「影響を受ける」というよりも、「決して追いつくことはできないように感じられるけど、目標にする存在」のように感じて、どうも、趣旨の「影響を受けた」とは違ってくるような気がした。
さんざん悩んで、僕は3名の名前をあげた。その中のひとりにジェロム=ブルーナがいた。
僕のあげた3名は、いずれの人も、「狭間を生きた人」だったように思う。たとえばブルーナといえば、発見学習理論、ヴィゴツキーの再評価、文化心理学、ナラティブ理論などでよく知られている「理論に強い研究者」である。
しかし、その一方で、彼は「モノヅクラー」でもあった。NPOと協力して、PSSCのカリキュラムを開発したり、テレビ番組の開発に関わったり。決して、彼は理論だけに固執する研究者ではなかったし、決して「ものをつくること」を至上命題にかかげる、いわゆる「テッキー」でもなかった(ちなみに、僕は工学もテクノロジーも好きだ)。
それに加えて彼は、「政治家」でもあった。米国政府の教育政策に深く関与し、一時期、同国の教育を支える精神的支柱の役目を果たしていた。
「理論」「工学」「政治」・・・凡人の目には全く別の事象に見える、それらの物事が、彼の前ではすべて「つながって」いたのではないかと思う。
批判を受けることも多い研究者である。
たとえば彼の自伝である「心を探して」などは、<ピュアな研究者>を自認する人たちからは、眉をひそめられている部分も多々あると思う。
それでも、それにもかかわらず、僕は彼が好きだ。
彼の仕事を心から尊敬している。
投稿者 jun : 2005年10月18日 22:12
ドレスコード
かなり前のことになるけれども、ドレスコードのあるクラシックのコンサートの招待券をもらって、カミサンと出かけました。
でも、タキシードなんてもってないからさ。結局、さんざん悩んだすえに、ちょっとおろしたてのスーツにポケットチーフをさして行ったのさ。「プチオシャレだわな」と思って。
「日本人なんだから、まさか、タキシード着てくヤツはいねーだろ」
とタカをくくってたんですね。ニューイヤーコンサートのDVDとか見てね、結構、スーツが多かった。「ウィーンでもOKなんだから、東京は大丈夫だ」と思ったんですね。
でも、いざ会場につくまでの道、なんか同じ方向に向かっていく人をみていたら、なんかイヤな予感はしたんです。皆さん本気(マジ)だから。
男性はタキシード、女性はキラキラ系のドレスが多い。お年はおそらく50歳から60歳くらいの方々ばかりでしょうか。腕なんか組んでしまって、かなり本気です。
「まさか・・・やばいかな」
会場について、完全敗北です。
まぁ、全体の20%くらいをしめる若い人(といっても、明らかに20代はいない・・・30代後半で若手かな)は、まぁ、スーツが多いんだけど、80%くらいの人たちはタキシードなんだよね、とてもびっくりしました。
ドレスコード、おそるべし。
まぁ、当日のコンサートは知っている曲が多かったから、大変楽しめたんだけどね。
そうね、こういうときはちゃんとドレスアップした方がいいね。次にいくときは、ちゃんとタキシードを買っていこうと思います。横着せずにね。
でも、もったいないよなぁ・・・数年に1回くらいしか着ないでしょ。まさか友人の結婚式とかには着れないし。意味なく「授業」に着ていくか!?
まぁ、いいか、もったいないけど、ハレのときくらいは。
投稿者 jun : 2005年10月17日 06:51
公開研究会:医師を育てる
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NAKAHARA-LAB.NET M@il Magazine
2005/10/13
Jun Nakahara
NAKAHARA-LAB.NET (http://www.nakahara-lab.net/)
※このメールは転載自由です。
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■ご案内
11月のLearning bar@Todaiは、京都大学大学院
博士課程・医師の三原華子さんをお招きして、
「医師を育てる - 国内外の卒前・卒後医学教育
:過去・現在・未来」
というタイトルでディスカッションを深めたいと思います。
フォーカスをしぼった集中的なディスカッションの機会に
したいと思います。
是非、ご参加ください。
中原 淳
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Learning bar@Todai
「医師を育てる - 国内外の卒前・卒後医学教育
:過去・現在・未来」
2005/11/25 東京大学 中原研究室
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●日程:
11月25日 金曜日 午後6時30分から
●場所:東京大学大学院 中原研究室
http://www.nakahara-lab.net/map/nime_map.html
※入口は暗証番号のロックがかかっています。入り口に
お着きになられましたら、03-5841-2015までお電話を
お願い致します
※なお場所は変更になる場合がございます。いずれも
本郷キャンパスです
●定員
20名
●参加方法
参加希望の方は、atusaka@educetech.orgまでご連絡
ください。人数が多い場合、抽選となる場合がございます。
11月15日には結果をご発表いたします。
●参加費
無料
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NAKAHARA-LAB.NET M@il Magazine 2005/10/13
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お問い合わせは、下記までお願いします
中原 淳(東京大学 大学総合教育研究センター)
mailmagazine@nakahara-lab.net
NAKAHARA-LAB.NET (http://www.nakahara-lab.net)
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投稿者 jun : 2005年10月15日 22:19
ボブ=フォッシー
先日、久しぶりに映画「シカゴ」を見直す機会があった。
もともと「シカゴ」はブロードウェイでも見たし、そもそも音楽がとっても好きで、DVDでも、繰り返し見ていたんだけど、先日はなぜか「振り付け」がとっても気になって、そこばかりに集中して見た。
「シカゴ」の振り付けは、ミュージカル史上最大の演出家である「ボブ=フォッシー」である。肩を落として、少し内股、ハットをつまみ、小粋なステップをきざむ・・・その独特な振り付けは、「フォッシースタイル」とよばれてきた。
なんだか振り付けを見ているだけで、おもしろくなってきて、ついに新たにDVDを買ってしまった。
フォッシー(DVD)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000066O8U/nakaharalabne-22
こんな風に踊れたらな、と思う。
「踊れる大学教員もいいな」と思うんだけど、現実の僕は、立位体前屈でマイナス15cmを記録するほど、カラダが固い。
投稿者 jun : 2005年10月14日 22:16
歴史に残る日
今日は、「驚きニュース」が4本あった。
まずはこちら。
Apple ビデオipodをリリース http://plusd.itmedia.co.jp/lifestyle/articles/0510/13/news010.htmlApple ビデオポッドキャスティング
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0509/16/news030.html
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次はこのニュース。これをきっかけにテレビ業界のビックバンがおこる予感がする。それも前者のipodのニュースに関係して。
楽天 TBS株を大量取得 http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye3137168.html
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あとeラーニング関係では下記のニュース。WebCT社がBlackboard社が合併(merge)らしい。ボストンに留学にしていたとき、Kateと「企業合併」について話したときのことを思い出した。
WebCTとBlackboardが合併 http://biz.yahoo.com/prnews/051012/nyw165.html?.v=25
「Jun、この国にはmergeっていうのはあり得ないの。何かが立てば、何かがひっこむ。mergeっていう言葉の背後でおこるのは、片方が片方を飲み込むってこと」
詳細はまだわからないものの、この業界の地図にも変化が起こるかも。
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そして、最後はこれ・・・。番号ポータビリティ以降の携帯電話のコンテンツ流通をうながす仕組み。これもうまくいけば、キャリアのビジネスモデルが岐路にたつことを意味している。
Yahoo コンテンツストア
http://contentstore.yahoo.co.jp/
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きたぞ、次の研究ネタ。
「クリエィティブのカミサマ」が僕に降臨した気がします。
今日は歴史に残る日になると思うよ。
理由はまた今度。
投稿者 jun : 2005年10月13日 22:36
Learning bar@Todai : マンガを活用した企業内教育!?
10月のLearning bar@Todaiは、「マンガ(ナラティブアプローチ)を活用した企業内教育」ということで、NTTデータの吉川博士をお招きいたします。
どうぞご参加ください。
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NAKAHARA-LAB.NET M@il Magazine
2005/10/11
Jun Nakahara
NAKAHARA-LAB.NET (http://www.nakahara-lab.net/)
※このメールは転載自由です。
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■ご案内
今月のLearning bar@Todaiは、NTTデータの吉川厚博士を
お招きして、「マンガ(ナラティブアプローチ)を用いた
企業教育教材の開発」についてディスカッションを深めた
いと思います。
フォーカスをしぼった集中的なディスカッションの機会に
したいと思います。
是非、ご参加ください。
中原 淳
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Learning bar@Todai
「マンガ(ナラティブアプローチ)を用いた教育手法の探求」
2005/10/26 東京大学 中原研究室
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●日程:
10月26日 水曜日 午後6時30分から
●場所:東京大学大学院 山内研究室
http://www.ylab.jp/access.html
●定員
20名
●参加方法
参加希望の方は、atusaka@educetech.orgまでご連絡
ください。人数が多い場合、抽選となる場合がございます。
23日には結果をご発表いたします。
●参加費
無料
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NAKAHARA-LAB.NET M@il Magazine 2005/10/11
=====================================================
お問い合わせは、下記までお願いします
中原 淳(東京大学 大学総合教育研究センター)
mailmagazine@nakahara-lab.net
NAKAHARA-LAB.NET (http://www.nakahara-lab.net)
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投稿者 jun : 2005年10月12日 14:21
限られた<あなたの時間>を求めて
読売新聞 2005年10月18日号の「アメリカ新聞事情」という記事を読んだ。非常に興味深い内容であったので、下記のように同記事より引用を行う。
米国の新聞部数が減り続けている。米国新聞協会の発行部数速報分析が、業界に波紋を投げかけたのは去る5月。大手紙が軒並み前年を大きく割り込んだのだ。
(省略)
米国の新聞は、過去20年間、年平均0.7%のペースで部数を減らしてきた。昨年の総発行部数は、5500万部と最盛期を13%も下回る。
(省略)
昨年、ノースカロライナ大学のフィリップメイヤー教授が著した「バニシングニュースペーパー」は、新聞の衰退を統計データで裏付け、「読者が今のペースで減れば、2043年に新聞はなくなる」と警鐘を鳴らし、大きな反響をよんだ。
読者数も、大手ニューヨークタイムズの場合、紙の13万部に対し、ウェブサイト読者は10倍近い1100万人。同社は、この8月、これまで紙のニュースをサイトがもらっていたカタチをかえ、総合的にニュースを編集する大胆な編集局統合構想を表明した。
(省略)
米中西部カンザス州の小さな新聞社が、今、「未来の新聞社」として全米の注目を集めている。部数2万部の日刊紙を発行するローレンス・ジャーナルワールド者だ。
同社ニュースエンターには、新聞のほか、系列CATV局と、ウェブサイトの3社の記者が同居する。6年前から、「メディアコンバージェンス」とよばれる多メディア戦略をっすめ、新聞・テレビ・オンラインなど、異なるメディアが情報を共有発信している。
---
米国と日本の新聞システムは全く異なる。上記の記述だけをもって、「日本の新聞が将来どのように変容するか」を考えることは暴論である。
ただし、1990年代の発明品であるインターネットが、既存メディアのかたちを少しずつ変容させようとしていること、そのことだけは間違いはない。
同日他紙には、「TBSが番組配信をネットで行う」というニュースが掲載されていた。フジテレビなど、他チャンネルもすでに参入を決めているから、いよいよ放送と通信の融合が本格化する。
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さぁ、戦いのはじまりだ。
新聞、テレビ、ネット、ラジオ、ipod、書籍、雑誌・・・人々は、様々なメディアに囲まれている。しかし、人々がいくらメディアをもとうと、人々がそれらにあてられる一日の可処分時間は限られている。
限られた<あなたの時間>を求めて・・・メディアウォーズは、いよいよ本格化する。
投稿者 jun : 2005年10月11日 21:27
日出づる国
韓国 - 来るたびに驚かされる国である。
ビルディング、道行く人の格好、レストランの店構え・・・前回の来韓と比較すると、常に、洗練の度合いがあがっているように感じる。「今、まさに成長しているのだ」という感覚を、この国では感じることができる。
それに対して今回行ったロシア。
まぁ、おおよそ予想はしていたけれど、ここは、どうも「衰退」していっているような感覚を受ける。今回がはじめてであるから、字義通りの意味で、「衰退」しているかどうかはわからない。だけど、なんか感じるのである(ギボアイコか、オレは)。
今年発行された、どのガイドブックでも紹介されているレストラン、カフェが、もう既になくなっている。偶然で閉店しているのではないように思う。外食という産業が、構造的な問題で消え失せているのではないかと、根拠のない邪推をしてしまう。
デパートにいっても品揃えは少なく、人はいない。埃をかぶった商品が陳列されている。博物館はやはり人は自分ひとりだけ。駅にいっても、灰色の人々が徘徊している。ビールを片手に歩く人を何人みただろう。
どうかんがえても、ここで60万人の人々が生きている実感がしない。どのような職があり、どのように、人々が日々働いているのか、全く想像ができないのである。
政治体制、経済体制というものが、どのくらい人々の生活に影響を与えるか・・・それを考えると複雑な気分になる。
今、僕は韓国、仁川空港で成田行きのエアラインを待っている。目の前には「バーガーキング」があり、「サブウェイ」がある。そこにはたくさんの若者がいて、一見、日本人か韓国人かわからない。
次にくるときに、この国は、どのような発展をとげているのだろうか。そして、かの国は、どのように変容しているか。
楽しみだ。
投稿者 jun : 2005年10月10日 21:26
ビジネスblog、SNS
blogとかSNS(Social Network Service)とか、一時期の半狂乱的な流行はずいぶん落ち着いてきたように思う。
数年前から、これらをビジネスに役立てようとする議論は、あったことにはあったんだけど、どうも、僕には、それがにわかに信じられなかった。ていうか、今でも、その効用をあまり信じていない。
blogは、多くの場合、こんなシナリオで利用される。
まずは、商品のblogを立ち上げる。で、オピニオンリーダーになりそうなblogerに、その商品の記事を書いてもらう。それらの記事には、コメントやトラックバックがたくさんつくだろう。そうすると、「ネズミ算式に購買層が広がる」・・・ってのが、主なシナリオだと思う。
SNSの場合は、たとえば、同じ趣味や興味をもった人に利用してもらう利用してもらうSNSをたちあげる。たとえば、映画なんかがわかりやすい。で、それらのユーザーに自分の好きな映画を登録してもらい、批評を書いてもらう。そうすると、相互リコメンデーションの場ができあがり、人のおすすめの映画を、お互いに見るようになる。で、結果として売り上げがあがる、みたいなシナリオである。
両者とも、利用方法はもちろん、こればかりではない。たとえば、blogにしても、SNSにしても、社会のナレッジベースに使うだとか、社内日報に使うだとかいうアイデアはある。だけれども、これは直接的にプロフィットを生み出すわけではないので、今日の議論からは敢えてはずす。これらをはずすと、だいたいこんなところだろう。
で、なぜ、僕がこれらの効用を信じられないかっていうと、そりゃ、局所的かつ一時的には、うまくいくかもしれないんだけど、結局、誰かが何かを「書かなくては」ならないのである。そして、「誰かが書くだろう」という善意に依存しているという意味で、それが長続きするのかなぁ、という懸念があった。
「書く」ことは、悪いけど、甘くない。
そりゃ、一回二回なら、書けるかもしれない。また、そういう偶然書いた事柄が、爆発的な書き込みの連鎖につながるかもしれない。そういう「可能性」は否定できない。
だけれども、一般に書き続けること、さらには情報をアップデートし続けることには、コストが生じる。人が書き続けるためには、コストを上回るベネフィットが生じなければならない。企画側にいる人間は、そういう均質な意欲あふれる個人を想定しがちであるが、実際の個人は、そう甘くない。
そりゃ、中には、ブロガーのなかには、ベネフィットを感じられる人もいるかもしれない。精神的なベネフィットもあるだろうし、経済的なそれもあるだろう。だけれども、すべてのblogger、SNSに関与する人たちがそのベネフィットを感じられるかっていうと、これまた、それほど甘くない。一人がベネフィットを感じられたからといって、それが連鎖する可能性は、また低くなる。
本来ならば、これを仕掛けるビジネス側で、彼らに対してベネフィットを保証する何らかの仕組みを用意しなければならないのだと思う。だけど、多くのSNS、Blogビジネスサイトにとって、そのあたりは、「その件に関してはムニャムニャ・・・」という感じでうやむやになっているのが現状ではないかと思う。
アフィリエイトプログラムと連動するなどの施策をとっているところもあるんだけど、直接的に上記の問題を解決するほど、ユーザにベネフィットをもたらすか、というと、そうでもなさそうに見える。
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「人々のつながりが容易にできる」と、甘く見てはいけないのではないかと思う。
伊勢まんじゅう「赤福」よりも甘いぞ、その考えは。
投稿者 jun : 2005年10月 9日 22:27
知的遊び
おそらく現代の教育学にとって、最大の課題のひとつに、「教育の私事化」「教育の市場化」という問題がある。
思想屋さんに、「便所スリッパ」でぶったたれることを覚悟して、会話風にこの問題の対立点を明らかにすると、下記のようになるだろうか。
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「学校、どこにいこうが、どこを選ぼうが個人の勝手じゃん。財力に応じて、好きなところにいけばいいんだよ。財力に応じて、好きな学校を選んでさ。
だって、そうだろ。モノをデパートで買うのと同じだよ。お金のある人は、いい商品を買うし、そうでない人は、それなりのモノを買うでしょ。
だって、世の中、そういうもんでしょう。学校だって、同じじゃないの?なんで、教育だけ、好きなもの、買えないんだよ? オレの好きなところに行かせろよ。
もし学校が悪ければどうするかだって? そんなの競争ですよ、競争。ダメな学校には、生徒がよりつかなくなる。親も見限る。それでいいじゃないの?
ダメな学校はつぶせばいいの、で、自然淘汰すればいいのよ。アダムスミスの神の見えざる手ってあるでしょ、あれあれ」
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「学校、それは社会の基盤なんです。なんで基盤って言えるかって? だって、社会っていうのは、いろんな人がいて成り立っていて、それをつくるのが教育だからですよ。
一人が学んだ知識は、結果として社会につながっている。一人が学べなかったことは、結局、社会としてみんなが不利益を負担するしかなくなるんです。
もし一部が学力低下して、仕事につけなくなる。でも、それは結果的には、いつかは、彼らが抱える不利益をみんなで負担しなくてはならなくなるんですよ。
お願いですから、短絡的に教育を商品にたとえないでください。それは商品とは全く違うものなんですから。商品は、あなたが買って終わりです。あなたが満足して、あなたがメリットを享受できればよい。でも、教育は、あなたのモノでもあり、同時に、未来の社会をつくるものでもあるんです。
そもそも教育っていうのは、公共のものなんです。だから、もしそれが悪い物であれば、みんなの力で、みんなの参加で学校を変えていかなければならないんです
あなたは、市場は万能だと思ってるでしょ。そうやって市場にまかせることが格好良いことだって思ってるでしょ。でも、素直に市場の原理が全くきかないものもあるってことを、素直に認めてください。
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以上の会話は、細かい議論をすっとばした「知的遊び」です。でも、対立点はだいたい表していると思う。
皆さんはどちらの考えに共感しますか?
それとも、どちらにも共感できないかな?
投稿者 jun : 2005年10月 8日 22:26
APRU DLI2005に行ってきた:貧困と闘う
APRU DLI(Asia Pacific Rim University Distance Learning & the Internet Conference)2005に参加する。
今回は、中国の清華大学 宋吉繕さんの発表に一番考えさせられた。
よく知られているように、中国は、現在、高等教育人口が爆発的に増えている地域である。年8.5%の成長率で学生数が伸びている。「年8.5%」とサラッと流したけど、これはモノスゴイ数字である。本当に「大学ビックバン」に近い。
で、中国の高等教育機関は、ビックバン的に拡大するニーズに全くついていけていない。大学にきたいと思っている学生の数にくらべて、大学の数が全く足りていないのである。質的云々を議論する前の話しである。量的に足りていない。
たとえば、今日の宋さんの発表によると、下記のようなことが述べられていた。
中国では、量的制限から、大学入学希望者の15%しか大学に入れない
「東よりは西側、都市よりは地方」が圧倒的に貧困地域が多く、そうした場所では、教育に対するニーズが高い
中国は、1万人の労働者に対して、11人の研究者・技術者しかいない。高等教育を受けた技術者、研究者の量が圧倒的に不足している。
中国のWTO加盟のため、企業で必要になる知識の高度化が求められている。それを行う高等教育のニーズは非常に高い。
そこで注目されているのがeラーニング(遠隔教育)である。eラーニングであれば、この量的不足を補うことができるからである。
よく知られているように、中国では1999年より教育部(日本の文部科学省)が主導して、全国68の代表的な大学に、eラーニングコースをつくることを許可した。
北京大学をはじめとして中国全土の有名大学が、学内に遠隔教育部門をつくり、学位を発行できるeラーニングを実施している。
中国トップクラスの大学のひとつである、清華大学でも1999年より、「継続教育学院」をつくり、そのようなプログラムを提示していた。
が、2005年からは、学位取得できるプログラムを一時停止し、現在では「Enterprise Traningプログラム」と「貧困対応プログラム」を提供している。
理由をあとで宋さんにたずねたけれど、あまりはっきりした答えは得られなかった。「Enterprise Traningプログラムの方を有償でやって、得た利益をもとに貧困対応プログラムを無償で運営する」といったようなことを行っていた。
「Enterprise Traningプログラム」はいわゆる企業内教育。
清華大学で生まれた最先端の技術、知識を企業の技術者、研究者に届けることがミッションである。
後者の「貧困対応プログラム」は、中国全土の592の最貧地域を主な対象として、法律、農業、公衆衛生、ビジネス、英語といった知識を届けようとしている。
そのために、清華大学は150のオフキャンパスネットワークセンター、100のティーチングセンターをもうけている。どの程度の教室環境があるのかわからないから一概には言えないけれど、日本の放送大学よりも大規模な運営だなと思った。
テクノロジーとしては、internet、satellite、cable TV、ISDN、CD-ROMなど、使えるものは何でも使うというアプローチ。その地域に応じたテクノロジーを用いて、教育コンテンツをデリバーしている。
---
特に僕が印象に残ったのは遠隔教育(eラーニング)が「貧困と闘うためのツール」として利用されているという事実であった。
日本の遠隔教育で、このようなお題目を掲げているところは、ほとんどないのではないかと思う。
今、中国は激動の時代を迎えている。その中で、都市 - 田舎の格差、親の収入による格差・・・様々な格差が広がり、ひとつの社会不安を抱えている。その中で、教育には何ができるか、そして何ができないのか。
中国という国のすさまじさを感じたプレゼンテーションであった。
投稿者 jun : 2005年10月 7日 20:30
専門は教育学です
「専門は教育学です」
僕は自分の専門を聞かれたら、最近、このように答えることにしています。「教育学」っていうのは、世間の人から見れば、相当マイナーな学問で、こういうと、皆さん「は?」という顔をするのですが、でも、敢えて、こう答えることにしています。
で、僕の専門が「教育学」であることを知ると、あからさまにこういう反応を投げかけてくる人がいます。特に、「先生」とふだん呼ばれている人たちに、非常に多い反応かもしれません。
「教育学やってんですか。それだったら、<よい授業>をするためにはどうすればいいんでしょうか。当然知っていますよね、教育学やってるんだから」
「してやったり」「どうだー」という感じで、こう聞かれます。
うーん、オモシロイものです。
<よい授業とはどういう授業のことを言っていますか?>と逆に聞くことは可能なのですが、だから、そういう野暮な問いは敢えてしません。
おそらく、教育学をご存じない方が、「教育学」にいだくイメージは、「どんなところでも、通用する普遍的な教育のやり方を提案する学問だ」ということなのでしょう。
そういわれると、僕はいつもこう答えることにしています。
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医者に「健康になるためにはどうすればよいですか?」って聞いたら、たぶん、医者は「よく寝ろ」とか「規則正しく好き嫌いなく食べろ」とかいうでしょう。
それと同じレベルの抽象度の高い答えでよいのなら、「よい授業」の秘訣は答えられますよ。「授業の前に準備をしろ」とか「生徒の動機をあげろ」ということでしょうか。
あるいは、ミノモンタさんは毎日、カラダにいい食べ物を思いっきりテレビで紹介していますよね。毎日やってますから、「おいおい、あれもこれもカラダにいいのかよ」ってことになるけど、そういうことは気にしない。
それと同じことでよければできますよ。細かく細かく、わたしに知っている「関連研究」「先行研究」の結果をあげるだけなら、あげられますよ。
話しを元に戻して、あなたに「健康になる方法」を聞かれた医者は、きっと、こう思うと思うんですよ。
「あなたはどういう仕事をしていて、どんな生活習慣をもっていて、どんな既往症があるのか...そういう情報を教えてください」と。「そういう情報がわかれば、もっとよりよいアドバイスができますけど」と。
教育学だって同じなのですよ。どんな場で教育するのか、子どもはどんな子か? 彼らにどの程度の既有知識があるのか、そういった個別の情報をもとに、先行知見を下敷きにして考えれば、なんとかベターな解決が得られるかもしれない。
「これをやれば絶対長生きできる」なんて医者は、信用できないですよね。同じように、「教育の現場で何をどうすればいい」って全部わかるという教育学者がいたとすれば、それは、イカサマですよ。
処方箋をすぐに求めたい気持ちはわかる。そうすると、思考停止できるし、楽だから。でも、それは嘘ですよ。「○○力(りょく)は、こうするとつくよ!」という感じで、一言で言い切ってほしい気持ちはわかる。やっぱり、それは嘘ですよ。
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なんか「人を煙に巻いてしまうような答え」ですが、心の底からそう思います。
教育学的な知は個別具体性の中にあるのです・・・ほかの学問と同じように。
投稿者 jun : 2005年10月 6日 20:29
30万アクセス達成!
おっ、知らないあいだに30万アクセスですね!皆様、本blog、ご愛顧、ありがとうございます。
この祝杯、日本であげたかった・・・。
投稿者 jun : 2005年10月 5日 19:39
だってホープレスじゃない!?
極東国立大学(Far Eastern National University)の学生 - アリーナと昼食のときに、いろいろなことを話した。非常に興味深かったので下記に記す。
アリーナは言う。
---
ロシアの男は、レイジーでルードな人が多い。タバコを吸って、昼間っからビールをのみ、時にはクスリ。
今日、あなたたちは極東工科大学のあたりを通ったけれど、そういう男を見たでしょう。何考えてるのかわかんない、よく昼間っから、大学でビールが飲めるのかしら?
ペレストロイカ以降、この国は本当に変わった。それ以前と、それ以降じゃ、全く違う国みたい。だけれども、全く変わらないのは「男」。男はなかなか変わらない。
多くの女の子は、馬鹿じゃない。
みんなそういうロシアの男に愛想をつかしてる。カナダ、アメリカ、日本・・・この国にくる海外の男の人はみんなマジメ。そういう人と結婚して、はやく、そういった西側の国で永住したいと思う人が多い。だって、ホープレスじゃない、このままじゃ。
でも、それは結局、男に依存してるっていう意味では、あまり変わらない。わたしは、そういう女の子にはなれない。わたしは、そういう生き方をしようとは思わない。わたしは、男の子から<独立>して生きていきたい。
---
上記のような見解が大勢を占めるものなのか、それとも、彼女個人の意見なのかはわからない。
アリーナは今年20歳。15%程度の学生しかもらえない奨学金をゲットし、極東国立大学で英語、フランス語をマスターしようと勉学に励んでいる。
極東の地ウラジオストクで、彼女はしっかりと将来をみすえている。
投稿者 jun : 2005年10月 4日 20:12
ロシアから愛をこめて
無事ロシア、ウラジオストクにつきました。
ヘロー、みなさん。
ここウラジオストク、昼は北海道のような風景の平和な場所です。やや街やビルとかは古いけど、まぁ温度もそこそこ涼しくていい感じです。
だけど、夜はかなり寒いです。あと、スキンヘッドの人種差別主義者が、夜には街にでるそうで、怖いので、お部屋でシンナリしています。「飲み助のカン」をロシアでも働かせたいのですが、スキンヘッドにやられるのはイヤですね。
インターネット環境は、はっきりいって悪いです。大学にいけば何とかつなげますが、お部屋では無理みたいです。まぁ、いいです、ここぞとばかりに原稿を書くことにしたいと思います。
皆さん、お元気で。
ダ スヴィダニヤ・・・・そして我が人生は続く in ロシア。
投稿者 jun : 2005年10月 3日 22:04
三十路
思えば、恥の多い20代を過ごしてきました。
「ブレーキのないジェットコースターに、コカコーラを片手にもって、シートベルトなし」で乗っているような、ハラハラドキドキの時間でもありました。
10月1日 -
男、中原、三十路に入りました。
とはいえ、いやーどうにもまったく実感はありません。ここでもう少しかっこのよいことを言えるとよいのですが、どうにも僕には30代になったということがわからない。
飲み屋などで年齢の話になったら、「いやー、僕はまだ20代だからね」といってしまいそうな勢いです。たぶん、しばらくそのような感覚が続くのでしょう。
だけれども、どうしてなのかはわかりませんが、20代に終止符をうつ最近になって、「時間を有効に使わなくては」と思うようにもなってきました。限られた時間を、無駄にせず、最大限使いたいのです。
たとえば読書。
本には「○○が書いた本」と「○○について書かれた本」があります。たとえば、「西田幾多郎が自ら書いた本」と「西田幾多郎について書かれた本」。
西田哲学の真骨頂を僕が理解しているとは到底いいがたいのですが、時間が限られているのならば、前者をゆっくり時間をかけて読みたいと思うようになりました。
今の例は読書についてだけですが、このことは音楽にだっていえるし、映像にだっていえる。「○○風」のものを見るのではなく、「○○」が見たい。
30代 - 時間は10年と限られています。
さて、どんな10年になるでしょうか。
明日からの一日一日、楽しみでなりません。
追伸.
誕生日に際してメールなどいただいた方々、ホントウにどうもありがとうございました。
さらに追伸.
今日からロシア出張(別名シベリア送り)です。インターネット使えるとよいのですが。来年、東京大学がホスト校になって、APRU DLIという国際会議を開催するのですが、その関係でシベリア送りです。ウラジオストクにある極東大学というところにいきます。
ウラジオストクは、昼間は常に手荷物に注意、夜は飲みに行くなんてとんでもない、という「超治安の悪いところ」らしいです。おまけに、警官が一番ヤバイらしくて、何かにつけて職務質問をして、金をまきあげるらしいです。
トホホ・・・。オレ、無事に帰ってこられるのだろうか。帰ってこられなかったら、運動を起こして僕を救ってください。よろしくお願いします。
投稿者 jun : 2005年10月 1日 08:37