「恋するフォーチュンクッキー」社員ダンスはどう解釈できるのか?:1粒で2度美味しい「PV公開を通した組織開発」である!?
まずは、ひとつの動画をご覧下さい。
この動画をはじめて見たのは、ちょうど一年前くらい前のことだったことように思います。
同志社女子大学の上田信行先生と、いろいろなプロジェクトを進めていた頃、アメリカのセサミワークショップ(セサミストリートをつくっているプロダクションですね)が、当時大流行していたカーリー・レイ・ジェプセンの「Call me baby」をパロディ化した「Share it maybe」を社員で踊り、公開して話題になっておりました。
「こういうのをやる、日本企業って、今後、でてきますかねぇ。みんな、心では、ちょっとやってみたいな、と思いつつも、きっと、恥ずかしがるんでしょうね」
と、みなで話していたことを憶えています。
それから時はすぎ、はや1年。
予想を裏切り!?、最近では、「恋するフォーチュンクッキー」を社員・従業員みなで踊り、そのPVを公開する、というムーヴメントが、流行しているようですね。
もっともよく知られているのは、サイバーエージェントさんのもの。
個人的には、佐賀県庁さんのものが、いい味をだしているように感じます。
その全貌に関しましては、昨日、産業能率大学の橋本先生が、ブログにまとめておられていたので、それにあやかって、僕も、ブログで書いてみることにしました。
橋本先生のブログには、様々な組織のPVがまとめられているので、ぜひご覧下さい。
産業能率大学の橋本先生のブログ
http://www.hashimoto-lab.com/2013/09/3194
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さて、僕が、今日、考えてみたかったことは「恋するフォーチュンクッキー」社員ダンスは、組織論的!? 組織行動論的!? には、どのように解釈しうるのか?
ということです。
これには様々な「解釈」がありえますが、皆さんはどう思われたでしょうか。
僕が、これらの社員ダンスPVを見て、真っ先に思ったことは、これは
「ダンスのPV公開を通した組織開発(Organizational Development)」
として解釈できるのではないか、という妄想です。しかも、これは撮影され、Youtubeなどでの一般PV公開をともなうので、組織の宣伝(イメージ)の機会にもなります。
僕が、これを起案する立場ならば、おそらく外向きには、わかりやすい後者の理由づけをおこないます。そして、前者の理由は心に秘めておくような気がしますが、いかがでしょうか。僕が組織開発や経営企画を担当していたら、きっと、そう考えるように思います。
ちなみに、組織開発とは、様々な定義がありますが、「組織のメンバーのつながりを強くし、組織力を高める活動」とさしずめ、ここでは捉えて下さい。
先ほどのセンテンスを、別の言葉でいいなおすならば、
「社員でひとつのダンスを踊り、PV公開することを通して、組織のなかの人のつながりを強くし、組織の凝集性を高めることができる。しかも、広報効果をあわせもつ1粒で2度美味しい的なグリコのキャラメル的活動である」
として解釈できるのではないか、ということです(笑)。
あくまでひとつの解釈なので、真に受けないで下さい。
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つまり、こういうことです。
まずは、ひとつずつ、「ダンス」というものから解釈を進めていきましょう。
これは高尾隆さんとの共著「インプロする組織 予定調和を超え、日常をゆさぶる」という著書に書かせていただいたことですが、「ダンス=身体を即興的に表現・創造に用いること」とは、これまで組織ともっとも相容れない活動、すなわち、それが実現した際には「強烈な非日常性や祝祭性」を感じることのできる活動であると考えられます。
一般に、組織は、身体を「パフォーマンス(生産性向上)」のために用い、それを管理することはあっても(生産管理)、それを表現のために用いることを社員に求めることは、これまであまり多くはありませんでした。
かつて、パフォーマンススタディのジョン・マッケンジーという研究者は、「パフォーマンス」という言葉を2つの意味において用いています(McKenzie 2001)。
これまでの企業は大量生産、大量消費を可能にする「効率(パフォーマンス)」が追求されていた。そこでの身体は、ここで述べるならば「既存のオペレーション」をまわすための「管理された身体」です。
しかし、今後の企業は自らをフレキシブルでクリエイティブな存在ととらえなおし、多種多様な創造的パフォーマンスを発揮しなければならない。それを支えるものは、ここでいう「創造のための身体」であり、こちらも「パフォーマンス(創造)」としてとらえることができるだろう。これがマッケンジーの組織と身体をめぐる理論的整理でした。
たしかに、マッケンジーがいうように、これまで組織は「管理された身体」として身体に向き合うことはあっても、「創造のための身体」をもとめることは非常に「レア」であったと解釈できます。
(組織の中で身体を意識する局面は、多くの場合、健康診断か、人間ドック、生産管理ではないでしょうか。前者は病気かどうか、要するに「まだ働けるか」を検証する手段です。後者は、どのように身体を動かせば、効率的で儲かるか、ということに関するテクノロジーです。いずれにしても、そこで想定されているのは、管理された身体ですね)
しかし、「だからこそ」、「そういう現状であるから」こそ、それを「実際に実現できたとき=創造のために身体を用いることができたとき」には、組織の中に圧倒的な「非日常性」や「祝祭」を演出することができます。だって、ふだん、そんなことやってないんだから。社内で踊るなんて、あり得ないんだから。
この「非日常性」や「祝祭」こそが、「組織の凝集性」を高める「資源」です。ここには「非日常性の高いことに、組織をあげてチャレンジしてなしとげた」という高揚感がついてまわります。
さらには高揚感だけではありません。ここでビデオを作成した方は、自分の周囲の少なくない人に、このビデオを見せたのではないでしょうか。
「実はさ、うちの職場で、こないだダンスやってさ」
「えー、お父さんの会社で、AKB48踊ってたんだって!」
「あー、Aさん、最近、みないうちに太ったわね」
「えっ、これがパパの職場なの?」
という具合に、組織内外、場合によっては家族に、このPVを見せて、この出来事と、組織について語ることは容易に想像できるのではないか、と思います。
かくして、こうしたプロセスを通して、おのずと、「自分が組織の一員であること」は、意識されるはずです。なぜなら、このビデオを他者とともに鑑賞することは、「組織の活動」「組織」「組織のメンバー」そのものを語る機会になるからです。
そこで働く心理的機制のうちで、もっとも大きいなと思うのは、
「AKB48を踊っちゃったうちの組織と、それ以外」
「あんな非日常の空間を味わったわたしたちと、それ以外」
という境界の強化です。
「非日常的で祝祭的で、一見、合理的にみえない活動を実施した僕たち」というかたちでアイデンティティが高まり、組織の境界が一時的に高まることが期待できるのではないでしょうか?
もちろん、場合によっては「へー、うちにはこんな部署もあったのか」と組織のことを知るチャンスにもなりますね。
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しかも、この「ダンス」は、実際は、それなりに練習をすれば、見ているよりも、演じることは難しくはないということにミソがあります。
ポイントは、PVとして自分が映るのは「非常に短期間=一瞬」だということです。
長い時間身体を動かすことはできなくても、短時間、それなりに身体さえ動かし、うまく編集すれば、あたかも長時間、組織をあげてみなが踊っているように見えてしまいます。
つまり、本当は「組織全体がみなで踊ったこと」はないのです。「組織をあげて、みなで踊ったこと」は、実は、デジタルテクノロジーによってつくられた、ヴァーチャルなイメージ」なのです。
実際は、職場や部署単位で、撮影を短時間にすませたものを、編集していることが多いのではないでしょうか。それゆえ、時間的コストはかなり限定的であるはずです。しかし、「ヴァーチャルなイメージ」は、心に強く残ります。3分07秒で表象された、このヴァーチャルなイメージこそが、「組織全体」なのだと。
しかし、このように「敷居が低い活動」であるにもかかわらず、その活動は「協働的な創造行為で愉しさをともなうもの」です。
みなで協力して、何かをつくりあげ、しかも、愉しい。この「協働性」「創造性」「共愉性」こそが、大切なポイントである気がします。これら3つは、多忙化する現代において、もっとも組織が失いかけているものでしょう。愉しいことって、大事なことなんですよね。
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今日は、「恋するフォーチュンクッキー」社員ダンスを、勝手気ままに解釈してみましたが、いかがでしたでしょうか。大いなる誤解と妄想を含んでおりますが、僕は、そのように思いました。
しかし、考えてみますと、このあとに広がる「将来」の論理的帰結は、非常にアイロニカルです。
つまり、「非日常性」と申しますものは「常態化」しますと、効果が限定的になっていきます。組織開発の源泉である「非日常性」が、その普及にともない「減衰」していく事態が生まれる。つまり「常態化した非日常は、日常である」ということです。
ということは、どこの組織でも「恋するフォーチュンクッキー」を踊るようになってしまえば、それは「日常」です。ですので、おそらく、そこには「やらされ感」が今よりも高まるでしょう。
ですので、おそらく、このブログをご覧になって、興味をおもちになった方がいらっしゃったり、あるいは、公開されているPVをご覧になって興味をおもちになった方がいらっしゃったとしたら、「恋するフォーチュンクッキー」を超える「次のこと」を考えなくてはならぬときかもしれません。
しかし、それはそれで、まことに愉しいことではないでしょうか。
そして人生は続く
投稿者 jun : 2013年10月18日 06:46