「思考」と「対話」を導く「問い」の3つの条件

 昨今では、成人学習の領域でも、研修・授業・ワークショップの合間に、参加者同士で「対話」をする機会が増えてきました。10年前 - 15年前を考えますと「隔世の感」がありますが、学びをよりインタラクティブにする工夫に関して、多くの人々が興味を持ち始めているような気がします。

 しかし、「惨い話しあい」「惨いディスカッション」「惨い対話」というのも、一方で、随分と生まれ出ている気がします。

「なぜ、話し合わなければならないのかがわからない」
「何について話し合わなければならないのかわからない」
 
「対話」を安易に捉えて、「参加者の自由に時間を過ごすこと」とイコールに考えてしまう。その結果、参加者を「放置してしまい、実りのあるディスカッションにならない、ということが生まれてきます。

 そういう場合によく見られる認識が、下記のようなものです。

「対話をさせるんだから、自由闊達に話をさせればいいんだよね。そうすれば、素晴らしい話し合いができるんだよね」

 いわゆる「対話ロマンティシズム症候群」とよばれるような状況が、散見されます。
 
  ▼

 とはいえ、「実りの多い対話」を導くために留意するべき点は、枚挙に暇がありません。
 しかし、ここで大切なことを、敢えて「ひとつ」だけ述べるのだとすれば、やはり「問い」だろうということになります。
 自由に話し合ってもらうのはいい。しかし、そのプロセスの中で、人々に「考えてもらう」問いをいかに練るか。Driving Question - すなわち、思考を駆り立てるような問いをいかにつくるか。これが最も重要なことのように思います。

 じゃあ、「問い」はどんなものがよいのか、ということになりますと、3つの観点からチェックができるのではないか、と思います。問いは「共有可能(K)」であり「思考可能(S)」であり「出力可能(S)」なものであればよいのかな、と思うのです。

 すなわち、多くの人々がともに関心を共有できるものであり(共有可能)、かつ、それを考えることにフィージビリティがあり(思考可能)、話し合った結果を、何らかのかたちでアウトプットできるものであるということです(出力可能)。
 
 こう書いてしまえば、アタリマエのように聞こえますが、これがなかなか、そうはいきません。
 参加者の一部だけが反応し、他が白けるような問いを投げかけてしまう。そのことを考えても、あまり意味がなさそうなことを問いにしてしまう。よって、話し合った結果は「今ひとつ」でとらえどころがなく、言語化・アウトプットすらできない。そういうことが、まま、あるような気がします。

  ▼

 問いを投げかける瞬間、僕のいつも心に浮かぶのは、「静かだった湖に小石を投げ、水紋が広がっていくイメージ」です。なぜこのイメージなんだかよくわかりませんが(笑)、そんなことを思います。

 願わくば「良質の思考」を導く「良質の問い」を練っていきたいものです。
 自戒を込めて

 そして人生は続く

  

投稿者 jun : 2013年7月29日 07:53