学生の発表を聴きながら、ひそかに、僕がチェックしていること
昨日は修士論文中間発表会で1日、審査にあたっていました。大学院学際情報学府の、今年の修士論文執筆予定者が、修士論文の計画・問題に関してプレゼンテーションを行い、複数人の教員が、それに対してフィードバックしつつ、質疑・ディスカッションをする。昨日は、そういう一日でした。
中間発表は、発表をなさる大学院生の方が一番大変だと思います。まことにお疲れさまでした。よかったね、終わって(笑)。
でも、一方で、発表を連続で聴く教員の方も、この日は、なかなか大変です。
自分の研究分野とは必ずしも重ならない研究発表をはじめてうかがい、なるべく、学生のお役に立てるような情報を、即時にフィードバックしなくてはならない。
現在、当該学生さんが抱えている「ロジックの飛躍」「実験計画や調査計画の盲点」を見抜かなければならない。それを、ただちに指摘しなくてはならない。
それは、それで、なかなかの「知的重労働」で、昨日などは、帰り際の電車の中で、口をあけて爆睡してしまい、隣のオッサンによっかかっていました。かなり嫌がられた。ごめんよ、オッサン(オレもオッサン)。まことに迷惑な光景であったと想像します。
いやー、それにしても、ハードな一日だった。
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ところで、話題を変わりますが、大学教員などをしておりますと、年に数回、こうした発表会や審査会があるのですが、そのたびごとに、僕が試みている「知的チャレンジ」があります。
それは、同じ研究発表を聴いている他の審査員の先生方と(複数人で学生の研究発表を聴きます)、どれだけ同じようなコメントを自分がすることができるか、ということです。
同じというと、すこし語弊があるかもしれません。
むしろ他の先生方と同じ知的鋭敏さで「問題の本質」を、どれだけ、見抜くことができるのか。そんな風に、自分の感覚を「自己チェック」する機会として、この審査会・発表会を役立てているのです。
不思議なもので、本当に全く学問領域は異なるのですが、同じ発表を伺っていて、先生方がコメントする内容は、驚くほど似ているな、というのが、僕の「偽らざる感想」です。
もちろん、言い方や表現、そして用いる専門用語は、それぞれに異なります。しかし、同じ発表を聴いたときに行う研究へのアドバイスは、「本質的には同じこと」を言っていることが、実に多いような気がします。
ここで確かめたいのは、自分の問題把握力のズレです。
別の言葉でいうと、
自分の知的感覚、本質的な問題把握力が「まだまともか」を、他の先生方のコメントを「鏡」にして、確認している(オマエは、もうヤバイとおっしゃる方もいらっしゃるでしょうが)
といったら言い過ぎでしょうか。
まぁ、ひそかに愉しんでいる「おひとりさまゲーム」です。
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僕にとって、昨日は、そういう日でもありました。
結果は、ここでは述べませんけれども、まぁ、自分的には「まだまともかも」という感想を持ちました(笑)。自分が研究発表を聴いたときに思うことと、他の先生との認識の間には、それほどズレはなかった、と認識しています(オマエと一緒にすんじゃない、と怒られそうですが)。
あぁ、よかった。
一般に、
人は「無能になるまで」成長する
という言葉があります。
とくにミドル以降というのは、他から、あまり指摘を受けなくなるので、自分の知的鋭敏さが、もし鈍ってきたとしても、なかなか自覚できない。しかし、ミドル以降こそ、自己に対して、かなり自覚的、かつ、内省的になる必要があるような気がします。
自戒をこめていいますが、領域によっても、違うのかもしれませんが、何らかの機会をとらえて、常に、自分をチェックしていく必要があるのかもしれません。
そして人生は続く
投稿者 jun : 2013年7月 4日 06:52