あなたの学生時代、最も「記憶に残る授業」は何ですか?
高等教育機関(大学・短大・専門学校)で、あなたが受講した授業の中で、最も印象に残った、ないしは、記憶に残る授業を3つあげてください。それはどんな内容を扱った授業でしたか?
もし、仮に、皆さんが、そのように問われたら、どんな授業をあげますか?
それは、どんな内容・活動が扱われる授業でしたか?
大学時代、皆さんには「記憶に残る授業」、ありますか?
皆さんが、まだ若い頃のことです(笑)。
下記の写真は、僕が「22歳」の頃(笑)
思い出していただきたいのは、皆さんが、
この写真の年齢の頃、受けた授業の話です(笑)。
皆さんは、どんな学生時代を過ごしておられましたか?
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僕の場合でしたら、最も印象的だった授業は、学部生の頃にとった「社会調査実習の授業」です。
この授業では「社会調査を丸1年かけて構想し、自分たちで仮説をつくって、実際に質問紙をつくり、調査紙を配付・実施して、その知見を発表すること」を行いました。
違う学科の授業でしたので、僕にとっては「必修」ではないのですが、でも、こちらの授業に参加させていただいたことで、とても得るものは多かったように思います。
そこでは「仮説をたてることの難しさ」「方法論をもつことの大切さ」、そして「みんなで議論することの面白さ」、そして「分析するときに必要な根気と気合い」について学んだ?ような気がします。
僕は、決して「出来の良い学生」ではありませんでした。しかし、今でも、そのときのことは、印象に残っています。そんな授業を、ありがとうございます。
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印象深い2つめの授業は、夏の集中講義で実施された「からだとことばのワークショップ型の授業」でした。これが、また趣深かった。
演劇をテーマにしたそのワークショップ型授業では、数日かけて、様々なワークに取り組みました。印象的だったのは、授業の中で行われた「自分の声を他者に届けるというワーク」です。以前、このワークについてはブログで書いたことがありますが、その様子は、こんな感じです。
あなたが、仮に、この授業の参加者のひとりだとして、今、あなたの10メートル先に、別の3人の参加者が、あなたに「背」を向けて座っています。あなたは、その3人の参加者のうち「誰かひとり」を決めて、
「ねぇ」
と10メートル手前から声をかけなくてはなりません。その一人の「名前」を呼んでしまってはいけません。背を向けている一人に対して、あくまで「ねぇ、ねぇ」と呼びかける。
背中から呼びかけられた3人は、そのとき考えます。「ねぇ」というあなたの呼び声を聞いて「もし自分が呼びかけられたな」と感じたら、手をあげる、というものです。
このワーク、やってみると面白いもので、自分が呼びかけた人とは「違った人」が手をあげたりします。もっとも頻繁に起こるのは、いくら呼びかけても、誰も手をあげない、という事態です。つまり、「声」がなかなか届かない。焦れば焦るほど、声は空中をあてなく飛び交ってしまうのです。
このワークには、あとにリフレクションも用意されていました。
呼びかけられた3人に、「呼びかけられたときに、どのような気持ちがしたかを答えてもらう」というわけです。
「なんか、声がわたしの背中の前で、ストンと落ちた感じ」
「なんか、焦っていて、みんなを怒鳴っていた感じ」
という具合に、呼びかけた本人に対してコメントがなされます。
その上で、「呼びかける」とは何か、「声を届ける」とは何かを考えます。
口をあけて声を出せば、声は発せられます。そのことと「他者に呼びかける」と「他者に声を届ける」は、何が違うのか・・・。「声を届ける」というメタファをもとに、「自己の他者に対するかかわりのあり方」を考えるのですね。
今から考えてみても、相当、ディープな授業でした。
これ以外にもたくさんのワークがあって、いくつかは憶えています。
「三四郎池をペアで散歩する」というワークもありました。まずは二人でペアになる。ひとりは目隠しをして、ひとりは目隠しされた人の手をとって、三四郎池のまわりの、でこぼこ道を誘導する。「支援するとは何か?」「他者とは何か?」「コミュニケーションするとはどういうことか?」を考えます。
重ね重ね、ディープな授業です。
そんな授業をしてくださった先生に、感謝します。
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最後の授業、3番目に印象深かった授業は、「経験をコンピュータで表現して、展覧会をひらくという授業」です。
この授業では、東大のキャンパスを東大生と美術大学生で散歩して、そこで見たもの / 聴いたもの / 感じたものを、コンピュータで抽象再現し、3Dのムービーにするという授業を受けました。
もっとも興味深かったのは、リアルな経験を抽象的図形で表現したうえで、授業の一番最後に、食べ物や飲み物も少し用意しながら、展覧会をひらき、お客さんにきてもらう、という授業形式です。
美術大学ではあたりまえなのかもしれませんが、「授業が授業に閉じていない」ということに、しかも、その最終アウトプットが展覧会であったことに、僕は、まずびっくりしました。
重ね重ねで恐縮ですが、僕は、必ずしも、出来の良い学生ではありませんでした。おそらく、当時は、その意味もわからず、授業の最初から最後まで違和感を抱えていました。しかし、このときのことは、印象に残っています。素晴らしい時間をありがとうございました。
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こうして3つの授業を並べてみますと、面白いことがわかってきます。
ひとつめに興味深いのは、それらは全く異なる授業とはいえ、共通点もあることです。
僕が興味をもったのは、知識を「勉強」する、頭の中にたたき込むというよりも、「実際に自分の頭で考えて、自分の手で、やってみること」が含まれていることです。そんな授業に、僕は魅了されました。
ふたつめに興味深いのは、僕が選んだ3つの授業には、必ず「ともに学ぶ仲間との議論や活動」が含まれているということです。学習が、自己に完結していない。むしろ、他者との関係の中にある、という点が、興味深いことです。
研究知見からいえば、これらの結果は、それなりにもっともなことであります。たとえば、Pascarella et at (1999)「How college affects student」では、2500編の論文のメタ分析のメタ分析を通して、大学生の学習効果は「学生が教師や学生とクラス内でどの程度相互作用しているか」によって決定されることを明らかにしています。この分野の泰斗、Astin(1993)は、20000人の学生に対する社会調査を通して、学業成績 / 満足度に影響を与えるのは「教員との相互作用」「学生同士の相互作用」であることを明らかにしています。まぁ、そういうことです。
最後に面白いなと思うことは、これらの授業は、間違いなく、「今の僕」に少なくない影響を与えていると思われることです。
ひとつめの授業のキーワードは「仮説 / 調査 / 探究 / 分析」。
ふたつめの授業は「身体 / 他者 / 言葉 / ワークショップ / 支援」。
みっつめの授業のキーワードは「表現 / 情報技術 / 展覧会」。
これらのキーワードは、今、聴いても全く新鮮です。それから20年たった、「今の自分」でも興味を持ちそうなことが含まれているような気がします。
いいえ、正しくは、こうした授業の果てに、「今の僕」が「つくられた」のでしょう。そういう授業の積み重ねの果てに、僕はいるのかもしれません。
僕は、必ずしも出来のよい学生ではありませんでした。しかし、今、ひとりの大学教員として、大学で生きています。そして、ひとりの大学教員として「自分が影響を受けたような授業」を、ひとつでも多く実践したいものです。いまだ修行不足だとは思いますが、そういう授業ができるように、僕はなりたい。
皆さんはいかがでしょうか?
大学時代、皆さんが、もっとも印象に残った授業は何ですか?
それはどんな特徴をもつ、どんな内容の授業でしたか?
そこにはどんな共通点がありますか?
今の自分との連続性は、ありますか?
そして人生は続く
投稿者 jun : 2013年6月27日 07:00