自分の周囲を「実験空間」に仕立て上げる!?:コミュニケーションや関係をデザインすること

 仕事柄、これまで人並み以上(?)に、ビジネスパーソンの方々を対象にしたワークショップやイベントなどを実践してきましたが、その際、たくさんの学生さんに、アルバイトとして、御協力いただいたり、お手伝いいただいたりしています。心より感謝です。本当にありがとうございます。

 お手伝いや仕事の種類は多々あるので、十把一絡げに、これらの仕事を一概にまとめることはできないのですが、学生の皆さんには、こうした「アルバイトを通じて」、ぜひ気づいてほしいな、と思っていることが、僕にはあります。
 それを口にすることもありますし、できないこともあります。最近は、僕自身があまりに忙殺されていて、そういうことをお伝えする時間がなかなか持てないことが、とても残念です。これは最近猛省していることです。本当にすみません。

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 僕が学生の皆さんにお伝えしたいこと、それは「常に自分の仮説をもつ癖」です。
 今回の話の場合、より具体的にいえば、「どんなものでも、学び・コミュニケーションと結びつけて考え、人の動きや思いを予想する癖」ということになります。

 たとえば、今から、会場に「今から椅子を並べる」とします。そのときに、真っ先に考えたいことは「椅子を並べること」ではありません。
 むしろ、機会があれば、第一に考えたいことは「椅子の並べ方によって、人々は、どのように動き、どのようにコミュニケーションを行い、それにどの程度の時間がかかるだろうか」と考えることです。もちろん誰かが指示をするかもしれません。でも、その場合は、どうして、この人は、こういう指示をしたのだろうか。この人の仮説は何だろうか?と考えることができます。
 いずれにしても、こうした問題に対して、自分なりの「仮説」を持っていただけたとしたら、お手伝いが「単なるアルバイト」以上の経験になるような気がします。

 大切なことは、「椅子を並べる」のではありません。
 「人々のコミュニケーションをデザインすること」なのです

 たとえば、会場に「ケータリング」をするとします。このときも同じです。
 行いたいことは「食事を発注すること」ではありません。それを間違いなく実行して頂くのはとても大切なことですが、できれば、それ以上の経験をしていただきたいのです。
 むしろ、ぜひ、自分なりの仮説をもっていただきたいことは、「食事をとおして、人々は、どのような間合いで動き、交流し、どんな関係が生まれるだろうか?」と考えることなのです。食事を置くこと、ひとつでも、どのように置けば、交流が生まれるだろうか? 人はどう動くだろうか、と考えることです。

 大切なことは、「食事を発注すること」ではありません。
「人々の関係や動きをデザインすること」なのです。

 もちろん、人は、自分が思ったようには動きません。でも、それでいいのです。思ったように動かなければ、あとは状況に応じて対応をインプロで考えるしかありません。
 しかし、まだ自分に十分な力量が形成されていないときは、最初からインプロしないでほしいのです。むしろ、一度は「仮説」をもっていただいた方がいいように思います。

 ひと言でいえば、「実験(実験)」をしてほしいのです。
 自分で「仮説」をもち、実行し、確かめていただきたいのです。

 実験は「実験室」がなければ、できないことではありません。
 実験は、気の持ち方次第で、わたしたちの「日常」に起こすことができるのです。
 ぜひ、身の回りを「実験空間」に仕立て上げて下さい。

 そして、ワークショップやイベントのアルバイトを通して行って頂きたいことは、「Learning Experiment(学びの実験)」に他なりません。

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「常に仮説をもつこと」とは「習慣」です。どの程度でできるようになるかは、わたしにはわかりませんが、ぜひ、そういう癖をもっていただけたとしたら、アルバイトは、単なるアルバイト以上の価値をもつようにも思います。

 僕が主催するおこす様々なイベントやワークショップは、中原研OB/OGや学生さんの方々の御協力抜きには成立しません。いいえ、むしろ、頑張っているのは僕ではなく、彼 / 彼女たちです。

 いつも、本当にありがとう。
 そして人生は続く。

投稿者 jun : 2013年5月31日 09:17


今、組織社会化のまっただ中にいる「小学一年生」と「親のわたし」

 あと2日間で、あちゃぱー、6月ですわ。夏学期も、そろそろ「折り返し地点」くらいでしょうか。
 小生の大学院授業「経営学習論」も、「組織社会化のセッション」を終え、昨日から「リーダーシップ発達論(Leadership Development Theory)のセッション」にはいっています。ちょうど「折り返し地点」です。「組織社会化」とは、ひとことでいえば「新人の育成・組織適応」ですので、授業も「初期キャリア形成」をおえ、ようやく、「中堅のキャリア」に至ったということでしょうか。

  ▼

 ところで、「組織社会化」といいますと、今年、小学校1年生の愚息・TAKUZOの生活を見ていると、まさに彼も、今、「組織社会化のまっただ中」にいるのだな、と思います。つまり「学校=組織」とみたてると、それに適応していくプロセス、社会化されるプロセスのまっただ中に、彼もいるのだな、あるいは、そう見立てることも可能なのだなと思うのです。

 小学校1年生で学んでいるのは、今のところ「あいうえお」とか「12345」です。
 おそらく、それも重要なのだけれども、この時期、それと同等くらいに大切なのは、

 「学校とはどういう場所であるのかを理解し、実践すること」
 「授業中のただしい振る舞いを理解し、実践すること」
 「宿題をやる習慣を獲得させること」

 などなど、もう少し「メタ的」なものを理解・行動変容させていくことなのかな、と感じます。それもポジティブな感情をもちつつ(つまり、学校が嫌いにならないようにしつつ、うまく組織適応をはからなくてはならない)。すみません、全くの専門外ですので、間違っていたら、無視して下さい。

 実際、教科の学習内容は、おそらく難解なことはあまりない(あ・い・う・え・おでつまづく生徒は、あまりいないでしょう)。それよりも、子どもがストレスや抵抗を示すのは、上記のようなメタ的な内容を獲得させられることなのかな、と思うのです。それをポジティブな感情を持たせつつ、これらの社会化課題を達成することが、1年生の夏学期の課題なのかな、と勝手きままに想像しました。

 そして、何より大切なことは、親も、いわゆる「社会化されているひとり」だということです。ひとことでいえば、「子どもの学習に関与する主体」を、ごくごく社会化初期に形成しなければならない。別の言葉でいうならば「子どもに対する社会化エージェント」としての「親」を、ごくごくはやいうちに、学校は形成しなくてはならないのかな、と思うのです。
 たとえば、宿題に関して言えば、僕たち親が、TAKUZOがやった宿題をみて、○×の評価を行い、ハンコを押し、先生に提出することを求められているのですが、それは「親の社会化プロセス」、より具体的には、「子どもの勉強に関与する習慣を獲得させるプロセス」とみなすこともできるのかな、と思います。

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 TAKUZOは、今のところ順調に、小学校に通っています。このあと、どのような変化をとげるのかを、興味深く見ていこうと思います。そして、親のわたくしめに起こる変化も。

 まぁ、僕が「学校教育」の研究に戻ることは今後ありえませんが、「組織社会化」という観点から(リーダーシップ発達論でもいいですが)、つまりは組織論的観点から、親・子どもを見つめ直すと、また面白い知見が生まれるかもしれませんね。もうやられているのなら、すみません。ジャストアイデア恐縮です。

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2013年5月30日 07:37


「研究会」に育てられた<わたし>、怪しい時間を取り戻せ!?

「みなさんで、研究会でも、やろうか」
「この本で、いっちょ、研究会でもやりましょうか?」

 研究者同士の間では、そのような会話が、時にかわされることがあります。
「研究会とは何か?」ということになりますと、その定義は誠に広く、研究者間で合意など存在するわけもないのですが(笑)、そのまんまでは、話が1ミリも進みませんので(笑)、ここでは、さしずめ、それを

「異なる研究領域をふだんは研究しているのだけれども、共通の問題関心・テーマをもった研究者が、自発的に集まって、自由に議論する社会集団」

 として、のちに、話を進めましょう。

  ▼

 考えてみますと、僕の研究半生?においては、「研究会」は、自己 / 自己の研究領域の形成に非常に大きな役割を果たしていたように感じます。

 学部時代には、指導教員の先生がひらく大学院レベルの「研究会」に無理矢理?、ドサクサに紛れて参加させてもらい、そこで交わされる言葉が何一つわからない経験を、たくさんしました(笑)。

 ひと言でいいますと、

「あのー、何語で話してます?
 日本人なんだから、日本語で話しましょうよ!」

 という感じです。
 もちろん、先輩研究者も、先生方も、「日本語」で議論しているのですが、そこで議論されている内容が、ほとんどわからない。たまに、議論していて、皆が「爆笑」したりするわけです。しかし、何が面白いんだか、僕ひとり、わからない(笑)。
 ひとりだけ「わからない」のは、気が引けるので、みんなが「爆笑」するたびに、僕も笑うのですが、いつ「中原君、今、何が面白いのか、いってごらん」と言われ、「何もわかっていなこと」見抜かれるか、びくびくしていました(笑)。

 仕方がないので、わからない言葉を、懇親会で、先生に質問したりするのですが、オチャケもはいっているので、わかるような、わからないような(笑)。
 本当にわからない言葉は、ひとつひとつ書き留めて、おうちに返って、ひーこらひーこら、調べていました。
 嗚呼、そんな状態の僕を受け入れて下った、当時の研究会メンバーの方々には、心より感謝しています。

 また、自分でも「研究会」をたくさん主催していました。
「自分が読んでみたいと思う本で、しかし、ひとりで読むことは難しいだろうな、と感じるような難解な本」をテーマに、ひとりじゃ、寂しいので、他の学生を巻き込んで、たくさんの研究会をつくっていました。
 時には、先生方にもご参加いただいたり、ご講義いただいたり、研究会終了後の懇親会にご参加いただき、カンパをいただいたり(すみません・・・ありがとうございました)

 自分で研究会を立ち上げた理由は、要するに
 
 「赤信号、みんなで渡れば怖くない」的発想

 ですね(笑)。

 この時代に読んだ本に、たとえばブルデューの「再生産」とかがあります。
 その主張は、いまだにぼんやりとしかわかりませんが(笑)、それでも、ひとりで、あの難解なブルデューのセンテンスに出会い、プルプル身悶える・1行目から爆死するよりは、まだ、マシだったかもしれません。皆さん、楽しかったよねぇ、、、それにしてもわからなかったね・・・(笑)。

「およそ象徴的暴力を行使する力、すなわちさまざまな意味を押しつけ、しかも自らの力の根底にある力関係をおおい隠すことで、それらの意味を正統であるとして押しつけるにいたる力は・・・」「再生産」ブルデュー&パスロン

  ・
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  ・

 ひとりで読んで、わかります?

  ▼

 大学院時代 / 助手時代には、同じ志をもった研究者や大学院生を集めて、定期的に研究会を開催していました。
 その様子、そこでかわされたレジュメは、すべてWebで公開し、そうこうしているうちに、参加する方々が多くなったり、仲間が増えてきました。大学をこえ、組織をこえ、なんか、最近、知り合い多くなったなと思う頃には、僕も30を超えていました。この時代にご参加頂いたみなさま、楽しい時間でしたね。

 このように僕のキャリアにとって、「研究会」はまことに大きな影響を与え続けてきました。
 しかし、だんだんと、年をとり、自分も「中堅」と呼ばれ始めるにつれて、「研究会」に参加することは、なかなか、難しくなっていきました。
 子どもができ、週末の時間がなくなると、さらにその傾向は強まっているような気がします。ミドルキャリアを歩む方にとっては、そういうことが生じることも、また受容するべきことのように感じます。

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「研究会」に似ていて、しかし、ちょっとニュアンスの異なる会合には「研究報告会」や「学会」や「イベント」などがありますが、それならば、まだ参加したり、主催することは多々あります。

 しかし、それらの会は、「できあがったもの=まとまったひとそろいの研究知見」を、他の方々に公開するためのもので、「研究会」とは、また異なるような気もします。

 あくまで僕の印象にある、「研究会」とは、どこか「怪しいもの」、アングラの香り?がダバダーと漂うものなのです(笑)。平日昼間(シャバの世界)では何をしているのか、さっぱりわからない大人達が、週末や夜に集まり、議論する(すみません、皆さん、しっかりしたお仕事をお持ちの方であったと思います。当時の僕がわからなかっただけ)。
 そういえば、15年くらい前の研究会は、それこそ、タバコを吸う研究者の方も少なくなかったように思います。狭い研究室で、タバコをときに吸いながら(タバコを吸うのは上の先生だけです・・・)、世間を憂い、小難しいことを議論する。
 すべての「研究会」がそうではありませんが、僕にとって、研究会の最初のイメージは、そんな感じでした。

 それは、

「いまだ領域の確定しない、別の言葉でいうのなら、海のものとも山のものともわからないような未開拓の領域や知見を持ち寄り、自由闊達に、楽しく怪しく議論する場」

 なのかもしれません。

 先日、メディア論の吉見俊哉先生(センター長、つまりは小生の上司です)とお話ししていて、日本の人文社会科学の発展にとって、「研究会」はまことに大きな影響があった、という話題がでました。そして、この場合の研究会は「Study Group」や「Research Group」という英語とは、ややニュアンスが異なると。それは、なかなか定まった「ラヴェル」を名付けることは難しい、と。

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 さて、時はうつりかわって、現代。

 小生、「マインドはいまだ20歳!」、何一つ賢くなった気がしないのですが、そうこうしているうちに、僕も、あっという間に年齢を重ねました。そして、今、日々の雑事に忙殺されている自分を、時折、発見します。

 忙しくなれば、まっさきに失われるものは、「ラヴェルづけされない時間」「怪しい時間」です。そうした時間は、昨今の自分から急速に失われているような気がします。これではいけないのかもしれません。

 研究会の時間を、取り戻したい、と思います。
 そして人生は続く。

投稿者 jun : 2013年5月29日 08:24


「インタラクティブな学習の大切さ」を「非インタラクティブ」に伝える!? / 「対話と学習のあり方」を「非対話的」に伝える!?

「学習の方法」を他者に「伝える」というのは、まことに「再帰的」な営みであります。

「インタラクティブな学習がこれからは大切ですよ、かくかく、しかじかなやり方でも、できるんですよ」と「ノンインタラクティブなやり方」で「伝えられること」に、僕がもし学習者であったとしたら、矛盾を感じてしまいます。

「対話をとりいれた学習が、これからの社会では求められるんです。かくしかじかなやり方で、できるんですよ」と「非対話的」な姿勢で「伝えられ」ても、僕は、ピンときません。

「コミュニティの中で、インタラクションしながら、学ぶことが、大切なんですよ。かくかくしかじかなあり方があるんですよ」ということを「超特権的・絶対安全圏」からハイアラーキカルに一方向的に語られても、僕には、どうもピンときません。

 「伝える」ということが「情報を発信した」ということではなく、学習者本位の価値観に立脚し、「相手を変えること」「相手をゆさぶること」であろうとするならば、上記のような状況は「伝えたこと」にはなりません。
 すなわち「インタラクティブな学習」や「対話的な学習」や「コミュニティの中での学習」を「伝えよう」とするのであれば、「インタラクティブな学習の中」や「対話的な学習の中」や「コミュニティの中での学習」をつくりだし、その中で学んでもらう必要があるように、僕は思います。

 ということは、「インタラクティブな学習」や「対話的な学習」を他者に勧めたり、伝えたいと願う人は、自らも「インタラクティブな学習」「対話的な学習」の「実践」から逃れることはできません。
むしろ、自らが、身を投企してつくりだす「学習機会」を「通して」、その価値ややり方を「伝える」必要があるように思います。この意味で、こうした人々は「再帰的自己」として生きることを覚悟せざるをえないように僕には感じます。

 このあたりは、研究者によって、いろいろ考え方はあるんだと思います。

 しかし、「学習の革新性」「革新的な学習」を「語る」ということは、「再帰的自己」を受け入れることなのだ、ということを「意識せず」に、敢えて「気づかないふり」をして、わたしたちは、これまで、これらを「饒舌」に語っていなかっただろうか。激しい自戒をこめて、僕はそう感じています。

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learningbar_dialogue.png

 昨日から募集が開始された、7月6日(土曜日)に予定されている、下記の研究会においても同じことが実現できそうです。

※2013/05/28 13:10 参加お申し込みが、本イベントの定員を超えたため、やむなく申し込みを締め切りました。お申し込みいただきましたみなさま、ありがとうございました。数日以内に、参加の可否につきまして、結果をメールにてご連絡差し上げます。

対話をうみだす"実践知"を、トップランナーから学ぶ」 : 子どもの対話 vs 大人の対話  小学校教諭・菊池省三先生  プロファシリテータ・加藤雅則さん をお招きして
http://www.nakahara-lab.net/blog/2013/05/_vs.html

 この研究会では、小学校教諭・菊池省三先生  プロファシリテータ・加藤雅則さんをお招きして、「対話と学習」に関して探究を深めたいと考えています。その際、お二人に御願いしているのは、ご担当いただける「セッション」のあり方自身も「対話的であること」です。
 おそらく、それぞれの専門性、それぞれがお考えになる「対話的学習」の素晴らしいセッションをみせていただけるのではないか、と思います。

 昨日から募集がはじまっており、すでに募集人数は200名を超えました。重複のある応募などがございますので、そちらの情報整理する必要がございますが、おそらく本日中には、予定よりはやく募集を停止せざるをえなくなると思われます。

 どうかお早めに!
 そして人生は続く

投稿者 jun : 2013年5月28日 08:00


研究会参加者募集中!「対話をうみだす"実践知"を、トップランナーから学ぶ」 : 子どもの対話 vs 大人の対話  小学校教諭・菊池省三先生  プロファシリテータ・加藤雅則さん をお招きして

2013/05/28 13:10 参加お申し込みが、本イベントの定員を超えたため、やむなく申し込みを締め切りました。お申し込みいただきましたみなさま、ありがとうございました。今週中には、参加の可否につきまして、結果をメールにてご連絡差し上げます。

2013/05/27 16:45 ブログ、Twitter、Facebookでの募集を開始しました。参加募集人数の上限に達した段階で、応募を停止させていただきますので、お早めにお申し込み下さい。このままの状況が続けば、抽選が生じる可能性をなるべく低くするため、本日深夜12時には応募を停止させて頂きます。抽選がやむなく生じた場合は、どうかお許し下さい。

2013/05/27 16:30 下記のイベントは、本日5月27日午前7時頃から、NAKAHARA-LABメルマガ(中原研究室メルマガ)読者の方を先行して、募集を開始しました。すでに100名を超える方々に応募いただいております。
今後とも、中原のイベントにつきましては、メルマガ読者の方を対象にして、先行して募集を行いますので、まだ未登録の方は、どうぞご登録をお願いいたします。

2013/05/27 07:00 NAKAHARA-LABメルマガにて応募開始

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「対話をうみだす"実践知"を、トップランナーから学ぶ」
 子どもの対話 vs 大人の対話
 つながりをつくる / 違いを愉しむ / 新しさと変化を生み出す
 
 小学校教諭・菊池省三先生
 プロファシリテータ・加藤雅則さん をお招きして

 対話に関する公開研究会
 2013年7月6日(土曜日) PM12:30 - PM5:30
 東京大学本郷キャンパス・福武ホール 地下2F 福武シアター
 申し込みサイト:定員に達しましたので、参加登録を終了しました
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来る7月6日に
「対話をうみだす"実践知"を、トップランナーから学ぶ」
というタイトルで、シンポジウムを東京大学にて開催します。

このシンポジウムには、自らの学級の子どもを対象に、対話をはじ
めとしたコミュニケーションの機会をつくりあげる実践を積み重ね
ておられる小学校教諭・菊池省三先生と、プロのファシリテータと
して、企業内部で大人を対象に、対話の機会を創造しながら、様々な
組織変革を実現してこられた加藤雅則さんをお招きします。

菊池先生は、既にいくつかの書籍等を出版なさっております。
また、その実践は、過日、NHK「プロフェッショナル」でも取り上げられ
たので、ご存じの方も多いことと思います。

NHKプロフェッショナル「菊池省三先生:未来をつかむ勝負の教室」
http://ow.ly/lc77P

菊池先生の「話し合い」指導術: 小学生版 白熱教室のつくり方
http://ow.ly/lc75L

菊池先生の話し合い活動を必ず成功させるファシリテーションのワザ
http://ow.ly/lc8z8

菊池省三先生 on Facebook
http://www.facebook.com/syozo.kikuchi

加藤さんも、その実践は大変注目されており、自らいくつかの著書
などを出版なさっております。

加藤さんプロフィール
http://actiondesign.jp/profile/

加藤さん単著:自分を立て直す対話
http://ow.ly/lc7kh

加藤さん共著:野口裕二編「ナラティヴ・アプローチ」
http://ow.ly/lc7uW

加藤雅則さん on Facebook
http://www.facebook.com/masanori.kato.961?fref=ts

このたびのシンポジウムでは、菊池先生、加藤さんのお二人に
「対話が生まれる場をつくるときに、留意・配慮するべきことを考
える機会 / そしてどのような変化や出来事が学習者に生まれるのか
をシェアしていただく機会」を創造していただけることになっています。

もちろん、お二人によって展開されるのは「一方向的な講演」では
ありません。
聴衆の皆さんが相互にコミュニケーションしながら、「対話が生まれ
る場をつくることの実践知」を全体で探究する機会を持ちたいと考え
ております。

このたびのシンポジウムの参加者は、非常に多様になることが想像
できます。教育・学習関係の方から、企業関係者、医療など多種多
様な社会的背景をお持ちの方にご参加頂ければ幸いに思います。

参加申し込みは下記のフォームの下部にございます。
どうぞふるってご参加頂けますと幸いです。

中原 淳(東京大学・准教授)
舘野泰一(東京大学・特任研究員)

ーーー

■主催
東京大学大学院 学際情報学府 中原淳研究室
http://www.nakahara-lab.net/

■日時
2013年7月6日(土)12時30分から17時30分を予定
開場は12時00分を予定しています。

■会場
東京大学本郷キャンパス 福武ホール(赤門横)
地下2F ラーニングシアター
http://fukutake.iii.u‐tokyo.ac.jp/access/

■参加費・定員
お一人様3500円を申し受けます(コーヒー・スイーツつき:コンセプチュアルカフェ)。
なお、参加は企画の性質上、150名程度までとさせていただきます。
応募者多数の場合は抽選とさせていただきますが、本企画の趣旨に基づき、
人材育成関係者、教育・学習関係者を優先して、抽選させていただきます。
また、応募申し込み期間内であっても、人数多数の場合、予告なく応募を
停止させて頂きます。くれぐれもお早めにお申し込み下さい。

■内容(時間は目安です)

12時00分 開場・受付開始
12時30分ー13時00分 イントロダクション
 中原 淳(東京大学)
13時00分ー14時30分 インタラクティブセッション1
 「子ども×対話」セッション
 菊池省三先生
14時30分ー15時00分 カフェブレーク
 フードスタイリストの方による、コンセプチュアルカフェ
15時00分ー16時30分 インタラクティブセッション2
 「大人×対話」セッション
 加藤雅則さん
16時00分ー16時45分 リフレクティブセッション
 舘野泰一さん(東京大学)
16時45分ー17時00分くらい ラップアップ・セッション
 中原 淳(東京大学)
17時30分まで クロージング

■参加条件

下記の諸条件をよくお読みの上、参加申し込みください。 申し込みと同時に、
諸条件についてはご承諾いただいているとみなさせていただきます。

1.本シンポジウムは、「一方向的な講義を聞く会」ではありません。
参加者の方々皆様が、主体的かつ能動的に、議論・討論などに参加し、
グループなどでの話し合いを行っていく必要があります。そのすべてに
ご参加いただける方がお申し込み下さい。

2. 本ワークショップの様子は、予告・許諾なく、写真・ビデオ撮影・
ストリーミング配信する可能性があります。写真・動画は、東京大学
、中原淳が関与するWebサイト等の広報手段、講演資料、書籍等に許諾
なく用いられる場合があります。マスメディアによる取材に対しても、
許諾なく提供することがあります。
参加に際しては、上記をご了承いただける方に限ります。

3.欠席の際には、お手数でもその旨、 tatthi [ at mark ]
gmail.comをご連絡下さい。人数多数の場合には、繰り上げで他の方に
席をお譲りいたします。

4.人数多数の場合は、抽選とさせていただきます。6月5日までにお申し
込みをいただき、6月10日には抽選結果を送信させていただきますので、あしか
らずご了承下さい。また、応募申し込み期間内であっても、人数多数の場合、
予告なく応募を停止させて頂きます。くれぐれもお早めにお申し込み下さい。

以上、すべての項目にご了承いただいた方は、下記のフォームよりお申
し込みください。

「対話をうみだす"実践知"を、トップランナーから学ぶ」
 申し込みサイト:定員に達しましたので、参加登録を終了しました

皆様とお会いできますこと愉しみにしております!

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投稿者 jun : 2013年5月27日 16:44


研究者と実務家、ソーシャルメディア、その不易流行

 ソーシャルメディアは「研究者と実務家の関係」をどのように変えたのか? 何が変わり、何が変わらないのか?

「研究者 - 実践者の関係」といっても、あくまで、僕の専門領域に関することなので、それ以上に、他の分野まで、過剰に一般化しようとは全く思いません。それに、こうした問いは「変わったこと
」に焦点があたりがちで、「変わらないこと」に対する目配りはどうしても、失われがちです。
 そうした「2つの懸念」を抱えていることを承知しつつ、あえて、「上記の問い」に戻るのだとすれば、やはり決定的な変化は

「研究者と実践者が、簡単に、かつ、双方の自由意思によってダイレクトにつながるようになったこと / そのつながりが、維持される可能性が高まったこと」

 ではないか、と思います。

 両者のうちどちらかが「情報発信」を行っていたり、また相互にメディアを利用してさえいれば、学会や既存のコネクション「以外」に、興味関心をともにする人々が、ダイレクトに「つながる」可能性が格段に増えた、ないしは、実際にF2Fで逢ったあとに、そのコネクションが維持される可能性が格段に増えた、ということです。

 ちょっとかなり前のことになりますが、実は、このことを、僕とは一回り上の先輩研究者と話しました。その方がおっしゃっていたことが非常に印象的でした。

「昔は、なかなか、研究者個人が情報発信をすることは難しかった。メディアがなかった。だから、既存の団体の有するメディアや場をつうじて、間接的に実務家とのリンクをつくるしかなかった。自らメディアを持とうとすると、相当の負荷を覚悟しなくてはならなかった」

「(自分のメディアをもとうとして)研究が進んだり、イベントをするということになると、実務家の方々に、大量に郵便をおくったものだ。実践家の方々と関係づくりのために、お手製のニュースレターを、ガリ版でつくって、印刷して、切手をはって、郵送していた。月末の郵便局には、大量の郵便物を抱えた自分がいた」

 その方がこうした地道な活動をなさっていたのは、わずか20年前くらいのことです。それから20年、「切手」と「ガリ版」と「郵便局」は、「ブログ」「ソーシャルメディア」「スマホ」にかわりました。

 ▼

「変わるもの」の一方で、もちろん「変わらないもの」もあります。「変わらないもの」の最たるものは、実践的研究を志す研究者の側からすれば「信頼蓄積の大切さ」とか「現場感覚の大切さ」とか、でしょうか。

 いくら、「ブログ」やら「ソーシャルメディア」やら「スマホ」が発達していても、「信頼を蓄積する地道さ」をもち、コツコツと情報を発信しなければ、実務の方々には関心をもってもらえない。「関係づくり」とは一朝一夕で可能になるものではありません。

 「関係づくり」とは「習慣」なのです。

「現場感覚」も大切なところです。いくら、「ブログ」やら「ソーシャルメディア」やら「スマホ」が発達していても、取り上げる話題が、現場から遊離していてはいけない。なので、やはり、現場には足繁く通うこと、現場の声を聞くことが求められる。

 「現場感覚」もやはり、「習慣」なのです。

 こういう「変わらないもの」の大切さは、メディアが発達して、「誰もが、手軽に情報発信をできる機会」を手に入れた今だからこそ、なおさら、大切なものになっているのかもしれません。

 メディアは「万人に、一応、情報発信の機会を保証」します。しかし、「一発屋」ならともかく、「サスティナブルに情報発信」できる個人は、非常に限定的です。
 与えられたチャンスを活かすかどうかは、活かせるかどうかは、結局、情報を発信する人にかかっていることのように思います。

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2013年5月27日 08:04


ヒアリングで「リアルなストーリー」を得るために

 先日、ある企業の方々の協力を得て、ラインで奮闘するマネジャーの方々を訪問させていただき、それぞれ1時間程度、お話をうかがう機会を得ました。貴重な時間、および、アレンジメントをありがとうございました。心より感謝いたします。

 この日に伺った話は、非常に「具体的」かつ「生々しく」、かつ、示唆にとむもので、その結果は、この後、「この企業とのプロジェクト」に反映していきたいと思っているのですが、その最中、ひとつ気がついたことがありました。

 それは「ビジネスパーソンとのヒアリングの際、話を具体的にするコツ」です。

  ▼

 この日の話は、なぜ、「具体的」になったかを、あらためて考えますと、それは、この企業の方々が、機転をきかせて、ヒアリング対象者であるマネジャーの方々の職場の「組織図」をお持ち頂いたからなのです。組織図には、職場のメンバーのひとりひとりの氏名や年次等が記載されてありました。

 その結果、この日のヒアリングは、マネジャーの方々に対して、僕が、この「組織図」を指さして、お話しすることができました。

 そうしますと、あたりまえなのですが、話は、いっきに「一般論」ではなくなるわけです。

 たとえば、一般的なヒアリングでは

「部下の方々には、どのように仕事をふっていますか?」

 という問いが、あるとしますね。
 これが「組織図こみの会話」ということになりますと、

「(あなたの職場の)入社3年以内の従業員の方ということになりますと、Aさんがいますね。Aさんは、どういう方ですか? Aさんの育成で、気になるエピソードはありますか?」

 という風に、会話がいっきに「固有名詞による会話・ストーリー」になります。
 こうなれば、しめたもので、続く会話は

「いや、Aさんは・・・なところがあるので、この仕事は、まだ無理で。そういう意味では、Bさんにフォローしてもらって、それでも無理なら、僕が入ろうかな、と思っているんですよね。そういえば、こないだ・・・な出来事があったね・・・あのときは」

 という風に、具体的かつ社会的状況に根ざした情報やストーリーを伺うことができます。

「Aさんね、、、そうなんだよな。この子は・・・なところがあるから、リーダーにすえると、いいかなと思ってたんだよね・・・でも、ちょっと以前に失敗をしちゃってね・・・」

 こんな風に、その日は、マネジャーがいつも考えている思考、あるいは、実践知により近いようなお話、職場で起こった出来事のストーリーを伺うことができました。

 ▼

「組織図」をポインティングしながらのヒアリングで得た情報は、学術的にどのように位置づけられるのかは議論が分かれるところでしょうが、しばらく、このやり方を試行してみたいな、と感じています。

「現場で起こった固有名詞によるストーリー」を定性的にすくい、時に定量的な調査を行う。そうした2つの情報から、多角的かつ重層的に、経営学習論を描きたいと考えています。

 そして人生は続く 

投稿者 jun : 2013年5月25日 11:11


科学ショーを見た「後」に:仮説をもつこと、なぜを問うこと

 ちょっと前のことになりますが、都内で開催された、おそらく数千人規模の「科学ショー」に家族で出かけました。

 このショーに出かけた理由のひとつは、ひとつには「TAKUZOに科学を好きになってもらいたい」というのもあるのですが、実際には、親である僕たちの「思い」もありました。僕もカミさんは、学習系の仕事をしておりますので、

 
「大規模な人数相手に、科学の実験を、どこまでエンターテインメントにして、魅せることができるのだろうか?」

 というところも興味があるのです。
 
 出かけたのは、そういう「演出的」な側面を見てみたかった、というのもあります。
 なるほど、数千人を相手に、お客さんを巻き込みつつ、科学実験を「魅せていく」やり方は、とても勉強になりました。さすがだなぁ。感服しました。

  ▼

 科学ショーには、家族全員満足しました。TAKUZOは、それから、折に触れて、この話をすることもあり、それは喜ばしいことでした。

 一方で、僕自身は、「痛感」したこともありました。
 それは、こうした科学ショーで「科学を好きになる最初のきっかけ」を子どもが得た「後」の重要性です。

 このあたり、科学教育は全くの門外漢ですので、専門的な議論は何一つ知りませんが、僕が思ったことをひと言でいうと、

「実験をする前に、自ら考え、問いや仮説をもつこと、なぜを問うことの大切さ」

 を、子どもには同時に伝えなければならないな、と思いました。

 言うまでもなく、「科学」という営みにおいて、大切なことのひとつには「問いをもつこと・仮説をもつこと」があります。「実験」と「それによって起こる現象」はその「問いや仮説」を検証するための営みです。
 ショーの中では、お客さんとのあいだに「答えを予想する」などの活動は含まれていましたが、数千人を相手にしますので、やはり、深くは踏み込めません(後述しますが、それでいいのだと思います)。
 ですので、そこのところは、僕が、子どもを巻き込んで、自宅で、実験などをしながら、伝えて行かなくてはならないのだな、と感じました。

「科学という活動は、誰かがやってくれる"面白い現象"を見ること」

 であると、子どもが「思い込まない」ためにも、科学ショーを「みた後」が、実は大切なのかもな、と感じていました。「自ら仮説をもって、自ら実験すること、なぜを問うこと」に近づけていくということです。

「誤解」を避けるためにいいますが、僕は、「科学ショー」にネガティブな印象は1ミリももっていません。むしろ、科学を好きになる最初のきっかけとして、日本全国にもっと、もっとこうした場や機会が増えていけばいいと思っています。この国は、科学技術立国です。それにしては、子どもがハンズオンで、科学にふれあう環境は、まだまだ十分とは言えないのではないかなと思います。
 また、「科学ショー」を実践なさっている方々も、そのことはよくわかってやってらっしゃるのだと思います。その実践の、素晴らしいことだと思います。

 要するに言いたいことは、「役割分担」なのかもしれません。科学ショーを見せた「後」で、子どもに「問いかける」のは、「親である僕の役割」なんだろうな、と思ったということです。あたりまえのことですね、、、全くすみません。

 週末、なぜか、「わたしの子育て日記」になりました。
 すみません(笑)全く一般的な議論ではないので、ご放念ください。

 そして人生は続く。

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追伸.
 昨日は、、Academic Hack(研究会)を開催しました。当日場所変更などがあり、ご不便をおかけいたしましたが、皆様の御協力とインプロヴィゼーションでおかげで、何とか終えることができましたこと、心よりお詫びと御礼申し上げます。そして、ありがとうございました。
 ご登壇いただいた、山口さん、安達さん、松葉さん、心より感謝いたします。また、舘野さん、学生スタッフの方々もありがとうございました。
 そして、昨日、研究会に参加し、熱心に対話を頂いた皆様、本当にありがとうございました! 皆様に感謝をこめて、素晴らしい週末を!

投稿者 jun : 2013年5月24日 09:09


Android / Amazon Kindleでも読めるようになりました:「働く」をテーマにした東大学部生によるインタビュー集、電子書籍「東大発2013」ePub/mobi版を公開

 先日、iPhone版 / iPad版(iTunesU)を公開させて頂いた「東大発2013」、Android / Amazon Kindleでも読めるようになりました。「東大発2013」は、「働く」をテーマにした東大学部生によるインタビュー集(電子書籍)です。
 この電子書籍は、2012年度に本学教養学部開講された授業「メディア創造ワークショップ」の成果物です。北海道大学准教授にご栄転なさった重田勝介先生と小生で開講し、ダイヤモンド社記者の間杉さん、映像作家の大房さんにも御協力いただきながら、まとめました。
 ePub/mobi形式に対応したAndroid端末やAmazon Kindle Whitepaper等の電子端末で閲覧することができます。

 詳しくは、下記のご案内をご覧下さい。

「働く」をテーマにした東大学部生によるインタビュー集、電子書籍「東大発2013」ePub/mobi版を公開
http://www.he.u-tokyo.ac.jp/2013/05/22/1789/

 もしiPhone / iPad等で見たい方は、同じものを、iTunesUでダウンロードすることができます。下記をごらんください。

キャリア教育とは言わないキャリア教育、越境学習とは言わない越境学習:電子書籍「東大発2013」無償公開はじまりました!(iTunesU)
http://www.nakahara-lab.net/blog/2013/05/2013.html

 どうぞご笑覧下さい!
 そして人生は続く

投稿者 jun : 2013年5月23日 15:46


他者に対して「変化」を求める外部介入のディレンマ:そのプログラムが"あの人"に届かない理由

「他者に対して"変化"を求める外部からの介入」は、「今すぐ変化することが必要だと誰もが同意する、問題を抱えた個人」には、なかなか届かない。

 これは、人材育成、人材開発の抱える、最大の課題のひとつであるような課題であるような気がします。ひと言でいえば「アポリア(難問)」。それが解ければ、ノーベル賞級(!?)かもしれません。

 具体的には、たとえば

 素晴らしい「学習プログラム」をつくりました。そういうプログラムを、ぜひ、「問題を抱えた、あの人」に自発的に受けて欲しい。
 しかし、実際、ふたをあけてみると、プログラムを受けてきたのは、優秀でアンテナの高く、もともとそういう「学習プログラム」が必要のない人。
 優秀な人は、そのプログラムに参加し、さらに力をつけ、自信をもつようになりました。しかし「本来受けさせたい人」は、自ら、そこに参加することはありませんでした。結局、「集団内の能力格差」が拡大することになりました、あべし(泣)。

 とかね。
 こんな事例だったら、皆さんのまわりにも、ゴロゴロしていませんか?

 こうした場合には、「いくつかの対処策」があります。しかし、「いくつかの」と「複数感たっぷり」に書きましたが、「いくつかしか、方法はありません」とも言える(泣)。僕が思いつく「いくつかの」とは、下記の通りでしょうか。これ以外にあったら、ぜひ、TwitterやFacebookでも、ご教示ください。

1.必須・ルール・制度にする
 要するに「強制的に変化を迫る機会」をつくるということです。ひと言でいえば「マスト事項化」、問答無用。
 しかし、悲しいかな、「強制的発動と学習効果のあいだ」には、一般的には「反比例の法則」があります。たしかに「強制」はできるけれど、それが「変化」につながるかは保証されません。

2.生存不安(Survival Anxiety)を上げる
「強制的変化」とはいかずとも、「このままでは生存が危ないぞ」とおもわせることです。ひと言でいえば「危機感を漂わせ、それをドライブにして参加をうながすこと」ですね。2と3は組織行動論の泰斗Schein, E.の用語ですが、「生存」という言葉が、いつ聞いても、生々しいですね。

3.学習不安(Learning Anxiety)を下げる 
「変化を拒んでいるのは、変化すること自体に不安を感じ、億劫である」と思っていると考えることから、学習不安を下げる対処策ははじまっています。要するに「学習≒変化の不安そのものを下げる」ということです。「大丈夫だよ、変われるよ」と、いうメッセージを出すことです。時によっては、「参加すれば、楽しそうだ」というメッセージもありうるのかもしれません。

4.集団圧力を利用する
 人はピアプレッシャーに弱いものです。「変化を拒んでいるのは、自分だけが変わるのが嫌だ」と感じているからだとして、臨界点に達するような集団規模を動かし、そのピアプレッシャーを利用して、プログラムに参加してもらうというものです。たとえば、ビジネスの世界には、2・6・2の法則というものがありますが、イメージ的には、上位2と6を動かして、下位2を動かすイメージです。
 1に近いような気もしますが、「強制」ではありません。2にも近いような気がしますが(?)、明確に「生存が危ぶまれるわけ」ではありません。「赤信号、みんなで渡れば怖くない的な処方箋」なので、3にも近いような気がしますが(?)、ここでは敢えてわけました。
 
5.自分が諦める / 退出してもらう
 最後は「問題の解決を諦める」というものです。これには二つの主体がありえます。「自分が問題の解決を諦めるか」ないしは「他者に今の状況で居続けることを諦めてもらうか」それしかありません。

 このように「今すぐ変化することが必要だと誰もが同意するような事態」に陥った場合、なかなか明確な処方箋はないのが実状です。

 結局、この状況は、解決不能と思われるような、究極のディレンマ状況にあるのです。
「人が変化する」ためには、「自らイニシアチブやオーナーシップをもって、コトにあたってもらわなければならない」のですが、そうした機会が「自らによってではなく、他者や組織から提供されている」構図自体が「ねじれ」ているのです。上記の処方箋?は、その「ねじれ」を覆い隠す短期的対処といえるのかもしれません。

 結局、「ある程度成熟した人」を、「第三者」は「変えること」はできません。できることは「変わろうとする人」に「変わる機会」や「変わる環境」を提供することくらいです。

 究極的には、「今すぐ変化することが必要だと誰もが同意するような事態」になるまで、物事を放置するのではなく、もっともっと前から、そうした事態が生じないようにしておく。
 しっかりとしたマネジメントコントール、クオリティコントロールをして、「今すぐ変化することが必要だと誰もが同意するような事態をつくらない」というのが、もっとも「早道」であり、「確実な道」なのかもしれません。
「今すぐ変化することが必要だと誰もが同意するような事態」を、後から「外部からの介入」によって「変えること」が、そもそも「限りなく不可能に近い可能?」、ないしは「超コスト高」ともいえるのかもしれません。

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2013年5月22日 06:31


二つの世界を往還して生きる:「学術的実践家」と「実践的研究者」

 先日、大学院ゼミの英語文献に出てきた言葉に、Scholarly Practitioner(学術的実践家)がありました。
 誤解を恐れず言うならば、学術的実践家とは「現実の課題解決を行う際に、理論・データを背景としつつ、実践を組織化できる人のこと」と理解しました。

「実践家」とは一般には「個々の状況において、実際に、物事を行うこと」です。一方、「学術」とは、「個々の状況を離れ一般化・普遍化した学問の世界」のことをさしますので、この言葉は、いわば「オキシモロン(形容矛盾)」に近い言葉であることがわかります。オキシモロンとは「一見、矛盾していると思われる二つの概念が組み合わされ、新しい価値が提示されている言葉」のことをいいます。

 おそらく「学術的実践家」という言葉で含意したいことは「理論・データ」という「学術」の世界と、「現実・課題」という「実践」の世界を、「矛盾」を抱え、時に煩悶しながら、それでも「前向き」に往還し、アクションし続ける人のことだと思います。そうした矛盾の中に、実践の世界にだけ居続けることでは得られない、付加価値があるのかもしれない。

 文献の結論を急ぎますと、そういう人が、これからの社会では求められている。ゆえに、その育成はいかにあるべきか、ということでした。

 もちろん、その問い自体も、非常に興味深いのですが、僕は、一方で、「学術的実践家」の全く逆の「実践的研究者」も求められているのかもしれないな、と考えていました。

 実践的研究者のイメージは、研究者毎、それぞれあっていいとは思いますが、僕のイメージは、「現場の実務家と協働しつつ現実の課題解決を行い、それを学術の世界にも反映できる人」ということになります。
 僕の研究分野では、1990年代くらいから急速に、この種の研究者像が様々な言説の中で語られるようになりました。おそらく、この主の研究者像も、やはり社会で求められているのかもしれません。

  ▼

 学術的実践家、そして、実践的研究者

 二つの形容矛盾的な概念を並べてみるとき、わたしたちは、「概念を創り出すのは簡単ではあるけれども、そのように「ある(be)」のは、なかなか難しい、という、ごくごくあたりまえの認識に自然に到達します。

 少し想像力を豊かにすればおわかりいただけると思いますが、学術的実践家に関しても、実践的研究者に関しても、「学術」と「現実」、「理論」と「実践」という2つの世界を往還しつづけます。

「2つの世界を往還すること」は、「愉しさ」でもあるし、彼 / 彼女にとっては「原動力」にもなる。しかし、それは一方で、それぞれの「際」を歩くこと。それぞれの世界に渡り歩くことで生じる、矛盾や葛藤を抱えることでもあります。
「ひとつの世界の住人」でありさえすれば、つまりは「2つの世界を渡り歩くこと」などしなければ、「知らずに済んでいたこと」「隠し通していけたこと」を、多々知ること、あらためて認識することでもあります。
 そうした矛盾や葛藤を「前向き」に捉えることのできる「覚悟」「腹くくり」が、こうしたオキシモロン的な生き方には、必要なのかもしれません。
 だから、こうした生き方は、もし僕が他人にすすめることを求められたのだとしても、僕は、それをしないと思います。それは個人が、「自己の決断」として「選択」することであるような気がします。たとえ、「社会で求められている」という言明が、どんなに切迫した真実だとしても。

 今日のブログは、つぶやきみたいなものになりました。

 あなたは、ひとつの世界を生きていますか?
  それとも
 二つの世界の住人ですか?

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2013年5月21日 08:37


自分の研究は「誰」に返るのか?:藤田結子・北村文(編)「現代エスノグラフィー 新しいフィールドワークの理論と実践」を読んだ!

 歴史学者ジェイムス・クリフォードと、人類学者ジョージ・マーカスの著した「文化を書く」に関しては、17年くらい前に手に取り読んだ覚えがあります。
 とはいえ、当時の僕は、まだ学部生。ポストモダンの難解な用語と修辞、そして膨大な知識に圧倒され、「読んだ」、といっても、「眺めた」に近いかもしれませんが、それが「エスノグラフィー調査者 / 調査の特権性」を問題にしていることは、朧気ながら、感じたつもりです。


 曰く

1)エスノグラファーは、フィールドにおいて「ぬり壁?」のように、客観的に存在することはできない。

2)調査者は、文化的・政治的中立な状態で、フィールドに赴くことは、できず、それを見ることもできない。調査者にとって得られた情報は、彼/彼女が意図的に選択した情報であり、「部分的真実(Partial truths)」であることをまぬがれない。

3)その上で、調査者と被調査者のあいだには「非対称な権力関係」が存在し、被調査者から得られた情報によって、調査者は、アカデミアの内部に安定的なポジションを得る。その知見は、被調査者には多くの場合、かえらない。

 もっとも印象的だったのは、この本を通して、「研究の宛先性」という問題(本書に隣接する問いかもしれませんね)を知ったことです。これは上記の3)の問題にリンクしますが、難しいことをはぶいて、一語で述べれば、

 自分の研究は「誰」に返るのか?

 ということです。さらに一歩問いをすすめるならば「自分の研究は誰に返り、何を変えるのか?」と飛躍してもいいかもしれません。
 被調査者から貴重な時間をいただき、データは収集したのに、その知見は、レトリックを駆使されたテクストとして編まれ、被調査者には必ずしも返らない。この本に関連する、当時出版された、ポストモダン系のエスノグラフィーの類書は、いわば「研究の宛先性」と言う問題の存在を、はじめて僕に教えてくれました。

  ▼

 それから20年弱立ちまして・・・

 藤田結子・北村文(編)「現代エスノグラフィー 新しいフィールドワークの理論と実践」(新曜社)を読みました。

本書は、編者を含め若手研究者の方々が、クリフォード・マーカスの「文化を書く」以降に勃興してきた、それを超えるようなエスノグラフィーの知的挑戦を紹介した本です。僕自身は、エスノグラフィーの理論と実践に関して、10数年、遠ざかっておりますので、久ぶりにキャッチアップすることができて、とても勉強になりました。

 研究者が実践現場の変革にかかわり、その様子を記述する
 調査者と被調査者の非対称な関係を超える
 当事者として調査者が自らをエスノグラフィーする
 エスノグラフィーをチームとして実践する

 本書では、クリフォード・マーカス以降の様々なエスノグラフィー、たとえば「当事者研究」「アクションリサーチ」「チームエスノグラフィー」「オートエスノグラフィー」などについて説明しています。それぞれのエスノグラフィーが、どのような理論的含意をもち、どのような手法であるのかは、本書を手に取ってみていただければと思います。

 エスノグラフィーについてある程度の知識をもった方で、さらに、その先を探究したい方、実践の変革に関して、積極的に関与していきたい方などにおすすめの本かもしれません。一般的なエスノグラフィーやフィールドワークが何たるかを、ある程度、想像できてからお読みになる方がよいかもしれません。

 週末は、よい本に出会いました。
 今週も、気合いで乗り切りたいものです、、、気合いかよ(笑)。
 いえ、「知的気合い」でね。

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2013年5月20日 07:52


「ノウハウの知」について:最も簡単なリアルタイムドキュメンテーションムービーの作り方

「けっ、ノウハウなんか!」
「ノウハウを紹介するなんざ、なんと、低級、低俗な!」

 ノウハウは、時に、「小バカ」にされます。

 しかし、多くの人々が、同じ場面で、つまづいたり、悩むところで、誰か先人のつくりだし、形式知としておこした「役に立つTips」があるならば、これから同じことを為す人は、先んじて、知っていた方が有用なこともあるでしょう。
 願わくば、これから追いかける人は、先人の肩の上にのり、さらに「その先」をめざすことが可能だから。

 また、

「けっ、ノウハウなんか!」
「ノウハウを紹介するなんざ、なんと、低級、低俗な!」

 という、その「はるか、それ以前」で「尻込み」をしている方々の背中を押すのは、「具体的なノウハウが存在する」という事実であったりします。

 もちろん、「ノウハウ」にできることは「一番、最初に、背中を押すこと」です。それは、全く万能ではないし、シルバービュレットではない。現場における問題解決は、「自分の頭で考えること」が必然になります。しかし、その「はるか、それ以前」の立ち位置にいる人々にとって必要なのは「最初のとっかかり」です。それを可能にするのが「ノウハウ」なのかもしれません。

  ▼

 これに関連して、一年くらい前になりますが、知財がご専門の弁護士・福井健策先生とお会いし、ディスカッションしたときのことを思い出します。

「なぜ、ノウハウやアイデアが、知財として著作権法で守られないのか」

 を僕が質問したときに、福井先生がおっしゃった「ひと言」が忘れられません。

「それは文化や社会を発展させ、豊かにするためです。みんなが、使える有用な方法ならば、たとえ考案した人の知財や利益を守れなかったとしても、社会にとってはプラスになる。社会的功利を実現するノウハウは、個人の知財として守られるよりも、自由にシェアされ、流通されることを、法律は選んだのです」


著作権、文化、そしてマネタイズ : 【fʌ'n】第二回目「ラーニングデザインと著作権」が終わった!

http://www.nakahara-lab.net/blog/2012/02/post_1829.html

 教育手法や学習手法とは、知財法では守られません。
 それは、いわば「オープンソース」のようなものとして、社会や文化を豊かにするため、社会的功利を実現するためのリソースなのです。

教育技術はオープンソースである!
http://www.nakahara-lab.net/blog/2009/04/post_1476.html

  ▼

 もちろん、ノウハウは「絶対」ではありません。
 くどいようですが、「形式知として文字にあわらされる表現」は、それがいかなる巧妙な筆致で書かれていたのだとしても、「現場で人々が為すやり方」を「再現」することは、ほぼ不可能です。

 しかし、それでも、「全くないよりまし」である局面もあるでしょう。
 全く何も指針がないよりも、「現実の10%程度しか表現できぬ表現」であったとしても、「ないよりはまし」なのかもしれません。適用される状況やコンテキストが変われば、ノウハウを自分なりに解釈して、自分の頭で考えることも、その先に期待できるかもしれません。

 いずれにしても、ノウハウを前に「思考停止」するのではなく、その「先」、その「状況」を考えることをやめなければ、ノウハウの知は、十分に有用なのではないか、と思います。ノウハウを目の前にしたとき、人々に必要なのは、「思考停止」ではなく、「その先へ!」の姿勢であり、それを自らのコンテキストにおいて「再解釈すること」をめざす、能動的な態度なのです。

  ▼

 一方、かつて、僕が学生時代の頃、「ノウハウや、ハウツーは、最低だ」と教えられました。教育や学習の場面において「ノウハウやハウツーを語ることは最低最悪だ」と。

 「あれはハウツーだ」
 「ハウツーなんて、くだらない」
 「必要なのはハウツーではなく、理論であり、パースペクティブである」

 その頃も「違和感」はありましたけれども、今となっては「本当にそうなのかな?」と思います。それは非常に事態を単純に捉えすぎているような気がします。

 もちろん、人々の思考停止を誘う「ノウハウ」や「ハウツー」に対する疑義は理解できます。
 しかし、そういう上記のような「言明」の奥深いところに、実は、「現場に対する蔑視」や、「現場の実践知を持たぬ(研究者としての)自己防衛・保身の機運」はなかったのか? 僕には、はなはだ「疑問」です。

 実務と理論の交差するような「現場」をもつ学問の場合、理論知と実践知、ないしは、理論知に長けていると一般には考えられる研究者と、実践知に長けている実践者の間には、つねに「緊張関係」が認められます。その言説空間は、いわば両者の政治的闘争、ないしは、サバイバルアリーナとしても認めることができるのです。
「片側の知」に長けているものは、当然のことながら、「自分が保有する知の、その他の知に対する優越」を主張する可能性があると考えることは、自然なことです。なぜならば、自らが「生きるために」。ですので、その言明は、いわば「政治的発言」ないしは「ポジショニングトーク」として、まずは認められなければなりません。そういう場合には、その発言の趣旨を「割り引いて(ディスカウント)」考える必要があるのです。

 というわけで、この違和感を背景に、最近、「敢えて」アカデミックなコンテキストにいる僕が、アイロニカルに「ノウハウ」を書いています。特にマイブームが「タブレットやビデオを使った、学習」でありますので、それに関するノウハウを「敢えて」書いているのですが、今日も、さらに続きます。
 
 今日、書くのは、

 ipadを使った、「最も簡単なリアルタイムドキュメンテーションムービーの作り方」です。

 「リアルタイムドキュメンテーションムービー」とは、ワークショップなどの「出来事」をリアルタイムで記録して、参加者にリフレクションのときなどに見せる映像ですね。

リアルタイムドキュメンテーション
http://www.nakahara-lab.net/blog/2009/08/post_1565.html

 下記で紹介する方法を用いた場合、実現されるムービーのクオリティは「そこそこ」です。凝ろうとすれば、いくらでも凝ることができますが、それは、本記事の目的ではありません。

 ただし、もっとも簡単に、リアルタイムドキュメンテーションムービーをつくろうとすれば、下記のような方法になるのかな、と思います。

 さらに「その先」へ!
 興味をもたれた方は、ぜひチャレンジして下さい!

  ▼

 もっとも簡単なリアルタイムドキュメンテーションムービーの作り方は、下記の通りです。

 ーーー

1.まず1のipadの「カメラ」で、「出来事のビデオ」を撮影します。リフレクションムービーは「素材をいかに綺麗にとれるか」でクオリティが決まりますので、実は1がすべてであったりしてください。

 ・脇をしめて撮影して下さい。手ぶれをなるべく
  ふせぎます。録画しはじめたら、微動だにしない。
  これが全てかもしれません。
 ・ipadは、必ずヨコにして撮影して下さい。
 ・ワンカットは3秒-4秒程度にしてください。
  基本的には、この3秒-4病のワンカット撮影を繰り
  返して、出来事を撮影していきます。
 ・4秒のワンカット撮影中は、絶対にipadを動かさないで
  下さい。上下に動かしたり、ヨコに動かしたり、ズームをしたり、
  よったり、動いたり、一切しません。
  撮影中は、3秒ー4秒微動もしない、これが鉄則です。
 ・ipadの映像は、上から下をとるような映像になりがちです。
  下から上をとったりしてください。また人をとるときは、
  被写体の人々の目線にあわせてとるとよいと思います。
  とにかくipadの映像は「上から目線」になりがちです。
  それを避けて下さい。
 ・バストショット、全体が入るショットなど、多様なショットを
  いれていきます。同じようなカットの映像は、あとで繋げません。
  ですので、いろんなカットをとっておきます。
 ・手元や、掲示物など、いろんなカットをとってください。
  これらが、あとあと、つなぐためのカットに成増。
 
2.1で撮影した映像を2の「iMovie」で編集します。 iMovieは、Apple Storeでワンコインで購入できます。なお、iMovieのアプリケーション上でも、カメラで映像を撮影できるのですが、それは避けます。なぜなら、iMovieのアプリケーション上で撮影した動画は、iMovie上でしか使えないからです。かならず、1の一般的なカメラで撮影し、2のiMovieで編集することを基本とします。

ipadrtv1.png

ーーー

3.iMovieを起動したら、「新規プロジェクト」をつくります。そうすると、3の部分に「カメラで撮影した3秒-4秒の映像」が並んでいると思います。並んでいる映像を、クリックしていくと、4のようにタイムラインに映像が並んでいきます。これが映像をつないでいく作業です。並べたい映像分だけ、これを繰り返します。

ipadrtv2.png

ーーー

4.映像プロジェクトの全体設定をします。5をクリックし、6のようにしてください。こうすると、ムービーの最初と最後が、フェイドイン・フェイドアウトし、さらには、BGMが勝手にループします。BGMは、自分の好きな曲をつけることもできますが、「最も簡単な方法」の紹介なので、ここでは述べません。その先は、試行錯誤してください。この場合、BGMは、勝手にループしますので、自分がつくりたいだけ、映像をつくることができます。ただし、いくら音楽が無限にループするといっても、リアルタイムドキュメンテーションとしては、全体で4分程度がよいかな、と思います。それ以上は、なかなかオーディエンスが見ていられないものです。

ipadrtv3.png

ーーー

5.もし3秒-4秒のショートクリップ映像のそれ自体を「微調整」したい場合には、7のようにタイムラインの映像をダブルクリックします。8をいじれば、テロップをつけることができます。9をいじれば、ショートクリップの音声レベルを調整できます。10の黄色の丸をいじれば、ショートクリップを短くしたりするなど、その長さを調整することができます。

ipadrtv4.png

ーーー

6.並べおわったら、プロジェクト画面に戻ります。11をおすと、つくったムービーをどうするかを聞かれますので、Youtubeにアップしたい場合は、12のようなボタンを押すだけです。これにて終了。

ipadrtv5.png

ーーー

  ▼

 今日は「ipadを使った最も簡単なリアルタイムドキュメンテーションムービーの作り方」を書きました。
 もちろん、凝ろうと思えば、どこまでも凝ることができますので、ここで書いたことは、最も「初歩的」なものです。また、ここに紹介した方法は、あくまで「たたき台」です。その状況に応じて、どんどん改変していくことが期待されます。

 さらに「その先へ!」
 さらなる「試行錯誤」へ!
 さらに発展する「オープンソース」へ

 そこから先は、それぞれのコンテキストにおける、皆さんの「探究」を期待しております。

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2013年5月18日 18:19


プチ・プレゼンビデオの作り方:レクチャーの一部をオンラインにする

 最近、自分の授業時間において「僕自身が情報を伝達する時間」が惜しいなぁ、と思うようになりました。「授業をしたくない」「レクチャーをしたくない」と言っているわけでもなく、また、「レクチャーをする必要がない」と言っているわけではありません。

 そうではないんです(笑)。

 僕が、言いたいことは、

1.「一方向的に情報を伝達すること」ならば、授業時間前・授業時間後にオンラインのビデオを提供するので、そちらを見てもらっても、いいのではないだろうか?

2.その分、あまった時間を使って、学習者同士が、対話・ディスカッションをしたり、活動を行った方がいいのではないか

 と思うようになっているのです。
 様々な学問分野がありますので、他の分野でもできるかどうかは知りません。また、他人にすすめる意図もありません。あくまで僕がそう思っているということです。

 もしかすると、これは、いわゆる「反転授業」?というやつなのかもしれません。定義をよく知らないので、これがそれに当てはまるかどうかは知りませんが、僕的には「プチ・プレゼン・ビデオ」ということで、以下を、書き進めます。

 実際、僕の、いくつかの授業では、すでに、僕がプレゼンテーションをビデオで撮影し、受講生に授業の前後にみてもらう、ということをやっています。
 あのね、ちゃんと授業はするんです(笑)。あくまで、それに捕捉して、プチ・コンテンツをつくっているということです。動画ビデオを、事前にみせるのであれば「予習」、事後に見せるのであれば「復習」ということになりますね。

 といいますのは、最近は、本当にプレゼンテーションを動画にするのは、本当に簡単だからです。この敷居が驚くほど下がったことが、前述した「レクチャーをする時間が惜しいな」と思うことの背景でもあります。できれば、浮いた時間を、その他の、よりインタラクティブな活動に使いたいのです。せっかくの「直接対面の機会」ですので。

 僕の使っている方法は、中原研OBの舘野さんに教えてもらった方法ですが、下記のようにやっています。

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1.デスクトップを「動画撮影」しつつ、音声録音できるソフトウェアを入手する。

Macならば、Snapz Pro Xがあります。だいたい6000円くらいか、と。動画形式でのスクリーンキャプチャと音声録音ができれば、どんなソフトでもかまいません。


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2.音は重要なので、外付けマイクを用意します。(内蔵マイクでもできます)

僕は、USBマイクの「Yeti」を使っています。12000円くらいで少し値ははりますが、綺麗に音声をとれます。

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3.普通に、いつものように、プレゼンをパワーポイントでつくります。出来たら、それを開いておきます。

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4.下記の図のように、パワーポイントをひらきます。Snapz Proの「ムービー撮影」で、撮影する範囲を「赤線」のようにあわせます。で、あとは、撮影開始してください。いつものように、プレゼンをします。サイドバーの各画面をポチポチしながら、プレゼンをいつものようにすればいいのです。Snapz Pro Xは、「赤線」の部分のみを動画キャプチャーしています。

snapz_pro_lecture.jpg

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5.プレゼンを読むときは、マウスで読んでいるところを動かしながらよむといいでしょう。プレゼンを読んでいる音声は、気持ち、大きめ、明瞭に発音します。経験的には15分くらいをMaxに、めざすが10分くらいのコンテンツがいいのではないか、と思います。

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6.撮影終了。そうすると、「赤線」で囲った部分のプレゼン+音声のムービーファイルが出力されます。これをYoutubeなどにアップロードするだけです。Youtubeでの動画公開範囲は「限定公開」にしておけば、URLを知っている人だけに公開されます。このURLを、あとは、知って欲しい人にシェアすればいいのです。

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 最初のうちは慣れないかもしれませんが、慣れてくると、ほぼ失敗なく、プレゼンの音声付き動画が撮影できます。
 あと、最初はなぜだか知りませんが「恥ずかしい」です。この様子を、誰かにこそっと見られていたとしたら、「穴があったら入りたい気分」になるかもしれません。
 なんせ、絵的に「微妙」です(笑)。
 ひとりで、画面に向かって、プレゼンをしてますから(笑)。この様子は、誰にも見られたくないかもしれません。

 かくして出来たプレゼン動画は、「作り込まれていない」ですし、「驚くほどシンプル」だし、全く「凝っていない」ですが、「一方向的に情報を伝達する」だけなら、これでも、十分ではないか、と思っています。敢えて、「小生」のむさ苦しい顔を見ることなど、必要ありますまい。

 最近は、

「あ、授業で、あのこと言い忘れたな」
「授業の前に、こんなことを知って欲しいな」

 と思ったときは、この方法で事前・事後に、参加者の方々にプレゼンをお贈りしています。

 しばらくしたら、この「実験」も飽きるのかもしれません(笑)。が、まだまだ深いやり方がありそうなので、しばらく、このまま「探究」してみることにします。

 そして人生は続く。

投稿者 jun : 2013年5月17日 09:06


「今、ここの出来事」がコンテンツ化するということ:タブレットを持ち歩くようになって、僕の仕事に起こった変化!?

 今年になってから「ひとりで、ひそかに実験」していることのひとつに、自分のような仕事をしている人が、タブレット端末(僕の場合はipad)を持って歩くと、どうなるか、というのがあります。
 タブレットを持って歩くと、「僕の仕事」はどう変わるだろうか、と。自ら「実験台」になって、実践しているわけです。

 結論から申しますと、

「自分のまわりで、今、ここで起こった出来事が、動画コンテンツ化する」

 ということが起き始めました。

「起き始めた」というのは、やや「客観的な装い」をした、もってまわった言い方ですね。

「オマエが、そうしようと思って、そうしたんじゃないか」

 と言われれば、おっしゃるとおり、そのとおりなのですけれども。

 でもね、いくらそうしようと思っても、「無理があること」「面倒くさいこと」「他者から喜ばれないこと」は続かないのです。
 でも、今のところは、何とかかんとか、まわりのご意見も好評で「出来事のコンテンツ化」は着々と進行しています。

  ▼

 より具体的に「出来事が動画コンテンツ化する」とは、どういうことなのか。
 それは、日常生活で出会った面白いな、と思った場面、興味深かった出来事、ワークショップや様々な集いが、その場で撮影され、デジタルコンテンツ化し、Youtubeなどで、シェアされるようになるということです。
 自分の何気ない日常、人々や事物との出会いが、ラーニングコンテンツ化していくのです。

 付属のカメラで、ちゃちゃっと撮影。
 iMovieで、余分なところをちゃちゃっとカット。
 Wifi経由でアップロードして、
 URLをメーリングリストでシェア!

 そういうことが、ほぼリアルタイムで、非常にハードル低く、実践できるようになってきました。
「作り込んだ映像」や「こった演出」や「素晴らしいエディティング」など不要です。なるべくお金はかけないし、無理はしない。それよりは、スピードを大切にして、皆でリアルタイムに「シェア」することを優先する。
「今、ここ」で起こった出来事をドキュメンテーションし、シェアする。場合によっては、数十分後に行われる、プレゼンに、今、とった映像を反映し、ディスプレイする。

 おそらく、

 「今、ここ」
 「ドキュメンテーション」
 「シェア&ディスプレイ」

 というのがキーワードなのかもしれません。

 もうすこし引いた見方をしますと、こういうことです。
 これまで、内容知・専門知をもっている人と、それを撮影・公開していく人の専門性はきっちり別れていた。クオリティをそこそこでよいのなら、後者のハードルが下がってきた。撮影・公開・シェアしていくことの技術的ハードルが下がってきたので、内容知・専門知を有する人々が、それを伝えるチャネルを持ち始めている、ということなのかもしれません。
 
  ▼

 断っておきますけれども、僕は、IT教育推進派でも、タブレットの教育利用推進派でも、何でもありません。また、現在のIT事情に詳しいか、というと、どちらかというと逆ではないでしょうか。部門の皆さんには、IT関係のことでは、助けられています。設定わからん。ITには詳しくないけど、実験マインドはあります。それだったら、負けないんだけどね(苦笑)。

 また、この話が、どの程度一般性のあることか、全く興味はありません。「道具」なのだから、状況や目的に依存して、いろいろな使われ方があるでしょう。上記のお話は、あくまで、今、僕の仕事のあり方に起こっている変化ということです。

 この「実験」のたどり着く先が、どこになるかを、もう少し「実験」を継続して確かめてみたいと思っています。

 そして人生は続く 

追伸.
 撮影した動画の一部は公開しているものもあります(ほとんどはYoutubeの限定公開です)。

 上記は、春合宿を撮影したものですね。参加しながら、撮影し、リアルタイムで映写しました。まだ持ち始めたばっかりの頃ですね。

 こちらは、マネジャーの方々を対象にしたワークショップのイメージ映像ですね。公開可能であるように編集しているので、これだけ見ても全くわからないと思いますが。

 まぁ、そんな感じです。

投稿者 jun : 2013年5月16日 08:40


「穴埋め問題としてのアート」、この、不幸せな出会い!?

 僕の場合、生まれてはじめて美術館に出かけたのは、記憶に残っている限り、高校生くらいのことだったように思います。「高校生くらい」と書いたのは、それさえも、確たる記憶にないのです。もしかしたら、中学生の頃だったのかもしれませんし、高校生の頃だったのかもしれません。
 ひとつ間違いのないことは、生まれ故郷にある公立の美術館には、記憶に関する限り、一度も行ったことはなかった、ということです。
 
 のっけから、自分の「文化資本の低さ」を露呈するようで、いささか気が引けるのですが、それも、仕方がありません。過去や生まれは、変えることができません。
 小生、子ども時代から、アート、美術、芸術とは全く「縁遠い」生活をしてきました。そのことを、なんでだったのかなぁ、と今になって考えることがあります。

   ▼

 アート、美術、芸術というよりも、子ども時代の僕にとって、まだ身近であったのは「図工」であったように思います。しかし、かつての僕は、完全に「誤解」をしていました。

 つまり、図工も、どこかに「正解」があるものだと思っていた節があります。図工の鑑賞には、「この作品には、こう答えておけば、無難な答え」が存在し、それを暗記することが「鑑賞」なのだと。
 僕の予感は、

「ゲルニカとは・・年に制作され、作者は・・であり・・・の影響を受けている」

 という命題に対して、回答を求めるような「穴埋め問題」が、定期テストに出題されたことをもって、「確信」にかわりました。

 要するに、ここまでをまとめると、アート、美術、芸術と僕は、「幸せな出会い」をしていなかったように思います。

 今だったら、「アート作品の穴埋め問題」を見て、

 この問題こそが、"現代アート"ではないか!

 と叫んでしまい、拍手喝采してしまうところですが、そういう余計な智慧と皮肉は、当時の僕は、持ち合わせていませんでした。

  ▼

 上野行一著「まなざしの共有」を読みかえしました。


 本書では、対話型鑑賞の主導者であり、かつてニューヨーク近代美術館で実践を積み重ねてきた「アメリア・アレナス」の概念・手法を紹介し、対話型鑑賞についての理解を深めていきます。

 アレナスの実践で、重視されているコンセプトは、

「芸術とは、作品の中に込められているものではなく、作品と私たちの関係である」(p48)

 という考え方です。
 ロラン・バルトが「テクスト」と「作家」の特権的立場を批判し、「テクスト - 読み手」の関係性を問うたように、アレナスにおいても、芸術を「見るもの」へと開放させます。

 この対局をなす考え方は、

「作品の中には、作家が込めた意味や理論がたくさん詰まっていて、それを読み取ればいい」

 とする作品観ですね。
 こちらは、先ほどの、子どもの頃の僕の美術観に似ているような気もいたします。

 かくして、彼女は、作品を前に、鑑賞する人々に問いかけます。静謐を旨とする美術館に対話が生まれます。

「この作品について話しましょう。これは何でしょうね?」
「この作品では、いったい、何が起きているの?」
「何を見て、そう思ったの?」

 対話型鑑賞とは、この一連のコミュニケーションの連鎖の中に生まれます。

  ▼

 本を読みかえし、つくづく思ったのは、「子ども時代に、アートと、こうした出会い方をしたかったな」ということです。
「学校教育の研究」を離れて10年以上立ちますので、僕は、現在の状況がどうなっているか、知りません。また僕は美術や芸術の専門家ではないので、専門的議論や乗り越えられるべき課題は知りません。

 おそらくは、僕のような「果てしない誤解」をしている子どもは、少なくなっていることと思います。

 それにしても、
 子ども時代には、
 事物と「よい出会い」をしたいものです。
 
 そして人生は続く。
 

投稿者 jun : 2013年5月15日 08:57


キャリア教育とは言わないキャリア教育、越境学習とは言わない越境学習:電子書籍「東大発2013」無償公開はじまりました!

 中原と重田先生(元・同僚、今年4月より北海道大学准教授にご栄転)で開講した授業「メディア創造ワークショップ」の成果物が、今年もiTunesUで公開されました。
 EPUBに対応したiPhone、 iPad等の携帯電話、電子端末で閲覧することができますので、もしよろしければ、ぜひご覧下さい。

toudaihatsu2013.png

「東大発2013」ダウンロードサイト
https://itunes.apple.com/jp/course/dong-da-fa2013/id647770046

 この授業では、「働く×社会」というテーマに基づいて、学生がグループで議論して取材対象と自らの主張を考え、実際に学外へインタビューに出向き、多様な働き手から話を伺い、それらをインタビュー映像とテキストにまとめる活動に従事します。

 授業では、ダイヤモンド社で記者をなさっている間杉さん、映像作家の大房さんにもご出講いただき、インタビューの技術、撮影のノウハウを学びました。ありがとうございました。本件につきましては、学生から別途御連絡差し上げる予定です。

 今年は、社会で活躍なさっている5名の方々

 近藤大介さん(講談社・中国ビジネスを統括)
 鈴木菜央さん(greenz.jp編集長)
 小山登美夫さん(現代アート・ギャラリスト)
 西田一平さん(世界銀行)
 伊東豊雄さん(建築家)

 に学生がお話を伺いに行きました。お忙しいところ、貴重なお時間をいただき、また原稿のチェックまでいただき、本当にありがとうございました。この場を借りて、御礼申し上げます。

 個人的には、この授業は

 「キャリア教育とはいわないキャリア教育」
 「情報教育とは言わない情報教育」
 「越境学習とはいわない越境学習」

 だと思っています。
 社会の第一線で働いている方のお話を、導管モデルで「聞く」のではなく、「聞きつつ、自ら考え、編集し、発信する」。
「情報メディアの操作」を学ぶのではなく、メディアを自らがつくりながら、そのエコシステムを、学ぶ。
 大学の外には、様々な大人がいて、活躍し、奮闘していることを知り、越境する心構えをつくる。

 この授業は、今年で3年目ですが、そういう「混成体」でありたいと考えてきました。対象は大学に入ったばかりの学部1年生、2年生です。なるべく早いうちに、上記のような

「現場を歩き、人の話を聴く経験」
「コンテンツを消費する側から、つくる側にまわる経験」
 そして
「将来のことを考える経験」

 を持って欲しい、と願っていました。それが成功したかどうかは、また慎重に考えてみたいと思います。

 今回の作品は、わずか2単位15回(初回はオリエン・セレクションなので、正味14回:1回は90分)の授業時間でつくったものであり、また学生のつくるものですから、拙いところも多々あるかと存じますが、どうぞご覧頂けますと幸いです。
 去年の作品「東大発2012」は1万部のダウンロードがあったそうです。今年も多くの方々にお読み頂けたとしたら、まことにうれしいことです。

「東大発2012」ダウンロードサイト
https://itunes.apple.com/jp/course/dong-da-fa2012/id518239744

 iPhone、iPadをお持ちでない方は、PDF版がございます。PDF版は、下記からダウンロードいただけますと幸いです。Amazon Kindle版も順次公開の予定です。

「東大発2013」PDF版
http://www.he.u-tokyo.ac.jp/wp-content/uploads/2013/05/fromtodai2013.pdf

投稿者 jun : 2013年5月14日 08:17


大学院修士入試、中原研究室独自の説明会を開催します!

 今年も大学院入試の入試説明会を企画する時期になりました。
 中原研究室では、6月1日(土)午前10時30分-12時 中原研究室個別の研究室説明会を開催します。もちろん、僕も参加・プレゼンしますし、大学院生の皆さんにもご参加頂けると思います。

 1.中原の指導方針&研究室運営方針プレゼン
 2.大学院生による研究室紹介プレゼン
 3.自己紹介&院生などをまじえての対話

 などを1時間30分で行っていく予定です。わたしは何も隠しません(笑)。わたしの指導のよいところも悪いところも、研究室の雰囲気のぶっちゃけたところも、大学院生などから聴いて下さい。おそらくリアルにおわかりいただけるものと思います。

 もし、東京大学大学院 大学院学際情報学府で中原の研究指導をご希望の方がいらっしゃいましたら、どうかご参加いただけますと幸いです(もちろんのことですが、研究室の個別説明会に参加しなくても、受験できます)。
 参加申し込みは、下記のWebサイトから行うことができます。なお、中原個人に対する個別の面談、面接は、人数の都合から行っておりませんので、こちらにご参加いただければ幸いです。1なおスペースの都合で15名を上限に打ち切ります。ご了承下さい。

中原研究室 研究室独自の説明会 参加申し込み
http://ow.ly/kOsXy

 なお、この日は、午後1時から研究科(大学院学際情報学府)公式の入試説明会があります。続けてご参加頂けるようになっておりますので、どうかご検討下さい。

平成26年度東京大学大学院学際情報学府入試説明会のお知らせ
http://www.iii.u-tokyo.ac.jp/event_detail.php?id=1646

投稿者 jun : 2013年5月13日 05:55


【完結編】「残念な研究計画書」の書くための5つのポイント!?:研究しない、絞れていない、調べない、主張しない、そもそも出来ない研究計画書

 小生にとっては、もはや風物詩のようになっていますが、毎年、この頃になりますと、研究計画書を目にする機会が多くなります。

 研究計画書といいますと、まー、あれですわな、「素敵な研究計画書の書き方」などは、書籍やら、ネットやらに情報があふれておるわけでございまして。
 へそまがりの小生は、どうしても、一寸変わったことをやろうということになるわけでございますな。

 というわけで、本日は、「残念な研究計画書を書くコツ」について、書いてみたいと思うわけでございます。

   ▼

 残念な研究計画書、いいかえれば「アチャパー、やらかしちゃいましたね」といったような研究計画書を書くコツは、次の5点です。

 1.研究しない
 2.絞れていない
 3.調べていない
 4.主張していない
 5.出来ない

 1から5まで、これを、時間の許す限りにおいて、少しずつ説明しきたいと思うのでございますな。よろしいですかな。

  ▼

 1の「研究しない」というのは、一寸、冗談のように感じますな(笑)。だって「研究しない研究計画書」というのは、形容矛盾ですから。でも、これ、本当によくあることなんでございます。

 具体的には、このタイプ1の研究計画書には、ざっくりいうと、

 人材育成について勉強したい

 とか

 経営学習論について体系的に勉強したい

 と研究計画書に書いてあるわけです。
 嗚呼、とても残念です(笑)。
 ガクン。

 大学院は「研究」をするところであり、「勉強」は「研究を通して」するものでございます。「勉強」するのは、あたりまえのことであり、敢えて、述べることでもないわけでございます。
 研究計画書では、その先のこと、「自分の探究したい課題」、すなわち「研究」について述べなければならないのですな。研究計画書は、「勉強計画書」ではないのです。

 この状態、ビジネスの文脈に喩えていいますと

「あなたは、どんな商品を開発したいですか?」

 と聴かれているのに、

「(商品を開発するための)化学を、今から、勉強したいです」
「(商品を売るための)経営学を、一から、勉強したいです」

 と答えていることに近い状態です。その「残念っぷり」がおわかりいただけるかと思うわけでございます。
 もうおわかりでしょうが、「残念な研究計画書の書き方」は、そのまま真に受けないでほしいのでございます。そんなことを真正面から論じる趣味はないのでございまして。それを「裏返していただければ」、「素敵な研究計画書の書き方」になりますので、どうか、そちらの方をご賞味いただきたいのでございます(笑)。面倒くさいことしなさんな、とおっしゃる御仁もいらっしゃるかと存じますが、そこは「へそまがり」、どうしても、普通のことはしたくないのでございます。

 ふぅ。
 今日は、タイプ1を説明し終えたところで、時間切れでございますな(笑)。
 ちょっと、文体を敢えて変えてみたのですが(落語の桂枝雀さん風に変えてみました・・・本日、柳屋花緑さんとの対談がございますもので、なぜ枝雀さんかは、特に理由はありません、たまたま昨日深夜にDVD見てただけ)、予想以上に時間がかかってしまいました(笑)。

 というわけで、
 お後がよろしいわけではないのですが、
 また明日(笑)。

 ーーー

 というわけで(笑)

 今日は、その続きなのですけれども、昨日は途中で失礼しましたな。小生、ブログを書ける時間は、本当に限られており、一日15分- 20分しかないのです。その範囲内で、書ける範囲を書こうと思うわけでございます。無理せず、できる範囲で。

  ▼

 さて、早速、時間がないので、本題に入りますが、昨日は1まで、ご紹介いたしましたな。残念な研究計画書を書くポイント?は、下記のように5つあるのでございますな。残りは4個なのでございmす。

 1.研究しない
 2.絞れていない
 3.調べていない
 4.主張していない
 5.出来ない

 続く、2なのですけれども「絞れていない」というのは、もっとも、よくある「残念な研究計画書」の症状?なのでございます。たとえば、こういう感じでございますな。

 「オラは、OJTについて研究するナリよ」

 そうナリか(笑)
 突然コロスケ登場でございますな。
 久しぶりのコロスケは、まことに懐かしいのでしょうが、しかしながら、上の研究の射程は、「広っ」て感じでございましょう。

 OJTっていったって、誰に対する?
 どんな企業規模? どんな業種?

 上記のような文言を、研究計画書で見つけると、それはそれは、残念な気持ちになるので御座います。

 ビジネスのコンテキストにひきつけて考えるならば、仮にIT企業だといたしますと、

 「我が社は、どんな製品をつくればいいのでしょうか?」

 という問いに対して、

 「コンピュータっす!」

 と答えるようなものです。

 「誰が、どんなコンテキストで使い、どんな特徴をもつコンピュータで、競合と何が違ってて、どんないいことがあるのか?」

 と聴きたくなるでしょう?

 先ほどのコンテキストに戻しますと、それって、どんな場所で、どんなときに、誰に対して行われるOJTなの? さらにいうならば、そして、なぜ、それが問題で、それを解決することが、どんなメリットがあるの?

 という疑問はわいてきますでしょう。
 最低でも、ここまで絞れると、より具体的になります。

 1.Where + When + Who(どこで、いつ、誰が)
 2.Why(何が問題なのか)
 3.Social Impact + Academic Impact
 (社会や学術にどんな影響があるのか?)

 たとえば、あくまで例ですけれども、先ほどのOJTを例にしますと、下記のようなイメージのように「絞ること」ができます。あくまで例ですよ、これが、研究として、本当に成立するかどうかは知りません。

 中小企業で 組織参入時に行われる 新入社員に対するOJTに関する研究
 (Where + When + Who)
 をしたいと思う

 理由は、
 中小企業にはなかなか人材育成投資にまわす資源がなく、企業規模にあった効率的なOJTのあり方を模索することが必要である
 (Why)

 これをおこなえば、

 日本の9割以上を占める中小企業の経営を支えることができる
 (Social Impact)

 学術的にも中小企業の研究は少なく、貴重な知見を提供できる
 (Academic Impact)

 ということになるのでしょう。
 あくまで例です、例。しかし、絞り込んで、明確にしていくというのは、こういうことです。

 ▼

 3「調べていない」、4「主張していない」というのは、実は2「絞る」を行っていくためには、不可欠なことになります。それは上記の「Academic Impact」にかかわることです。

 研究は、あくまで「オリジナリティ」を主張しなくてはなりません。つまり、どんなに実務的には解決しなければならなくても、「すでに誰かが研究をしていたら」、Acadeic Impactは「ゼロ」なのです。

 ですので、以前、どこかの誰かが、同じようなことをやっていないかどうか、先行研究を調べる、ということをきちんとやらなくてはなりません。先行研究を「調べ」、適宜、それを「引用」しつつ、オリジナリティを「主張」しなくてはならないのです。これがAcademic Impactを語ることです。
 具体的には、Ciniiなどの論文データベース、専門書、研究書、論文を読みながら、何がわかって、何がわかっていないかを、調べて、オリジナリティを主張しなくてはなりません。最低でも、そのくらいはしないと、研究計画書は書けません。

Cinii
http://ci.nii.ac.jp/

 しかし、どうにも、「残念な研究計画書」には、これがないのですな。だから、何がオリジナリティなのかがわからない。
 
 うーむ、残念ですな。

  ▼

 最後の5「出来ない」は、フィージビリティ(実現可能性がない)ということです。
 要するに、研究計画としては絞れているし、先行研究も調べているし、オリジナリティを主張もしている。でも、「たぶん、それ現実には出来ないよ」というような研究計画というのがままあります。

 たとえば

 新入社員が3年間でどのように熟達するかを参与観察する

 とかですかな。

 あのー、修士というのは2年間なのですけれども・・・。
 それに、3年間、新入社員を追っかけることを許諾してくれる職場ありますの?

 できないよ、、、たぶん、、、それ。

 たとえば

 経営者1000人にヒアリングをして・・・・

 あのー、そんなコネあんの?
 という感じです。
 つまり、研究の実現可能性がない。

 どんなにすぐれた研究計画でも、実現可能性がないものは、やはり「残念だな」と思います。

  ▼

 以上、つらつらと、「残念な研究計画書」の書き方を5つにしぼり書いてきました。もちろん、残念な研究計画書が増えればいいのではなく、その逆でございます。素晴らしい研究が増えることを願っています。
 一番いいのはですね、お近くに大学院生や研究をやったことのある人がいたとしたら、自分の書いた研究計画書を見てもらい、コメントをもらうことかもしれませんね。

 最後に、1つお詫びです。
 本文章、落語調で書くつもりでしたが、途中からどうでもよくなって、もう、文体がわけわからなくなったことをお詫びいたします(笑)。本当に適当パンチですみません。

 お後がよろしい感じもするんだか、しないんだか、わかりませんが、そろそろ時間です。
 
 そして人生は続く
 
 ーーー

【関連記事】

社会人大学院生が抱えがちな悩み:自分の問題関心・業務経験×研究として成立させること
http://www.nakahara-lab.net/blog/2013/04/post_1986.html

投稿者 jun : 2013年5月 9日 07:16


組織開発とは言わない組織開発:「リーダーによる職場開発」と「組織開発が埋め込まれた研修」

 昨日は、組織開発の定義や概要についてお話をしました。
 ブログであることをいいことに、ここぞとばかり、定義のディテールの差異をレビューすることをぶっ飛ばし(学術論文では、こうした暴挙はしませんよ)、ざっくり・ばっさり・要するに、組織開発の定義を、

「組織の目的を達成するために、"組織メンバーが協働できるようにする"ための介入・努力」

 ととした「ひと言」で述べたうえで、もうちょっとだけ、それを具体化しました。

 たとえば、

 1.人が「組織」としてまとまりをもって
    働けるようにするための介入プロセス
 2.組織の中のコミュニケーション
    を円滑にする努力プロセス
 3.組織の中にネットワークや信頼
    といった社会関係資本を発達させるプロセス

 などの諸力が、組織開発と呼んでも差し支えないものであると、僕は、昨日、述べました。

 さて、昨日は、何とかかんとか、ここまで到達したのですが、さて、ここまでを聴いて、皆様はいかが思われたでしょうか。

 「そんなのわかってるよ、アホンダラ」
  という方から、
 「ふーん、そうなのね、だから?」

 という方まで(笑)、いろいろいらっしゃるとは思うのですが、今日は、実装(インプリ)編です。

 こうしたことを、じゃあ、どう実現しようか、やってみようか、と一寸思ったときに、わたしたちは、いったい、何からはじめればいいのでしょうか。

 人事や人材開発の知識や経験をもっている人が、「組織開発」といいますと、よく思い浮かべるのは、中規模の人数を対象としたチームビルディングのワークショップや、組織全体を対象にした組織改革や組織理念系のワークショップなどです。
 経験と専門性を有する社内外のファシリテータが、組織開発を目的に集められた人々の場、「非日常の場」を仕切り、人々のあいだに上記の1・2・3がうまく醸成されるように、アクティビティやコミュニケーションを統御していきます。
 また、人事の専門誌や、海外の人材マネジメント事例などで取り上げられるのもの、この類のものです。その特徴は、やはりひと言でいいますと、「非日常性」にあるのでしょう。
 こうした「本格的な組織開発」は、我が国の組織構成員が、さらに多様化することを考えると、今後、さらに必要になってくるものと思われます。実践の社会的意義は増しつつある、というのが僕の見解です。

 しかし、一方で、こうも思います。
 上記のような「ハイエンドな場」を、最初から創ることにチャレンジせずとも、もう少し「日常のレベル」で、上記のような目標を達成することも、可能なのではないのか、と一寸思います。

 たとえば、わたしたちがふだん仕事をしている、職場ではいかがでしょうか。
 これは予想なのですが、経験と志ある現場のマネジャーの方が、先ほどの上記の1、2、3を聴いたとしたら、人によっては、

「そんなもん、毎日やってるよ」

 と答える方もいらっしゃるのではないか、と思います。
「組織」とはいかなくても、「職場」のレベルでは、人々をコラボさせるための、様々な介入や努力は、職場のマネジャーによって担われているからです。
 なぜなら、目標を掲げ、それを腹におとし、さらに人々の協力や参加を促すことこそ、リーダーシップとよばれる社会現象そのものですし、リーダーの役割だからです。つまり、リーダーの職責を全うするするためには、「職場開発」の役割を担うことから、遠ざかることはなかなかできるものではありません。

 というわけで、職場レベルでは、組織の意をくみ取った現場マネジャーが、現場レベルの「組織開発、つまりは「職場開発」を日常レベルで実現すること。別の言葉でいうならば、職場開発の意図を日常のマネジメントの中に埋め込んでいくことが、まず大切なのかな、とも思うのです。

 職場とくれば、研修ではいかがでしょうか。
 近年、ヒアリングをしていて、とみに増えているな、と実感するのが、「ななめをつなげる意図を密かにもった研修」と「多職種参加型の研修」です。
 要するに「組織開発の意図を裏側にもった研修」が増えているな、と実感するのです。

 前者とは、つまり、具体的に申しますと、3年目と5年目のフォローアップの研修の際、それぞれの社員を同一の場に集めて、一緒に活動を行ったりするようなことをさします。要するに「仕事をしていても、ふだんは、あわない人同志を集めて」繋げるわけですね。

 1年目と2年目や、3年目と4年目といった明確な上下になりますと、新人研修や職場などで、わりあい顔をあわせる機会も多い。そうではなくて、3年目と5年目といった「同じ年代で、同じような興味関心・思いをもって仕事に取り組んでいるのだけれども、少し目線が違う」人々を集めて、つなげることが、興味深いところです。「同じ - 違い」のズレをうまく学習に結びつけるのですね。

 後者「多職種参加型の研修」も同じようなかたちです。
 組織の規模にもよりますので、一概にはいえないですが、組織の中には、様々な職種・専門性をもった人々が集まって、協力して、ひとつのプロダクトやサービスをつくっている例が少なくありません。

 たとえば、そうした人々が、それぞれの職種から、一同に介して、たとえばキャリア研修をする。ふだん考えない仕事のこと、キャリアのこと、自分の未来のことを考える。
 多職種からの参加ということになると、当然、最初は、話がかみあわないこともある。自分としては「常識」だと思っていたことが、同じビルで働く違う職種の人々にとっては、全く「常識」ではないこともある。

 要するに、この「同じ組織で働き、同じものをつくっていつつも、違う職種で違った働き方」をしているという「同じ - 違い」のズレをうまくつかって、研修を行い、学習を深化させ、さらには副次的に人々のつながりをつくっているということになります。

 今日は組織開発の実装について、少しだけ王道を踏み外して、お話しをしました。
 くどいようですが、いわゆる「ザ・組織開発」といった特定の手法や手続きによる場の創出やファシリテーションは、今後、我が国の組織が迎えるであろう、本格的なダイバーシティ労働環境においいては、必要なものです。

 しかし、今日の話題は、そこまで洗練されているとはいえなくても、既存の物事に「組織開発の意図を埋め込んで」実践することは可能だよ、ということを申し上げました。比喩的に述べるならば、こうした機会は、

「組織開発とはいわない組織開発」

 ということになるのでしょうね。

 本格的な場の創出にいく前に、まずはスモールスタートからという場合、こうした実践のあり方も検討されてもいいことなのかな、と思います。
 具体的には「職場レベルでのリーダーによる組織開発」、すなわち「職場開発」は行えるし、すでに行われています。
 また、研修においても、「組織開発の意図をひそかに隠した学習の場の創出は可能」ですし、すでに行われている、ということでした。

 ふぅ。
 2日間にわたって続いた、組織開発のお話、これにて終了。
 何とか間に合ったか。あと2分くらいでTAKUZOが起きてきます。
 
 そして人生は続く。

投稿者 jun : 2013年5月 8日 06:26


「組織開発」と「職場のダイバーシティ」

 組織開発という言葉ほど、人によって、異なるイメージをもつものはありません。

「いわゆる、組織開発をいたしまして・・・」
「組織開発的な要素を入れて見ました」

 という言葉を、時に、実務家の方々から聴きますけれども、そこで紹介されている実践は、恐ろしいほどかけ離れていることも希ではありません。もちろん、それは間違っていることではありません。組織開発という概念自体が、いわば、何でも包み込むことのできる「風呂敷」のようになっているのです。

 組織開発について、アカデミックな世界で、もっとも利用・引用されてきたのは、下記のBeckardの定義やFrenchの概要であるような気がします。

「行動科学の知識を利用し、組織過程に計画的に介入することによって、組織の有効性と健全性を増大させようとする、Topによって管理された計画的ならびに、全組織的な努力過程のこと」(Beckard 1969)。
 
「(組織開発とは)組織の問題解決過程や、再生過程を改善するための継続的な努力である。その特徴は、とりわけ変革推進者や行動科学のセオリーやテクノロジーのたすけをかりて、組織文化を効率的かつ協働的なものにしていくことによって、所期の目的を達成しようとするところにある」(French & Bell 1973)

 うーん(笑)。。。
 わかるような、わからぬような。
 ここでは、ざっくりと、誤解や批判を恐れず、要するに、ひと言でいうならば、

 組織開発とは、

「組織の目的を達成するために、"組織メンバーが協働できるようにするための介入・努力」

 のことです。

 さらにざっくりいうのならば、要するに、

 組織のメンバーを「組織」として、円滑に働けるようにすること

 です。

 組織開発の理論的分類といたしましては、1)Tグループ系、2)サーベイフィードバック系、3)組織デザイン系、4)ポジティブ系など、様々な組織開発の流派・理論がありますが、ここでは、それには触れません。

 具体的には、

 1.人が「組織」としてまとまりをもって働けるようにするための介入プロセス
 2.組織の中のコミュニケーションを円滑にする努力プロセス
 3.組織の中に、ネットワークや信頼といった社会関係資本を発達させるプロセス

 を含みうる諸努力を、組織開発と考えてもよろしいかと思います。

 大切なのは、こうした物事が生まれた社会背景です。
 少し想像すればわかるように、こうした介入・努力が、手続き・ツール・ルールとしてまとめ、組織開発という呼称を得るまでに至るまでには、こうした物事が発展した国・地域に(米国ですが)、

「人を集めても、メンバー同士が多様でいて、なかなか、組織として動けない、まとまらない」

「多様性ある人々をまとめるためには、メンバーの自発的な相互作用にまかせていても難しく、外的な介入を必要とする」

 といった社会現象が横たわっていることがあります。

 組織開発の歴史は実は、非常に古いものですが、上記のような社会的背景をもつ国や地域「でこそ」発展したものなのです。

 それは「メンバーが均質で、メンバーの自発的な相互作用が確保されており、かつ、ほおっておけば組織としてまとまる」ような場所、すなわち、「かつての我が国」などでは、もともと、必要とされていませんでした。
 ですので、組織開発の、日本における紹介や受容は、限定的です。
 経営学の教科書には、ごく短く、組織開発が組織デザインと対照されて紹介される場合があります。論文などは、1980年代の一時期にそれが紹介されましたが、あまりブームになったとはいえませんでした。

 しかし、この「状況」が少しずつ変わってきています。
 すなわち、組織開発が、かつてよりも注目されるように、組織自体、社会自体が変化しかけている。もちろん、すべての組織・職場に変化が訪れているわけではないですよ。ただし、マクロにみれば、この数十年間で、わたしたちの働き方には、様々な変化が訪れました。

 すぐに想像がつくのは、現代の組織・職場では、雇用形態が多様化しつつあります。組織によっては、従業員の国籍や文化背景も多様になっているところもあります。要するに「組織・職場のダイバーシティ」がかつてよりも、格段に高まる可能性が出てきているのです。
 というわけで、近年、ここ数年、組織開発という言葉が、人事・人材開発の用語として、少しずつですけれども、人口に膾炙するようになってきているというわけです。

 連休明けは、少しだけ、この組織開発についてのお話を、今日、明日と、したいと思います。

 そして、明日に続く・・

投稿者 jun : 2013年5月 7日 07:17


檸檬バーン!「なめこ文學全集 なめこでわかる名作文学」をTAKUZOと読んでみた

 GWも最終日になりました。
 昨日は本屋さんにいって、TAKUZOと、ぶらぶら、書棚を歩きました。

 そこで思わず手に取ったのが、「なめこ文學全集 なめこでわかる名作文学」です。恥ずかしながら、僕は「なめこ」というキャラは、知らなかったのですが、TAKUZOはそれを知っており、「どうしても、これがいい」とせがむものですから、ついつい購入してしまいました。ちなみに、小生、いまだに「なめこ」がわかりません。どんな出自なのか?、何が目的なのか(笑)。それ、いったい、なに?

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 本書では、「なめこ」というキャラ?の漫画を通して、有名な文学作品を読むことができます。漫画として収録されている作品には

 『蜘蛛の糸』 芥川龍之介
 『たけくらべ』 樋口一葉
 『坊っちゃん』 夏目漱石
 『セロ弾きのゴーシュ』 宮沢賢治
 『斜陽』 太宰治
 『怪談 耳なし芳一のはなし』 小泉八雲
 『檸檬』 梶井基次郎
 『源氏物語』 紫式部

 などがあります。
 たけくらべ、とか、斜陽とか、原典をお読みになった方はおわかりかと思うのですが、これらは、かなり難しいというか、説明に困る?作品でもあります。しかし、TAKUZOは、楽しく読むことができました。

 意外だったのは、TAKUZOがもっとも好んでいたのは、梶井基次郎の「檸檬」だったことです。もっとも難しいけれど、好きなそうです。周知のとおり、この作品は、時代の雰囲気、憂鬱なわたしの白昼夢的な世界を描いたもので、子どもには、もっとも縁遠く感じるのですが・・・。正直にいうと、この作品は、読み聞かせしようか、どうか躊躇しました。でもね、世の中には、いろんな人がいるからね、ま、いいか、と(笑)。

 しかし、どうやら、こちらはまったく想定できなかったことですが、TAKUZOには、檸檬を爆発させるというアイデアがヒットしたようです。

 要するに「檸檬、バーン」です(笑)。

 それ以上でも、以下でもありません。
 6歳児は、よくわからん(笑)。

 考えて見ますと、僕も子どもの頃、学研の「ひみつシリーズ」という学習漫画?をすべて読破して、様々な豆知識を仕入れていました。かなりの知識、知的好奇心は、漫画から得たものも好くなくない。もしかすると、時代は、繰り返すのかもしれません。

 もちろん、それが教育的にいいことか、どうかは知りません。親として、TAKUZOに、これで、文学に親しんでほしい、とも、特に思っていません。
 あくまで「なめこ」です、「なめこ」(笑)。

 

 GW最終日。
 もし時間が余っていたとしたら、おすすめです。
 そして人生は続く。

投稿者 jun : 2013年5月 6日 09:23


【イベント報告】社内講師を育てる「仕組み」をいかに整えるか?

 皆様、ゴールデンウィーク(GW)をいかがお過ごしですか?
 僕の方は「TAKUZO漬け」の慌しい毎日を過ごしています(笑)。すこしの間、ブログをお休みさせていただきましたが、そろそろ復活しようかなと思います。このままじゃ、社会復帰が難しくなりそうですので。最初の記事は、まず、先日おこなったイベント報告からです。

   ▼

 先日4月26日、経営学習研究所のラーニングイベント「多様な社員を講師に育てる」が開催いたしました。こちら、関係各位のご尽力・ご協力をいただき、無事終えることができましたことを、まずは、心より嬉しく思います。

 今回のイベントには、230名の参加者の方々にご参加いただきました。ご参加いただいた皆様におかれましては、心より感謝いたします。こうして、今、当日の写真を見てみますと、本当に多くの方々にご参加いただいたのですね。心より感謝いたします。
(写真は、いつものように、写真家・見木久夫さんにお願いしました。ありがとうございます)

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 会は、中原の趣旨説明からはじまりました。
 冒頭では、今回のイベントを、経営学習研究所と共催させていただきました、日立ソリューションズの小嶋さんに、ご挨拶をいただきました。ありがとうございます。

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 中原のイントロダクションでは、社内講師を育て、研修を社内で開発すること、いわゆる内製化は、2000年代から注目されていることを述べました。おもに、その理由は、1)コスト削減のコンテキスト、2)社内のナレッジの還流のコンテキスト、3)組織文化や組織コミットメントの強化のコンテキストなど、様々な要因がからみあい、推進されていることをお話しました。
「内製化」はいわば、英語にならない言葉であり、その言葉や概念自体が、今更ながらに、注目されることに、ピンとこないグローバル企業の方々は少なくない。また、伝統ある製造業においては、独自の自社技術を後世に世代継承されることは、これまでも、そして、現在も実践されてきている。むしろ、人材開発の必要性やプロフェッショナリティが認められているグローバル企業、自社の強みを世代継承することにきちんと向き合う企業においては、すでに「内製化」されている。僕の方からは、そのようなお話をしました。

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  ▼

 ファーストプレゼンターは、ソフトバンクモバイルの大内さんです。

 大内さんからは、同社における研修開発の理由、経緯、そして基本的スタンスについてご説明いただきました。僕がもっとも興味深かったことは、大内さんが、「研修開発は、社内講師にたたれる方と、人事のコラボレーションによること」を強調なさっていたことです。

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 業務の内容知に関して精通なさっているラインの方々と、教える知識や人材マネジメントに関する知識を有する人事の方々。それぞれの持ち味や専門性を活かし、研修開発を試みるというスタンスが非常に印象的でした。

「研修内製化」と一般に申しますと、すぐに思い浮かぶのは、「研修の場面に、ラインの方を登壇させる」というイメージです。とかく、そうしたことがコスト削減ドリブンで進みますと、この「コラボレーションのイメージ」が失われます。

 コラボレーションする、ということは、組織内部に、教えること、研修開発することの専門性を有する努力をするということです。結局、内部的には、様々な努力をしなくてはならないのです。努力のベクトルが、研修のアウトソーシングの場合と、研修内製化では異なる、ということが重要なことのように思います。そのときは、時には、外部の力を借りることが大切になることは、言うまでもありません。

  ▼

 セカンドプレゼンターは、ソフトバンクモバイル株式会社の島村さんです。

 島村さんからは、特に、同社における社内講師育成の「仕組み」についてお話いただきました。社内講師としてデビューさせる、といっても、何もせずに、社内から、教えるスキルを有する人が生まれ出ることはありません。そこには、人事がイニシアチブをとって、育成システムや、質保障のシステムを整えること、さらには、それらを維持していく努力が必要になります。島村さんからは、大変、印象深いお話をいただきました。

 特に印象的だったのは、「育成システム」もさることながら、「質保証(クオリティアシュアランス)」を実現するための制度です。同社では、人材開発のクオリティを確保するため、様々なな社内資格を整え、研修のクオリティを維持しているとのことでした。非常に興味深いことです。

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 2つのレクチャーセッションを終えたあとは、皆さんで、お隣の方々同士で対話していただきます。

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 会場には、人事・人材開発などの実務家の方々が数多く参加なさっていました。

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 会場のここあそこで議論が起こります。様々な方がご参加いただいておりますので、すぐに話が噛みあわないこともありえます。しかし、それが対話というものなのかもしれません。

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 今回、対話の時間は25分間をとりました。

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 あっという間に、時間になりました。

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 対話のあとは、Q&Aをおえ、セッション終了です。
 Q&Aのコーナーには、20数件のご質問をいただきました。質問をすべて取り上げることはできませんでしたが、なにとぞお許しください。ご質問いただきました方々、ありがとうございました。

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 皆様、本当にお疲れ様でした。
 積極的なご参加ありがとうございました。

 最後になりますが、ご登壇いただきました、ソフトバンクモバイルの大内さん、大内さん、島村さん、本当にありがとうございました。同社の海上さんには、Q&Aでご協力いただきました。
 共催頂きました日立ソリューションズの小嶋さま、平山さま、畑野さまには重ねて御礼申し上げます。今回素晴らしいご縁をいただきました村岸さま、ありがとうございました。

 またMALL理事のみなさま、松浦さんをはじめ学生スタッフの方々にも、心より感謝いたします。
 またご参加いただきましたみなさま、心より御礼申し上げます。お逢いしましょう!

 下記は当日のスライドになります!
 どうぞご笑覧ください。

社内講師を育てる仕組み from nakaharajun

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■関連記事

リアルタイムニュースペーパー : イベント終了と同時に「新聞」の即時配付?:対話を促す新たな「お土産ツール」http://www.nakahara-lab.net/blog/2013/05/post_2000.html

Rie Cafe : 松浦李恵さんのブログhttp://riecafe.com/blog/2013/04/post.html

投稿者 jun : 2013年5月 5日 16:22


成熟した社会・組織に失われやすいもの:Do Experiments? or not 実験すること、将来のキャリア

 僕のような研究をしていると、よく学生さんから、投げかけられる「素朴な問い」がこちらです。

「どんな企業に就職すればいいですか? おすすめの企業とかありますか?」

 僕も答えは割とシンプルで「わからないですし、おすすめも見あたりませんね」です。
 むしろ、僕が知りたい(笑)、「わかるのでしたら、教えてほしいですし、こちらがオススメしてほしい」というのが、偽らざる実感です。
 しかし、中には食い下がってくる方もいらっしゃいます。その場合には「僕の話なんか聴いても一銭の得にもならないけどいいの?」とお断りし、事前に了承を得たうえで、「今の世の中にとって大切だ」と僕が勝手気ままに思っていることはお伝えします。

  ▼

 ひと言でいえば、僕が大切だと思っていることは「実験(Experiment)」です。
 もし、今、就職という節目にあたって、自分の将来を考えるのであれば、さまざまな「実験ができる場所」に身をおいた方がいいと感じますし、あるいは、自分のたっている立ち位置を「実験をさせてもらえる場所」に変えていく努力をした方がいいように、僕には感じます。

 もちろん「実験」といっても、ビーカーやフラスコをユラユラさせるのではありません。「社会実験」であってもいいのです。それでは「実験」とは何か? 科学哲学や科学史的には、様々な定義があるのでしょうけれど、わたしは専門外なので、定義の多様性については知りません。
 一般的には、実験とは「予測困難なことに対して結果を予想し(予測困難性)、リスクをとって実際に試み(実践性)、新しい知識を生み出すこと(創造性)」だとされるのではないのでしょうか。
 敢えて要約するならば「予測困難性」「実践性」「創造性」をあわせもつものが、「実験」であると、今仮にここでは、そう考えることにしましょう。

 それでは、なぜ、この3つが大切だと僕は思っているのか。
 それは「実験的な場所」というものは「本人の能力やキャリアを伸ばす場所」になりうるからです。そして、今のように変化の激しい外部環境においては、「実験的であること」が、「将来を保証する」とまではいかなくても、将来を考える上で「少しの足し(屁のつっかえ棒的かもしれませんが、少しは、役立つ支え)」には、なりうると考えるからです。
 単純に考えてもすぐに想像できることですが、「変化が激しい」ということは、別の言葉でいいかえるならば「予測困難なことが、今まで以上に、皆を襲う」ということです。ですので、若いうちは、せめて、その「備え」をしておきましょう、あるいは、「練習」をして、「基礎体力」を鍛えておきましょう、といいたいのです。

 実験とは、リスクをとって、やってみることです。一見、それはとても「リスキー」に見えるかもしれない。失敗することを恐れてしまうかもしれない。しかし、一見、リスキーに見えることをやってみることが、中長期的には、リスクを減じることにつながるのではないか、と僕には思えます。

 世の中というものは、まことに不思議なもので、「一見、安定していて、リスクのないように見えるもの」が、中長期的には、最も「リスキー」であること。「一見、リスクだらけに見えるもの」が中長期的にはもっとも「安定的」であることが、ままあるものです。そんな禅問答的循環の中に、実験もまさに、あります。

 しかし、悲しいかな、「実験のできる場所」は、世の中には「限られて」います。
 特に社会が「成熟」したものになればなるほど、物事がルーティン化し、事物は制度に縛られるようになります。そうした環境では、「実験の出来る場所」は急速に失われるか、限られてくるのが必定です。組織とて同じです。未知の事柄は、効率をあげるために、組織学習されます(先週の大学院講義でやりましたね! 組織学習曲線のことですよ)。組織学習されるということは、組織はスマートになり、効率はあがりますが、「実験のできる場所」は失われることと同義です。
 そのことに「不平不満」を言っても仕方がありません。また「成熟」自体を嘆いても仕方がありません。
 あなたが革命家や経営者でないかぎり、世の中や組織は、そう簡単にはかわりません。そして、もしあなたが本当に革命家や経営者であるならば、就職という問題で悩むことはないでしょう。
 だとするならば、「所与の条件」を受け入れ、それにどう対処するかを前向きに考えることの方が、僕にとっては、リアリティのある選択のように感じます。

 また、「実験のできる場所」は、企業のうわべや、組織の枠だけを見てもわかりません。

 大きな組織であるならば、ぎちぎちに管理されているので、イコール、実験ができない
 ベンチャー企業であるならば、イケイケドンドンなので、実験ができる

 というほど、世の中は単純ではありません。

 大きな組織であるならば、比較的余裕があるので、実験ができる
 ベンチャー企業であると、自転車操業なので、実験ができない

 という可能性にも開かれているからです。

 つまりいいたいことは「組織の枠」はあまりあてにならない、ということです。

 その「見分け方」には、僕にはわかりません。
 でも、もし企業訪問なので、すでに、その企業に働いている先輩などがいたとしたら、聴くべきことは僕ならば、「あなたは実験してますか?」「あなたの組織のメンバーは、実験できる機会がありますか?」です。「会社は実験してますかね?」でもいいかもしれません。「実験」という言葉が奇異に聞こえるならば、他の言葉でどうぞ置き換えていただければと思います。
 どんな些細なことであってもいいのです。未知の事柄に対する何らかの工夫、そして実践。それがあれば、「実験」とまではいかなくても、実験マインドがあると考えていいのではないでしょうか?

「福利厚生どうですか?」とか「休みはとれますか?」という問いも、大切至極だとは思いますが、僕ならば、「実験できるか、できないか」が、最も関心事になります。あくまで僕にとってはですけれども。

  ・
  ・
  ・

 とまぁ、最初に戻りますと、学生さんには、こんなことをお応えするのですが、たいていの場合、ポカンとして、「こいつに聴いたのが間違いだったわ」という顔をなさいます。だから、嫌だったんだ(笑)。だから、最初に「僕の話なんか聴いても一銭の得にもならないけどいいの?」とお断りしたのですが(笑)。

 ▼

 そこは、実験できるか、できないか(Do Experiments? or not)

  言葉を換えるならば

 そこは、能力が伸びる環境なのか、どうか
 将来に関する「資本」を得られる場所なのかどうか

 他人のことはわかりませんが、僕にとっては、非常に大切な価値です。

 そして人生は続く

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追伸.
関連するブログ、こんな記事も書きました。こうしてみると、同じようなことを言葉をかえて言っていますね。

「何かに挑戦している大人」と「何をやってもつまらなそうな大人」 : 「素朴概念」と「組織の枠」をはずして考える
http://www.nakahara-lab.net/blog/2013/03/post_1969.html

経験獲得競争社会を生きる!? : 資源化・資本化する直接経験!?
http://www.nakahara-lab.net/blog/2013/04/post_1995.html

ともすれば忘れがちな「実験マインド」を思い出す - 皆さん、最近「実験」してますか?

http://www.nakahara-lab.net/blog/2012/10/post_1886.html

投稿者 jun : 2013年5月 2日 06:23


リアルタイムニュースペーパー : イベント終了と同時に「新聞」の即時配付?:対話を促す新たな「お土産ツール」

 先日4月26日、経営学習研究所のラーニングイベント「多様な社員を講師に育てる」が開催されました。イベント自体には230名弱の方々がご参加下さり、非常に盛況をなか、無事終えることができました。心より感謝いたします。
 
 本当の開催報告記事は、写真ができあがってからと、改めて執筆させていただきたい思っておりますが、今日は、少しマニアックなネタです。
 今回のイベントでは、経営学習研究所・研究員の松浦さんが、新たな試みにチャレンジなさいました。その試みをご紹介させていただきます。すでに松浦さんが、企画の詳細、新聞記事の作り方につきましては、ブログをお書きになっているので、そちらを把握なさりたい方は、下記のブログをご覧下さい。
 ともかく、松浦さんには、今回のイベントにからみ、事務局として働くだけではなく「世界初の試み」を企画して頂けるよう、御願いしました。
 「世界初」です。
 真に受けないで下さいね、でも、大切なことなんです。そういう気概をもって、自ら仕事をつくることは。「こなせる仕事」に甘んじない、ということは。

Rie Cafe : 松浦李恵さんのブログ
http://riecafe.com/blog/2013/04/post.html

 企画の趣旨をざっくり述べますと、松浦さんらのチャレンジは、イベント終了時に

 Real Time News Paper(RTP)「経営学習新聞」

 を即時発行・配付することでした。

 詳しい説明をするまでもなく、下記をご覧下さい。

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 もうおわかりいただけますね(笑)。
 いわゆる「お土産ツール」です。

「その日、当日の、今まさに進行していた内容が、新聞記事になって、お持ち帰りいただける」という仕組みです。

 企画は松浦さん、岡部先生が、進めて下さいました。このニュースペーパーは、講演やディスカッションが進行中に、一番後にいる大学院生らが、松浦さんのディレクションのもと、記事を執筆なさったようです。その後、日立ソリューションズさまのご厚意を得て、即時印刷したそうです。ありがとうございます。

 配付直後、相当、参加者の皆さんは驚いたのか、一時、会場は「騒然」となりました。リアルタイムムービーとか、リフレクションムービーは、いまや結婚式の定番ですし、あまり驚かないのだけれども、「まさか新聞とはね!」という感じだと思います。
 また印象的だったのは、登壇者の方々が非常に喜んでおられたようにお見受けできたことです。自分のプレゼンした様子が、新聞記事になっているのは、興味深いことですね。

「経営学習新聞」は「本物の新聞」を「パロディ」にしている面白さもあると思います。松浦さんには「パロディをやるのなら、なるべく精巧に凝った方がいい」と事前にコメントをさせていただきました。パロディとは「偽物」ではだめなのです。精巧に、緻密に、1ミリでも本物に近づいた方がいい。それゆえに、パロディが成立します。

 僕個人としてもっとも面白かったのは、1人につき2部ずつ配付され、1部は自分のために、1部は会社の他の人にわたしてください、という松浦さんのインストラクションです。新聞配付時に行われました。
「新聞記事をネタに、後日の対話を促す」というところが、非常に興味深いことでした。「実物のお土産ツール」の強さが、ここにあるような気がします。

 経営学習研究所では、このように、様々な新しい企画・ツールの開発に、研究員みなで今後も取り組んでいきたいと考えています。浮いたお金は、すべて研究開発ないしは未来に投資する。宵越しの金は持たない。経営・組織・学習の業界のR&Dを徹底的に行う。ひいては、日本を「学習立国」にする。それが、経営学習研究所です。このたびは、本当に松浦さん、岡部先生、ありがとうございました。

Rie Cafe : 松浦李恵さんのブログ
http://riecafe.com/blog/2013/04/post.html

 最後になりますが、先日4月26日、ご登壇いただきました、ソフトバンクモバイルの大内さん、大内さん、島村さん、海上さん、共催頂きました日立ソリューションズの小嶋さま、平山さま、畑野さま、今回素晴らしいご縁をいただきました村岸さま、ありがとうございました。重ねて御礼を申し上げます。本番の開催報告は、写真が届き次第、また書かせて頂きます。

 そして人生は続く

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追伸.
 会場の都合で、こちらのイベントも〆切直前です。新たなイベントとしては、5月9日 15時から「マネジャー支援を考えるワークショップ」で、中原、ファシリテータをつとめさせていただきます(JPCさん主催)。ふるってご参加いただけますと幸いです。

Management Discovery(PDF書類)
http://seminar.jpc-net.jp/detail/mdd/seminar006828/attached.pdf

投稿者 jun : 2013年5月 1日 06:34