社会人が大学院で学ぶということ:「身につける系の学び」と「整理・再定義・解体系の学び」
中原研には、いったん社会に出て大学院にこられたり、働きながら学ぶことをめざす、いわゆる「社会人大学院生」の方々もいらっしゃいます。
ストレートに大学院に来る学生には、その強みがあり、一方、社会で揉まれた経験を有する大学院生にも、その強みがあります。どちらがどうこう、という価値判断は、僕には1ミリもありません。ただ目の前に、大学院生がひとりいらっしゃるだけです。多種多様な方々が、研究室に入って、学ばれるといいな、と思っています。
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ところで、社会人が大学院に来て学ぶ、ということは、一般には、「知識・専門性を身につける」「研究の方法論・問題解決の方法を身につける」と考えられがちです。
ですが、少なくとも僕の研究分野の場合、経験上、大学院で学ぶということは「身につける系」だけではすみません(今日の記事では、敢えてメタフォリカルに、学びを二つにわけて考えましょう)。
もちろん、入学なさったあとは、膨大な文献を読むことが求められますし、統計などもガシガシ学んで頂きます。「身につける系」は、たしかに大切ですが、それはミニマムです。
しかし、一方で、大学院で学ぶことは、
「知識や技法が増えて、頭よくなって、よかったね!」
ではすまないのです。
「身につける系」も大切なのですが、一方で「整理・再定義・解体系の学び」の方のポーションも少なくありません。
ひとつひとつの言葉、概念を学び、再定義することを通して、これまでの経験を整理していくことが求められます。自分の価値観や思考パターン、経験などを「解体」してしまうことも求められる場合があります。これらひとつひとつが、「カルチャーショック」のもとです。
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どういうことかと申しますと、たとえば、語の使い方からいっても「シャバの世界(!?)」と「アカデミックな世界」では、用法が異なります。
例えば、「仮説」という言葉の使い方。
アカデミックな世界から見ると、シャバで用いられている「仮説」ということばの用法とは「自分が進もうと思っている方向性」という意味で用いられることが多いように感じます。
しかし、アカデミックな世界での仮説とは「真偽が判定可能な命題」です。仮説とは、正しいか、正しくないかが、根拠をもって判定可能であるくらいのフォーカスが必要であり、「一寸の曖昧さ」「言いよどみ」を残すものであってはなりません。
この種の言葉の違いなら、いくらでもあげることができます。
主観的とは何か?
客観的とは何か?
検証とは何か?
これらひとつひとつの言葉の意味を整理し、再定義を行い、時には整理をすることができます。
僕はもちろんですが、そういう概念レベルのトレーニングについては、研究室の、おそらくは年下の学生から指摘されます。なかなかショッキングな出来事です。
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「言葉の整理」は、僕の研究分野の場合、「経験の整理や解体」につながります。
実務の世界で自分が行った様々な経験が、理論的にはどう考えうるのか、学問の世界では、どう捉えられるのか。それらひとつひとつを整理し、再定義していくことが求められます。
時には、「自分しかしていないと思っていた経験」や「自分が重要だと思っていた経験」も、学術的には「言い古されたこと」ないしは「先行研究の手垢にまみれた常識」であり、「研究としては価値がない・意味がない」とラヴェリングをされることもあります。
自分が大切だと思っていた価値観や考え方や経験を「学び捨てること」が求められることもあります。
要するに何が言いたいか、というと、「整理・再定義・解体系」とかきますと、非常にニュートラルに耳障りよく聞こえますが、それは「まことにシンドイこと」であります。
あまりの「異化」作用!
そのことの違和感やカルチャーショックに、耳を背けてしまうといったことも、おきないわけではありません。経験上、すべての社会人経験者の方が、どこかのタイミングで、悩み、一時期は、ふさぎ込んでしまいます。
もちろん、受け入れるこちら側も、そういう瞬間が、いつかくることは、ある程度はわかっていますので、いくつかのセーフティネットを張ってお待ちしております。社会人経験者が大学院に入ってくるときに行う、僕の予期的社会化戦術は、また別の機会にお話をしましょう。
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このように、少なくとも僕の領域に関しては、大学院での学びは「身につける系」だけではすみません。もう少し深い思考レベルの変化をともなう可能性もあります。
しかし、僕個人としては、だからこそ、大学院は、他の社会人教育施設とは異なった存在意義(レゾンデートル)があるのだと思っています(どちらがいいとか悪いとかの問題ではありません)。
「短期的に知識や技法身につける」のではなく、「比較的長期にわたって、整理し、再定義をする。フォーカスをしぼり、不必要なロジックを解体する」。その上で、誰もが経験したことのない領域について自分なりの仮説をかかげ「探究」を行う。
万人受けはしませんし、する必要もないのだと思います。しかし、そういうニッチな学びを志したい方に大学院は、向いているような気がします。
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今年ももう年度末。
来年になれば、新たに学生が、教室に集まります。
整理、再定義、解体、そして探究。
「例年のサイクル」が、またはじまります。
そして人生は続く
投稿者 jun : 2013年3月12日 06:07