プレゼンテーションとは「対話」であり「贈り物」である:あなたの頭には、あなたに「問いかけ」てくる「仮想の聞き手」がいらっしゃいますか? - 「聞き手の問い」でスライドをつなぐ
僕の専門分野の研究者にとって、「プレゼンテーション」は、今や、研究活動と「切っては切れない要素」になりつつあるような気がします(これは分野によって、状況は異なるでしょう。分野や研究志向性によっては、あてはまらないこともあるでしょう)。
僕の研究分野の場合、企業や組織で働く人々と「よいリレーション」を築き、そこで働く人々の「データ」を取得させて頂かなければ、そもそも研究はできません。そして「データ取得」とは、現場の方々にとって、まずは「コスト」です。「コスト」に見合う分だけの「何か」を僕たちが提示しなければ、話は前に一切進みません。
「現場の方々の問題関心」と「自分の研究」の「すりあわせ」を行い、データを取得させて頂く交渉を行うことが、まず第一歩です。
その上で、分析を行い、研究知見を論文や書籍のかたちで公的に「Publish」していくと同時に、「現場」にもデータを「お返し」することが、多くの場合求められます。
「データの活用のされ方」は様々です。経営陣や経営企画に資するかたちでお返しする場合もありますし、現場の方々に、研修場面などで直接お返しする場合もあります。
いずれにしても、現場の方々は、提示されたデータをもとに、実践の振り返り(内省)を行ったり、計画を立てたり、何かの改善を行ったりなさることがほとんどです。つまり、そのあとには「アクション」が想定されている。
つまり、僕たちの研究分野の場合、研究と現場のあいだには、そもそも「リレーション回路」が存在していなければなりません。そして、その「回路」をつくりだすうえで、いろいろな局面で、行わなければならないのが、「プレゼンテーション」です。
「よいリレーション」を築くため、また「研究知見を現場にお返しする」ために、さらには「現場の方々の内省と行動を促すため」に、いかに「現場の方々」にわかりやすく、しかし、「ウソ・脚色のないプレゼンテーション」を行うか。そして、いかに「アクション」を促すか。これが、僕の研究分野にかせられた「最大にチャレンジングな課題」です。
かくして、僕の場合、「プレゼンテーション」は、おそらく年に数十本単位で行うことになります。
年度末は、研究業績発表やら、次年度の企画などがでてきますので、どうしても、その機会が多くなる傾向があります。現在、その「真っ最中」「渦中」で、年をあけてから、ひたすらプレゼンテーションを作り続けているような気がします。
ひーこら、ひーこら
エンヤコーラ、エンヤコーラ
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僕がプレゼンを作成するとき、心がけていることは、たくさんあります。それらをひとつずつ列挙してもよいのですが、紙幅といいましょうか、時間の都合で、それはやめましょう(笑)。というより、そんなものを全部聞いたって、腹がふくれるわけではありません。
しかし、「最も心がけていることは何ですか?」と問われれば、ひと言で申し上げることができます。
それは
プレゼンテーションとは「対話」であり「贈り物」である
ということに尽きます。
前者も、後者も、プレゼンの教科書・参考書、プレゼントレーニングの研修などで、ごくたまに目にしますが、このことを、本当に実感します。
少なくとも僕の研究領域においては、現場の方々に対して行うプレゼンは「情報提示」ではありませんし、ましてや「説明」でも「発表」ではありません。
もちろん研究者ですので、そうしたことも学会活動などでは行いますが、こと「現場と研究の関係」において、それはそのまま成り立ちません。ソレとコレとは、僕の場合、明確にわけて行っています。
ここの認識を「転換」していくことが、たとえば、僕が、中原研究室の大学院生に求めていることであり、自分自身もいつも心がけていることです。そして、それは最大の難問(アポリア)でもあります。いまだ僕も「修行中」です。
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プレゼンテーションとは「対話」であり「贈り物」である
という認識を強くしていることには、それなりの理由があります。
それは、なぜかといいますと、それは先にも述べたとおり、もっとも根幹には、僕たちが行うプレゼンテーションの多くは、「聞き手になってくださる方々のアクションを促すこと」を目指す必要があるからです。
つまり、プレゼンで、現場の方々にまずは「内容が理解」され、そこで「提示した情報」をきっかけとして、何かを「やってみよう」という思いになっていただければならないわけです。
具体的には、「たとえば、共同研究を研究者と一緒にはじめてみよう」でも結構ですし、研究知見をお返しした場合には、「現場や実践の改善につながるよう、重い腰をあげてみよう」でもかまいません。
いずれにしても、お聞き頂いた方々に、何らかの「行動上の変化」「認識上の変化」を生み出さなければならないわけです。ただ「説明」を聞いて頂くというわけにはいかないことが多いのです。
ということは、「話し手」は、「提示した情報」に対して、聞き手がもつような「疑問」や「感想」を「想定」して、プレゼンを組み立て、それらをひとつずつ「解きほぐし」、場合によっては「誤解を解き」、現場の方々に、趣旨をよく「理解」していただく必要があります。さらには、その果てには「アクション」を導くことが求められます。
ですので、僕はプレゼンをつくるとき、いつも3つの「問い」を頭に置きます。
ひとつめ「僕が、この情報を提示したら、現場のどういう人に"刺さる"だろうか?」
現場の人とて「一様」ではありません。「会場の聞き手」には、様々な人々がいます。一般社員の方もいらっしゃるし、マネジャーもいらっしゃる。自分の「聞き手」をきちんと決めることは、プレゼンテーション作成の根幹です。聞き手が「のっぺらぼー」では「対話」を行うことはできません。
僕が講演をご依頼いただいた方はたぶんおわかりだと思うのですが(講演は月1に決めていますので、ほとんどお応えできていません・・・すみません)、僕が、事前の打ち合わせでもっともこだわっているのは、「参加者を知ること」です。性別、ポジションはもちろんのこと、経験、彼らの思い、通常の業務のこと、そうしたことを根掘り葉掘りお聞きすることが多いのは、その理由です。
ふたつめ「僕が、この情報を提示したら、その人は"具体的にどういう疑問"をお持ちになるだろうか?」「どういう"問いかけ"を、"話し手である僕"に投げかけてくるだろうか?」
最後にみっつめ「現場の方々の、生じた疑問に対して、次に、僕が、どのように"次の情報"を提示すれば、「聞き手」と「話し手」とのあいだに、いわゆる"対話"的関係、別の言葉でいうならば"情報のキャッチボール"が成立するだろうか?」
ふたつめとみっつめは、「プレゼンとは対話である」という命題の根幹です。
プレゼンをつくっているときに、いつも僕は、あたまの中で、「仮想の聞き手」を仮想し、彼らと話しています・・・ブツブツと(横でみている方がいらっしゃったとしたら、たぶん、気持ち悪いでしょう、笑い)。その上で、「仮想の聞き手」の「問いかけ」を想起し、それを用いて、「前後のスライド」をつないでいきます。
「そうはいいますけどね、と。・・・僕がこういえば、こういう疑問をお持ちの方もいらっしゃるんじゃないですか?」
「だよね、そうだよねって思いません?このことって、皆さんがすでに感じていたことですよね」
僕のプレゼンの中で、これらのセンテンス - すなわち「聞き手による"仮想の問い"を用いたスライド間の接続」が多いのは、そういう理由です。ひと言で申しますと、スライドとスライドのあいだをつなぐのは「聞き手の問い」であるということですね。
以上、これら3つがいつも留意していることです。
プレゼンテーションを作成するときというのは、自分の頭の中に「聞き手」をクリアに想定し、彼がもつ疑問や感想を「想像」し、それに対する答えを、次のスライドで提示する。そうしたことの繰り返しが、プレゼンのストーリーを構成します。
かくして、ひとつひとつ現場の方々の思う疑問に答えていく。そして、「アクション」を促す「きっかけ」をつくる。
先に、プレゼンテーションが「対話」であるのと同時に、「贈り物」だと述べたのは、こと僕等の研究分野に関する「アクションにつながるきっかけ」を、「聞き手」に「手渡していく作業」でもあるからです。
いみじくも、プレゼンテーション(Presentation)の語源は、Present(贈り物)です。この語源は、大切にしたいものですね。
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今日は、プレゼンテーションのお話になりました。かくいう僕も、まだまだ「修行中」で、かなり「ヘタッピ」なのですが、こういうのは「場数」も大切だと思っています。中には、「思い出したくないような経験」や「失敗」もある。かくいう僕も、そういう「痛い経験」を何度も繰り返してきました。
うまい人のプレゼンビデオは、今も、よく見ます。夜な夜な、チビチビとオチャケを飲みつつ、観察し、模倣し、日夜、修行に励んでいる最中です。
僕は「プレゼン教育」や「情報教育」の専門家ではないので、その筋の専門的内容はわかりませんが、いつも考えていることは、こんなところです。
あなたは、「仮想の聞き手」と、どんな「対話」をなさっていますか?
あなたは、プレゼンテーションで、どんな「贈り物」を、「誰」に届けていらっしゃいますか?
そして人生は続く。
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【関連する過去記事】
■人の前で話すコツ?
http://www.nakahara-lab.net/blog/2006/11/post_666.html
■プレゼンやファシリテーションをどうやって学んだのか?
http://www.nakahara-lab.net/blog/2009/11/post_1606.html
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追伸.
上記の文章の「プレゼンテーション」を「教えること」に置き換えてみてください。そうしても、すべてではないにせよ、意味が通じるところの方が多いことに気づかされます。
「教えることとは、対話であり、贈り物である」というのは、小生の持論です。そして、「プレゼンテーション」ないしは「教えること」とは、聞き手を「変化=学び」に「誘うこと」です。ですので、プレゼンテーションとは「学びを促すこと」でもある、と僕は思っています。
僕の中では、「教えること」も「プレゼンテーション」も「学び」も、すべて「世界がつながって」いるように感じます。しかし一般には、「教えること」は「教授学」、「プレゼンテーション」は「プレゼンテーション教育」か「情報教育」、「学び」は「学習研究」という風にわけて捉えられ、それぞれに実践され、研究されています。究極、3つの領域は「同じこと」を言っているのにな、とよく思います。
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追伸2.
プレゼンテーションは「対話」であるということを喝破し、その作成をマンガ表現を用いて支援しようとする、とてもインサイトにとむ先行研究に、下記があります。興味深いことです。
鈴木栄幸・加藤浩 (2008)「社会的ネットワーキングに着目したプレゼンテーション教育手法『マンガ表現法』の提案」科学教育研究32(3),pp196-215
投稿者 jun : 2013年1月17日 11:20