支援すること考:支援することの難しさ
最近、故あって、「支援」ということを考えさせられます。なんてことはない、今、書いている原稿の一部で、「支援」がでてくるからですね(笑)。「意味深」なことなんて、僕にはないのよ。単にそれだけ。原稿書いてるから、考えざるをえないだけです。
いやー、支援ね・・・。
つくづく思うのは、「支援することって、難しいよなー」ということですね。いやー、原稿を書きながら、僕は、しみじみと思ってしまうんですね。いやー、難しい。
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小橋(2000)によると、「支援」とは下記のように定義されます。
「支援とは、何らかの意図をもった他者の行為に対する働きかけであり、その意図を理解しつつ、行為の質を維持・改善する一連のアクションのことをいい、最終的な他者のエンパワーメントをはかることである」
なるほど。非常にわかりやすい、素晴らしい定義ですね。そして、この数行には、既に「支援することの難しさ」が凝縮されているように感じます。以下では、それを書いてみましょうか。
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第一に「何らかの意図をもった他者」というところ。
支援が「何らかの意図をもった他者に対する働きかけ」であるとするならば、大前提になるのは、支援する側は「他者が有する何らかの意図」を「把握」する必要があるということです。でも、これ、サラッと言いますが、とても難しいことだと思いませんか。
だって、他者が「自分の意図」を把握していない場合だってありうるわけですよね。特に若年であればそうですよね。
「オレ、何していいか、わかんないっす、よろしくっす」
みたいな人、いそうですよね。
でも、意図を理解しないことには支援にはならない。ということは、そういう状態でも、支援するということは、「他者の意図」を「共同構築」「共同探索」するということと同義になりますよね・・・うーん、気が遠くなる。
こんな場合もありうるでしょう。相手は確かに「意図」をもっている。でも、その「意図」が「誰の目」から見ても、イケてない。耳にしたとたん「ピキー」と秘孔をつかれたような気持ちになってしまうくらい、イケてない「他者の意図」をどうしたらよいのか。
つまり、「あなたが一応は理解した他者の意図」が、あなたから見て「腹落ち」するかどうかは別問題なのです。
「他者の意図」が、たとえば、下記のようだったら、あなたは、どうしますか。
「おいおい、おまえ、その意図はないだろ、単なるエゴじゃねーの」
「おいおい、そりゃ、その意図は時代遅れだよ、そのままいったら、あんたやばいよ」
他者のもつ意図が、そんな意図だった場合に、それを曲げることを「支援」とよぶのか、それとも、あくまで「意図」にそったかたちで支援を行うことをよし、とするのか・・・皆さんだったら、どっちをとりますか?
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次に「最終的な他者のエンパワーメントをはかる」の部分。
これは、結局は、「他者が最終的には元気をもらって独り立ちすること」が重要だよ、ということなんでしょうか。
でも、少し考えたらわかると思うんですが、これは難しいですよ。
第一に、どのタイミングでいかに支援解除したらよいのか、わからない。
いつも僕が思うことなのですが、「支援の難しさ」は「いつどうやって支援するか」に加えて「どのタイミングでいかに支援解除するか」にあるように思うんです。
かつて、Kram(1988)は、それを「分離」と表現しました。分離が成功しなければ、支援者と被支援者の両者に、「気まずさ」が残りますし、支援される側も円滑な発達をとげられないといったことが起こりがちだそうです。
いや、むしろ支援の解除、分離のときには、支援者 - 被支援者間に葛藤、否定的感情が、必然的に生じるものなのかもしれません。あんまりネガティヴなのはイヤですけど(笑)、やむを得ないし、むしろ、そうでなければ困るのかもしれないですよね。
あとは、誰も言わないと思いますが、支援して独り立ちされてしまったら、「支援してきた側」としては、喪失感を感じませんでしょうか。
つまり、うがった見方をすれば「支援を解除する」とは、「自分のコントロールできる人的資源をひとり失ってしまうこと」を意味するのです。
支援関係という名のもとに「自分の仕事を助けてくれていた人」がこれまでいたとしたら、独り立ちされてしまうと、その労働力をまるごと失います。こりゃ、キツイわな。
僕も含めて、あなたも、みんな弱い人間です。
願わくば、「今まで支援した分、自分の仕事を助けて欲しい」と思うのが「人情」というものではないでしょうか(笑)。
つまり、「支援を解除せず、自分に依存してくれたままの方が、自分のためにはいいんだけどなー」と思っちゃうようなことが、ないわけではない、ということです。
「あなたの成長のためなんだから、これ、大変だと思うけど、やっといて。いや、もちろん、君の成長のためを思って、僕は言っているんだよ・・・」
という名の労働力の搾取、あるいは、象徴的暴力が、発達支援関係には作動する可能性はゼロではありません。そして、支援を解除するとは、そういう「労働力搾取をやめること」でもあるのです。
支援する側に余裕がない場合は、そういう場合は、もしかすると、「支援解除をしない」という合理的な選択をするのかもしれない。もちろん、それでは、最後まで、支援された側は、独り立ちはできませんけれども。
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支援することに関して、僕が思ったのは、こんなところです。いずれにしても、今後の職場における上司 - 部下関係を考える上で、「支援」はひとつのキーワードになりますね。エドガー・シャインさん(MIT)の翻訳本も、大変注目されているようです。
皆さん、どう思いますか?
嗚呼、支援は難しい。
投稿者 jun : 2010年2月 1日 11:15