研究室をいきいきさせる!?シンポジウム

 「いきいき研究室増産プロジェクト」という団体があります。岡本絵莉さん、宮野公樹先生など、京都大学の方々(岡本さんは、現・東京大学大学院在学)が中心になってすすめているプロジェクトです。活動の目的は「国に『いきいき』した研究室を増やすこと」です。

いきいき研究室増産プロジェクト
http://www.ikiiki-lab.org/

 この団体が中心になって、東京大学で、「研究推進と人材育成のポジティブな関係を考えるフォーラム」が開催されます。

研究推進と人材育成のポジティブな関係を考えるフォーラム
http://bit.ly/dbfKiS

 大学の主要な機能は、教育、研究です。そのうち、教育に関してはFDという活動がありますが、後者の活性化に関しては、あまり組織的な取り組みは少なかったように思います。
 研究室の運営が研究室外に閉じられており、そこを運営する主体は「一国一城の主」のようなメタファで語られる傾向があったからです。

 しかし、研究成果があがっている研究室と、そうでない研究室は歴然と存在します。そして、自戒をこめていいますが、研究室を運営するとは、非常に難しいことです。研究室を運営していると、いろいろなことが起こります。中には、悩みを抱えてしまう人もいないわけではないと思います。

 このフォーラムは、非常に面白い活動であると思いますし、社会的意義が高いと思います。
参加者は「理工系分野の大学教員60名」に限定されているようですが、オブザーブ席もあるようです。

研究推進と人材育成のポジティブな関係を考えるフォーラム
http://bit.ly/dbfKiS

投稿者 jun : 2010年2月28日 17:51


ウェブマガジン『ACROSS』に「サードプレイスコレクション2010」が掲載されました!

 株式会社PARCOが運営しているウェブマガジン『ACROSS』に、先日、ワークショップ部の舘野君、牧村さん、安齋君がディレクションを行った「サードプレイスコレクション2010」の取材記事が掲載されたそうです。おめでとう>ALL

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サードプレイスコレクション2010 : ACROSS取材記事
http://www.web-across.com/todays/cnsa9a000005002s.html

ワークショップ部(詳細な報告があります!)
http://utworkshop.jimdo.com/

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 ACROSSとは、東京のモードやファッション、クリエィションを定点観測しているチームとして有名ですよね。ACROSSはこんなメディアだそうです。

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■『ACROSS(アクロス)』は、1977年以来、東京の若者とファッションを観察・分析する研究チームが作成するメディアです。

■コンセプトは「ストリートファッション・マーケティング」。常に生活者、なかでも若者のリアルな姿を捉えることにこだわり、「ひと」×「モノ」×「街・場所」を複眼的に観察・分析しています。

■ターゲットは、東京のリアルなトレンドが知りたい「カルチャー・クリエイテイブ」な人たち。

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 ありがたいことですね。また嬉しいことですね。
 皆さん、ぜひ、ご覧いただければと思います。
 もちろん、様々な今後の課題を残した会でもありましたが、僕個人としては大きな可能性や手応えも感じました。

サードプレイスコレクション2010:中原のリフレクション
http://www.nakahara-lab.net/blog/2010/02/2010_4.html

   ▼

 ともかく、、、これからは「人」が、何人たりとも妨げることのできぬ「人間の学び」が、時代をつくります。
 そして、それをけん引していくのは、彼らのような世代だと僕は思っています。

   ▼

 Learning innovatorよ、街に出よ。
 志あるLearnerたちよ、街に出て、ともに笑おう。
 そうだ、君らが時代!、我らが時代!

サードプレイスコレクション2010
http://www.web-across.com/todays/cnsa9a000005002s.html

投稿者 jun : 2010年2月26日 22:34


きれいな満月は見逃さなくなった

 Twitter上の @maname さんの一言が印象的だ。Twitterを語るどんな書籍よりも、それは一言で本質を表現しているな、と思った。

  ▼

私が今まで見た中で一番好きなPostは、

「Twitterの何が面白いの?」
「面白いかどうかはさておき、きれいな満月は見逃さなくなった」

ですね。

Twitterらしさを最も的確に表現していると思う。

  ▼

 140字は饒舌である。

投稿者 jun : 2010年2月26日 07:44


東大ナビ:日々を知的に、愉しく、面白く!:学問・社会の最先端を、あなたの携帯電話とTwitterで!

 東京大学では、皆さんのお手持ちの携帯電話に、学内で開催されるイベント情報を無料メルマガとして配信するサービス「東大ナビ」を一昨年より実施しています。

 メールマガジンに登録するには、お手持ちの携帯電話から、mail@utnav.jpに空メールを送信して下さい。すると登録方法が書かれたメールが返ってきます。登録は一瞬です。

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東大ナビ:学問と社会の最先端を、あなたの携帯電話に!
http://utnav.jp

 実は、東大では、毎日、たくさんの学術イベント、産学イベントが開催されているのですね。国連事務総長が来訪したり、国務長官ヒラリーがきたり、ノーベル賞級の研究者が講演を行ったり、産業界や官のトップが講演を行ったりしています。
 こうした情報は、これまで学内に張られているポスターで広報を行っていました。でも、それでは限られた人の目にしか触れられません! これは、非常にもったいない!!

 ということで、この情報をお手持ちの携帯電話に隔週で、無料で配信しています。イノベーションの「種」をみつけに、あるいは、日々の乾いた心をリフレッシュしに、東京大学にいらっしゃいませんか? メルマガへのご登録は簡単。まずは、お手持ちの携帯電話から、mail@utnav.jpに空メールを送信してください。

 東大ナビは、いまや、4月の登録時期には新入生の7割が加入しているサービスです。学外の方も、どなたでも無料でご登録数多くご登録いただいております。「学問や社会の最先端」がわかります。就職のことなどなど、東大生が運営している様々な企画もご覧いただけます。

   ▼

 で、実は、この東大ナビに、Twitterアカウントができました。東京大学教育企画室として公式のアカウントになります。こちらの方でも、今後、東大ナビと同じようにイベント情報を配信していきますので、ぜひ、ご登録のほどをお願いいたします。

東大ナビ on Twitter(@Todai_Navi)
http://twitter.com/Todai_Navi

 東大ナビは、産官学、様々な人々が出会い、「縁」をむすぶ機会を提供したいと願っています。様々な人々が、コミュニケーションの中から、新しい価値を生み出す「場」として、社会に貢献できることを願っています!

 ぜひ、ご登録をご検討いただけますよう、お願いいたします。

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追伸.
 本サービスは、僕の所属する東京大学 大学総合教育研究センターが企画し、教育企画室のもと実施しているサービスです。

東京大学 大学総合教育研究センター
http://www.he.u-tokyo.ac.jp/

 本サービスのディレクションを担当しているのは、東京大学 大学総合教育研究センター 重田勝介助教です。彼は、フルブライト奨学金を得て、今年、UCバークリーに留学中ですが、ITを駆使して、海外からこのプロジェクトをリードしています。

重田勝介ブログ
http://jamsquare.org/shige/

重田勝介 on Twitter (@shigejam)
http://twitter.com/shigejam

 ぜひ、東大ナビ東大ナビ on Twitterをよろしくお願いいたします!
 
 日々を、知的に、愉しく、面白く!

投稿者 jun : 2010年2月26日 00:33


最近、OJT(On the job training)が機能しないのはなぜか?

 これまでにも、僕は、このブログでOJT(On the job training)のことを、いろいろな角度からお話ししてきました。お話してきたというか、なんとなく、ぼやいてきた(笑)。ちゃんとお話はしてないねー、いつもだけどねー。思ったことを思ったままに口にしてきました。
 で、今日は、OJTに関して、巷でよく聞かれる、この台詞について、検討してみることにしましょう。

 その台詞とは、

「昔はきちんとOJTが意図的に設計されていたのに、最近、それが機能しなくなってきたよねー」

 というこれです、おくさん、ちょっと聞いて。
 この台詞、皆さんも、きっと、これまで、様々な場所で、耳にしたことがあるのではないでしょうか。

 経験的には、上記の「OJT機能不全の嘆き節」は、主に、人材育成の担当者の方、ラインのマネジャーの方から発せられることが多いような気がします。
 しかし、それが「なぜか」は、あまり語られることがありません、奇妙なことに、不思議なことに。
 OJT指南書と言われる本には、グローバル化だのなんだの、成果主義が何だのかんだの、もっともらしい「枕詞」がならび、ごにょごにょごにょと、その理由については、お茶を濁されます(笑)。
 今日は、この問題について、考えてみましょう。ベースになるフレームワークは、一部、加登(2008)を参考にしています。適宜、それを引用しつつ、議論をすすめましょう。

  ▼

 結論を一言でいうと、日本の企業におけるOJTとは、

「OJTとは直接関係がないさまざまな諸条件が重なって、たまたま、うまくいっていただけで、そこには、意図的な設計はなかったのではないかな」

 ということです。
 つまり、OJTがうまく機能する条件がたまたまそろっていた。そういっちゃ、身もふたもないのですが、僕は、そう思うんですね。悪いんだけど。

 その諸条件は何か、というと下記のとおりです。

1)職場が村落共同体を継承していたこと
2)終身雇用が存在しており、長期間の雇用が可能だったこと
3)職能制度賃金の報償システムによって右肩上がりの収入が確保されており、モティベーションを確保することが容易だったこと
4)しかも、継承するべき技術が、世の中の環境変化に対して比較的ロバストなものだったこと
5)何よりも、OJTという概念が曖昧で、ともすれば、職場で起こる教育的活動に、容易にOJTというラベリングがなされがちであったこと

 これらの諸条件が、「意図せざる整合性(加登 2008)」を発揮し、結果として、「OJTが機能していたと、みんなが、認知できる状態を生み出していた」ということです。
 重要なことは、会社がOJTを意図的に設計したというのではなく、むしろ、「結果としてなぜかうまく回っていた、と見えていた」ということですね。

  ▼

 要するにこういうことです。

 まず、日本企業のOJTということになりますと、なんといっても、高度経済成長期の製造業です。当時、地方にある工場では、村落共同体の人員構成員が、そのまま工場の職場構成員になるような事態がまま見受けられました。要するに、上司も村の人なら、部下も村の若い衆。職場がそのまま村落共同体を意味していたところが少なくなかったのです。
(こうやって製造業に話を限定すると、サービス業のホワイトカラーにはOJTは機能していたのか、という問題は残ります。ちなみに数少ないOJT研究の中心は、そのほとんどがブルーカラー、製造業のそれです)

 すると、どういうことがおこるか。つまり、「村」の共同体の構成原理が職場にそのまま引き継がれることになります。会社側が、「OJTを設計する明確な意図」をもたなくても、その共同体の仕組みや原理を職場に引き継ぐことができた、ということですね。

 正統的周辺参加や実践共同体の議論にもあるように、共同体には古参者がいて、そこに中堅の人や、新参者がいます。そして、新参者が共同体に参入してくるときには、彼がいつの日か共同体の中心的メンバーになりうるように、適切な仕事が配分されますし、適切なメンタリングが実行されます。

 既に機能している共同体には、新人を育成する様々な「仕掛け」が暗黙のうちにビルトインされています。
 新参者の引き起こすエラーが局所的なエラーに限局され、全体の活動がブレークダウンしないような仕事の割り振り、そして、彼に対するサポートの仕組みが、暗黙のうちにビルトインされているのです。そして、そこに参加することをとおして、つまりは、共同体が用意した「熟達化のための道筋」を、当たり前のようにたどることで、新参者は古参者に向けての熟達化を果たします。
 会社は、この「共同体の原理」を、なかば、そのまま「ごっそり輸入すること(ペチること)」で、これを利用して、熟達化を促すことができました。

 しかし、単に村落共同体の仕組みを継承するだけでは、新参者が熟達者になることを促すことは不可能です。
 ここには、2つの条件が揃うことが重要です。それが、長期間の熟達期間を確保することと、新参者のモティベーションを確保することです。

 つまりこういうことですね、
 誤解を恐れずはっきりいいますが、わたしの認識に関する限り、

 「OJTというのは、トレーニングではなく、仕事そのもの」

 です。
 それが証拠に、「あとはOJTで!」と現場の人がいわれたときには、それは「あとは適当に仕事をさせときゃいいのね」と真っ先に思うはずです。

 ただし、それが「教育的機能を発揮する一瞬」というのがあります。それは、新参者が仕事をする中で、試行錯誤したり、危なっかしい瞬間があったとき、あるいは失敗をしたとき、その「一瞬」です。そういうときこそ、「教えがもっとも効果を発揮する一瞬」ですね。これをPedagogical moment(教育的瞬間)といったりします。中にはTeachable moment(教授可能な瞬間)という場合もあるようです。

 学びとは、つねに、in situ、つまりは状況に埋め込まれて生起するものです。要するに、その瞬間に、上位者は、「どれどれ、あー、やらかしちゃったのね、あんたのやらかした、これはこういうことなんだよ」と指導をしたりすることができるのですね。

 この仕組み、非常にドラマティックに見えますけど、実は、教育の視点からいうと、これはものすごく効率の悪い仕組みです。効率が悪いとは言い過ぎかもしれません。むしろ、熟達までにひじょうに長い時間がかかるということです。それを効率悪いっていうんだよな、、、いいのか、それで(笑)。

 ある一定の職務遂行能力を学習者が獲得するためには、Pedagogical Momentが連鎖して生起することが必要です。Pedagogical momentはそんなにしょっちゅうあるわけではないですから、畢竟、熟達化まで非常に長い時間がかかるということですね。その意味で、効率が悪い。

 なぜなら、教育(他者の学習を組織化すること)が成立するためには、Pedagogical momentがくることを長い間、享受者も学習者も「待つ」必要があるからです。
 「待つ」だけではありません。Pedagogical momentに教授者と学習者がともに居合わせるだけではなく、教授者がその瞬間を見抜き、さらに適切な支援を与え、学習者はそれを喜んで引き受けなければならないのです。そういう諸条件が成立してはじめてpedagogical momentが意味をなします。

 つまり、それとは逆の事態も、容易におこりうるということですね。
 仕事をしていく中で、このことを新参者に伝えたい、と願う一瞬があったとしても、その一瞬に新参者と教授者が、その場に居合わせなければ意味がありません。
 また、この瞬間に、教授者が伝えたいと思うことであっても、学習者に学習の構えが成立していなければ、それは成立しません。そういうときには、Pedagogical momentは、全く生きません。

 ということは、Pedagogical momentを、ある一定数以上、学習者が経験するまで、学習者は長期に継続して雇用されていなければならないはずです。そして、これを支えたのが、「終身雇用」という仕組みではなかったか、ということです。

 それでは、次に学習者のモティベーションは何によって確保されたでしょうか。
 上位者のもとでの長い間の下積み期間を耐えるためには、それを可能にするモティベーション維持の仕組みが必要です。
 当時の日本企業では、職能資格制度による報酬システムが機能していました。この仕組みは、結果として、安定的に右肩上がりの給与を保証することができましたし、いつかは、誰もが中堅や古参者のような立場になれることを夢見させるのに、非常に有効でした。
 つまり、「今は、こうだけど、いつかは、あーなれる」という「見通しの明るさ」、そして、日々給与が上昇していくという外発的動機づけによって、人は、厳しい下積み事態を耐えられたのではないか、と推測できます。

 最後に、何よりも重要なことが二つあります。先ほど4)と5)であげたことです。

 第一に、OJTで相続される内容というのは、基本的には前の世代が所持しているスキルや知識です。前の世代が有しているものを伝達することで、業務が達成できる、ということが前提になります。
 前の世代は所持していないけれど、でも、今の世代にとって必要な知識やスキルは、OJTでは伝達することは難しいということです。これは当たり前のことですが、結構、見落とされています。

 また、

 OJTをしているのに、コミュニケーション能力のある社員が育たない
 OJTをしているのに、リーダーシップをきれる社員が育たない

 こういうことをたまに耳にします。しかし、そもそもポストモダン型能力といわれるものが(高度経済成長期以降に重要だと思われ始めた、標準テストで計測できない能力)が、OJTで育成できるものなのかについては、再考の余地があると思います(上の社員にコミュニケーション能力やリーダーシップがないといいたいわけではありません)。

 OJTの中心となった高度経済成長時代の製造業に関しては、そもそも伝達される知識が、時代の変化にあまり左右されないロバストなものであった、というのが重要なところです。

 第二に、OJTという概念が、そもそも「曖昧」なものだったことが、ひじょうに重要です。なぜ、意図的に設計されていないOJTという制度が、なぜか「機能しているか」のように「見えた」のか。多くの人々が、それを「認知」したと錯覚してしまうのか。それは、OJTという言葉の定義の曖昧さに起因します。

 職場で様々な人々が仕事をしていれば、そこには当然、スキル差や知識差が存在します。仕事をしていれば、教育的瞬間がおとずれることもあるでしょう。

 制度や仕組みとしては意図的には設計されていないのにもかかわらず、あたかも、OJTが機能しているかのように錯覚してしまいがちなのは、OJTという概念が曖昧で、とらえどころのないものであったからだと推察されます。

 つまり、職場で誰かが何かを教える瞬間は、いつでもと言わずとも頻繁に目にするでしょう。その瞬間に、「これって、OJTだよね」「やっぱり、うちの会社ってOJTあったよね」とラベリングが可能であったということが、最大の要因かもしれません。なぜなら、OJTの定義が曖昧であったから。


 じゃあ、ここで、皆さんに問題です。
 
 OJTってなんですか? 100字以内で答えてください。
 
   ・
   ・
   ・
   ・
   ・
   ・

 はい、どうでしたか? 皆さんの中のOJTの定義はどのようなものでしょうか?
 実は、この答え、千差万別なのですよ。
 皆さん、職場でもやってみてください。

 実は、このことに気づいたのはヒアリングの最中です。2005年からこれまで、僕はたぶん100名を超える現場のマネジャーや若手にインタビューを繰り返してきたと思います。そのヒアリングを通していつも思うことは、OJTの定義は、人によって異なっているということです。
 ある人は「仕事をさせること」をOJTとよびます。ある人は「仕事を教えること」をOJTとよびます。
 つまり、OJTの定義は曖昧であることが起因して、何となく「教育的なこと」が職場でおこると、それは、OJTというカテゴリーでラベリングされてしまう可能性があるということです。OJTであろうと、なかろうと、それが意図的であろうと、非意図的であろうと、、職場で起こる「教育的なもの」は、すべてOJTでキャッチオールということです。

  ▼

 かくして、様々な諸条件が「意図せざる整合性」をもち、結果として、「昔は、きちんとOJTが意図的に設計されていて、それが機能していた」という認知を皆がもつようになりました。

 そして、

1)産業構造の転換により工場労働者が村落共同体を継承しなくなったこと
2)終身雇用の崩壊
3)職能資格制度の見直し
4)高度情報化社会の進展によって前の世代が持っている知識の価値が必ずしもいつも高いわけではなくなったこと

 によって、その事態に暗雲が立ち込めます。

 「昔はきちんとOJTが意図的に設計されていたのに、最近、それが機能しなくなってきたよねー」という言説が誕生することになったのだと、僕は思います。

  ▼

 皆さんの会社に、OJTは意図をもって実施されていたのでしょうか?
 それは、かつては、機能していたのでしょうか?
 そして、今、皆さんの会社のOJTは機能しているのでしょうか?

 さらにいうのであれば、時代、ビジネス環境は急激に変化しています。
 いまや人事システムも、かつてのそれとはまったく異なっています。
 そのような中で、

 本当に、今の時代に本当にOJTを復活させることが「望ましいこと」なのでしょうか?
 もし仮に、それが「望ましいこと」なのだとした場合、それを意図的にデザインすることは可能なのでしょうか?

 もし、今の時代に必要なものは、OJTではないのだとしたら、
 どのようなLearningのかたちが、今、必要になっているのでしょうか?
 
 皆さんは、どう思われますか?

  ▼

 世には、OJTソリューションを提供するというサービスが増えているそうです。
 それは、それで非常に社会的意義の深いことなのですが、ここでは、敢えて、問います。

 そのサービスが「ソリューション」という名前を冠するからには、当然、上記のOJT機能不全の理由に対するケアや目配りなされているのでしょうか。もちろん、上記がOJT機能不全の理由のすべてではないにせよ、その可能性がまったくないわけではないように思います。それに対する配慮はなされているのでしょうか。雇用システムや給与システムをいじることは難しいにせよ、「長期間の学習期間をどのように確保するのか」「モティベーションをいかに維持するのか」といった問題に関して、せめて「目配り」がなされることが重要ではないか、と思います。

 もし仮に、もし、そうしたことがらにケア、目配り、配慮が全くなされていない場合、そこには再考の余地が残るのかもしれません。
 「かつてのOJT」を「所与」のものと考え、新人のOJTを可能にするためのOJT指導員の研修、OJT指導員を動きやすくするためのマネジャー研修、といった具合の「無限遡及的な教育的介入」を繰り返すことが、OJTルネサンスを実現する本当のソリューションなのでしょうか。
 仮に、もし、OJTをルネッサンスしたいのならば、その機能不全の真の理由に迫る必要があるように思うのは、僕だけでしょうか。

 もし、本当にOJTをルネサンスしたいのであれば、われわれになし得ることはなんでしょうか?

 これらは、実は、深い問いのような気がします。

 いずれにしても、OJTは日本企業の「お家芸」と言われてきました。僕自身も、ある時代、日本企業の「強さ」を支えていた、その教育的回遊のパワフルさ、非常に感服しています。
 しかし、だからこそ、もう一度、根本に立ち戻って考えなおす必要があるように、僕は、思います。
 くどいようですが、もう一度問います。

 最近、OJTが機能しないのはなぜですか?

投稿者 jun : 2010年2月24日 22:16


ある日突然、学費が100万円あがったとしたら:堤未果著「貧困大国アメリカ2」を読んだ!

「もうこれ以上、我慢ができません。学費を払うために、すでに仕事を3つ掛け持ちしているのです。さらに年間1万ドル(100万円)の値上げだなんて、絶対に無理です」

「学校側は5億3500万ドルの財政赤字を埋めるためだといって、教員2000人の解雇と授業数の削減をするつもりでいるんです。すでに教員の給与は半額にされているのに」

 ▼

 堤未果著「貧困大国アメリカ2」(岩波新書)を読んだ。

 新自由主義の思想のもと、企業と政府が癒着するといった、いわゆるコーポラティズムが進行し、教育・社会福祉・医療といった部分に、壊滅的な打撃が加えられ、中流家庭が苦しむ、米国の様子が描かれている。数年前に出版された「貧困大国アメリカ」の続編である。

 新自由主義とは、鈴木(2009)を参考にすれば、

1)市場原理主義(市場に任せれば万事うまくいくという考え)
2)企業中心主義(雇用の流動化・雇用の調整をすすめ、株主と経営者への価値を最大化する経営を行う)
3)反福祉国家(福祉は国へのたかりを生むので削減する)
4)グローバル化(市場原理主義を他の国にもすすめる考え)

 などを特徴としてもつ考えだという。僕としては、これに5)自己選択・自己決定・自己責任論(すべての社会的不利益・利益は、自己選択・自己決定・自己責任の果てに怒っているとする考え)を加えて、それとしたい。

 もちろん、本書で描かれている内容が、どの程度、全体を表しているのか、僕は専門ではないので判断しかねる。著者はリベラリストの立場から、ジャーナリストとしての筆致で、この書籍を執筆しているので、違った見方や表現もあることだろう。この点に関しては、メディアリテラシーの観点から、本書を批判的に読み解く必要があると思う。
 しかし、その可能性を差し引いたとしても、本書の問題提起は大きい。とても、人ごととは思えないショッキングな内容に、正直に言葉を失った。以下、本書を適宜引用しつつ、紹介する。

 ▼

 例えば、教育では、大学の学費が取り上げられている。
 1990年以降、米国の大学の学費は年々上昇し、毎年5%から10%の上昇をみせている。例えば、アメリカ国内の大学生の76%が通う公立大学に関しては、1995年と2005年比較で、59%の上昇が認められる、という。
 この背景には、1)新自由主義のもと、公教育に対する政府支出が大幅に引き下げられたこと、2)競争的資金を獲得するため、著名な大学教員の引き抜きが行われていること、などがある。

 一方、マイノリティ、中流家庭が進学の際に頼りにしていた公的奨学金は、段階的に縮小しつづけた。現在、授業料の33%しかカバーできていない状況である。
 かつて言われていた「米国には奨学金制度が充実している」という我々のイメージは、決して、十分に機能している状況とはいえない。

 かわりに出てきたのが、民間株式会社の提供する「学資ローン」だった。
「教育は社会のために存在するのではなく、個人のためであるから、自己負担せよ」という新自由主義の思想に後押しされ、1980年から、学資ローンは急拡大する。もともとは国が運営していたものが、民営化され、サービスが急拡大した。しかし、これが問題の発端である。

 学資ローンの利率は、年率20%弱のところもあるという。

「わたしが学生だった頃、通っていた州立大学の学費は無料でした。今、UCに行ったわたしの娘と息子は、それぞれ4万ドル以上の学資ローンを抱えています。18%というクレジットカード並みの利息でね」

 決して、低いとは言えない利率なのに、「大学教育を受ければよい仕事が見つかる」というアメリカンドリームに魅せられた中流家庭、若年層は、何のためらいもなく、契約書にサインをする。
 メタフォリカルに言うのならば、彼らの眼前には「契約書」は見えていない。眼前には、大学教育を受けたあとに待っている「成功の夢」が広がっている。

 しかし、多くの人々が抱くアメリカンドリームは、泡沫(うたかた)に消える。リーマンショック後、大学教育を受けても、決して、よい仕事につけるわけではない。さほど年収が高くない職業にしかつけなかった場合、高いインフレ率、高い借金の利率によって、すぐに生活は困窮する。

 しかし、この学資ローンは、度重なる法律の改定によって、1)借り換えはできない、2)自己破産における借金の残高免責もない、3)消費者保護法の範疇にもはいっていない。   
 高い利率のもとで、一度でも返済ができなかった場合は、全額返済を迫られ、追いつめられていく。
 支払い猶予の申請をたらい回しにされたあげく、1日に何度も何度も矢のような借金の催促が債務者をおそう。預金を差し押さえられ、カードをとりあげられる。クレジットカードがIDとして機能するアメリカにおいて、カードがなくなることほど重大なことはない。あとは、滑り台を転げ落ちるように、社会の最下層に転じる。
 アメリカ教育省のデータによると、現在不良債権化した学資ローンの数は全米で約500万件。金額に換算すると、総額400億ドル(4兆円!)だという。
 一言でいおう。
 これは、要するに「教育版サブプライム問題」なのだ。

 本来、教育機会の平等をうたって設立された制度が、逆機能をはたし、国の教育予算を減らし、それが大学の学費を押し上げ、人々を苦しめていくことに加担する。

 ▼

 これは現段階では、「海の向こう」のことである。
 しかし、あらゆる物事がそうであるように、米国の今は、日本の未来につながる可能性が高いように感じる。事実、本邦においても、家庭の経済状況によって、大学教育の進学に不平等や不平等が生じている状況は、かつてから指摘されている。

 日本も中曽根政権以降、新自由主義的な制度改革、政策立案がなされている。この国の大学や大学生をとりまく状況は、今後、どのようになっているのか、、、正直に僕は不安を感じた。

  ▼ 

「もうこれ以上、我慢ができません。学費を払うために、すでに仕事を3つ掛け持ちしているのです。さらに年間1万ドル(100万円)の値上げだなんて、絶対に無理です」
(p12)

「(中略)学校側は5億3500万ドルの財政赤字を埋めるためだといって、教員2000人の解雇と授業数の削減をするつもりでいるんです。すでに教員の給与は半額にされているのに」
(p12)

 冒頭で紹介したのは、2009年11月23日 学費値上げに反対する数千人の学生・教員でキャンパスがロックアウトした UCバークリー校の学生と教員たちの「叫び声」、否、「悲鳴」である。
 ちなみに、民間学資ローンのCEOが手にした2005年の年収は、4億5000万ドル(450億円)であった。

投稿者 jun : 2010年2月22日 07:51


パパの研究は「ブロック」?

 先日、TAKUZOを連れて研究室に行きました。日曜日のキャンパスは、すごく静かで、いつもとは違う雰囲気でした。

 研究室でいくつかの用事を済ましているあいだ、TAKUZOには、LEGOブロックを渡しました。

 「これでしばらく、遊んでてね」

 と言いました。僕の研究室には、ワークショップ用にたくさんのLEGOブロックがあるのです(書道セットもありますし)。

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 LEGOブロックのおかげでTAKUZOは大満足の様子で、僕も用事をすますことができました。めでたし、めでたし・・・

  ・
  ・
  ・

 ところが、それ以来、TAKUZOは、すっかり僕の仕事が「ブロック」に関係するものだと思うようになっています。
 
 「パパのお仕事って、ブロック?」
 「パパ、ブロックの研究しにいくんだよねー」
 「パパ、研究室で、ブロックで遊んでるの?」

 まぁ、そういうわけじゃないんですけれども(笑)。
 100%関係がない、とは言えない(笑)。

 そして、人生は続く。 

投稿者 jun : 2010年2月20日 18:04


Learning barの紹介ビデオができました!

 なんと、なんと!Learning barの紹介ビデオができました!

 わずか3分間でLearning barの雰囲気がわかります。先日2月のLearning barで、登壇者・参加者の皆さんのご協力のもと、作成させていただきました。

 撮影・編集は、光学姉妹の大房さん、鈴木さんです。大房さんは、NHKで様々な番組をディレクションする一方で、泣く子も黙るナムジュンパイクのもとでVJ(Video Jockey)を学んだ方です。僕を「蛇の健寿司」にはじめて連れて行ってくださったのも大房さんです。

 鈴木さんは、Webディレクターとして活躍なさる一方で、東大テレビや東大オープンコースウェアなどの撮影・編集を一部ご担当くださっています(中原は、重田勝介助教、山本恵美さんと一緒に、東大テレビ、東大オープンコースウェアのディレクションを行っています)。
 本当にありがとうございました。

光学姉妹
http://www.opticalsisters.com/ver4.html

東大オープンコースウェア(東大の講義をネット公開)
http://ocw.u-tokyo.ac.jp/

東大テレビ(東大のイベントをネット公開)
http://todai.tv/

   ▼

 なお、これを機会に中原淳研究室のチャンネルをYoutubeにつくりました。NAKAHARA-LAB TVといいます。今後、動画をつくったら、こちらにアップロードしていきたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

NAKAHARA-LAB TV(中原研究室テレビ)
http://www.youtube.com/user/nakaharalab

 ビデオの最後の方では、本学の大学院生が、エグザイルをしています(僕はよくわからないけど、どうも、この振り付けはエグザイルらしい?? 先頭で踊っているM2のWさんが言っていた!)。

 ぜひ、ご覧ください!
 人生いろいろ、大学院生もいろいろです(笑)。

  ▼

 また、それだけで物足りない方は(笑)、ぜひぜひ、ご自分のブログなどに貼付けてご利用ください。ビデオの貼付け方は簡単です。

 下記のURLにアクセスすると、

Learning barへようこそ!
http://www.youtube.com/watch?v=KX8bJ4o3Q8g

 右に、下記のような部分があります。

umekomi_youtube.jpg

 この「埋め込み」のテキストボックスの中にある文字列をすべてをコピーして、ご自分のブログにペーストしてください。そうすると、ご自身のブログにビデオが埋め込まれます。

 Please enjoy!

投稿者 jun : 2010年2月17日 23:03


アクティブラーニングシンポジウムで、マッキンで講演?

 今日は、東京大学駒場キャンパスで開催されるシンポジウムに登壇します。「大学・社会・アクティブラーニング」という強烈なタイトルで講演をします。

 このシンポジウムは現代GPという文部科学省のグラントによるものですね。東京大学教養学部と大学院情報学環、そして僕の所属する大学総合教育研究センターが連携して、3年前に応募したものです。

大学・社会・アクティブラーニング
http://www.komed.c.u-tokyo.ac.jp/gendai/sympo2010.html

 講演では、僕は、こんな話をしようと思います。
 現在、「大学」が揺れており、そして「企業」も揺れている。ていうか、世間に揺れていない場所なんてない。あっちもブルブル、こっちもブルブル、わたしもブルブル、みんなブルブルしているときに(意味不明)、「学生・人材」には何が求められているのか。そして、大学教育には何ができるのか・・・

 短い時間ではありますがお話ししようと思います。

  ・
  ・
  ・

 というわけで、今泣きそうになりながら、たった今、資料つくっています。
 「たった今」といっても、サボってるわけじゃないのよ、あなた。

 ていうか、昨日から西森さんと打ち合わせてつくっていたのですが、なかなか、お題が難しいだけに、どうまとめようか、かなり悩んでおったのです。なんとかロジックが見えましたので、これで講演します。

 どうなりますことやら。

  ▼

 そういえば、ようやくMac bookに慣れてきました。ゲルマン民族大移動ならぬ、Windowsからの大移行です(意味不明)。
 テクノロジーに強く、Macユーザーの大学院生のW君には、ほぼ手取り足取り教えてもらい、なんとか移行を果たせました。きっと彼は「こいつ、マジ、うぜー」と思っていることでしょう(笑)。

 ところで、こないだ電車に乗ってMacbookをひらいて仕事をしていたら、前に座っていた若い人が、僕のパソコンをみて

「あっ、マッキンだ」

 といいました。思わず、腰がくだけて、ずっこけそうになった。

   ・
   ・
   ・
 
 あのー、これ、略称はマックじゃないのですか?
 略称はマッキンが正しいのですか?
 マックだと、ハンバーガーのマックと間違えやすいから?

 まぁ、どうでもいいですけど。
 でも、マッキンて・・・奥さん、ちょっと、ねー。

  ▼

 そして、人生は続く。

投稿者 jun : 2010年2月17日 10:24


オンデマンドタッチパネル世代

 近況。

 まずひとつめ。
 長岡先生との共著「ダイアローグ 対話する組織」の中国語(簡体字)翻訳が、出版されたとの連絡が入りました。大変ありがたいことです。うれしいです。

66095602.jpg

 自分の書いた原稿が、ほかの言語に翻訳されているのをみるのは、何とも不思議な気分です。しかも中国語ですので、ところどころ、わかるようで、実は、わからない(笑)。この絶妙さが、なかなか笑えます。

 ちなみに、Twitterでも指摘を受けましたが、僕は学部時代、中国語専攻でした。とはいえ、全く不真面目きわまりない学生で、何度かドラ(不可)をくらいました。読めるわけありません、すみません。アシスタントの阿部さんは、中国語が堪能なので、彼女に読んでもらうことにしました。

  ▼

 ふたつめ。
 最近、TAKUZOをみていて、面白いと思うことがあります。彼は、テレビ番組はすべてオンデマンド(Youtube)だと思っているということです。番組が終わり、「次は1週間後だね」というと、「次見せて、ボタン押してみせて」と言われます。また番組の最中でも「ちょっと戻して、もう一回」と言われます。

「これはテレビだから、できないよ」

 というと、

「なんでできないのよー」

 と泣き出したりします。
 通常、私たちは、テレビとYoutubeを「違うもの」だと思っています。というか、別物だろ、それは、と。しかし、彼の中には、その「境界」はありません。このことが面白いな、と思います。

 ついでに液晶画面は、タッチパネルだと思い込んでいる「ふし」もあります。iphoneを操作するように、指で操作しようとするのですね。普通の液晶を指でこすって「パパ、これ、動かないよ」といっていることもあります。

 オンデマンドタッチパネル世代(笑)が、大人になるとき、そこにはどんなメディア環境が生まれているのでしょうか。
 なんか楽しみであります。

投稿者 jun : 2010年2月16日 09:02


暗黙知を饒舌に語る!?

 ものすごく細かいことかもしれませんが、最近、妙にひっかかることに「あの技術の暗黙知を伝える」「あの人の暗黙知が伝わってきた」という言い方があります。
 ビジネス書などを読んでいると、こうした表現が頻発します。そういうものを目にするたびに、「うーん」と考えさせられてしまうのです。

 それはもしかすると、一般に流布する「暗黙知」というもののとらえ方が、僕のとらえ方と、ちょっと違うことに起因するのかもしれません。今日は、これについてお話ししましょう。あと20分で会議ですので、あくまで手短に(笑)。あと、手元に本がないので、ごめんなさい、記憶ベースで(笑)。

  ▼

 よく知られているように、暗黙知とはマイケル=ポランニーが、概念化したものです。

 僕の理解に寄れば、ポランニーは、我々の創造的行為を可能ならしめる機序ではあるが、言語では語り得ぬ、しかし、我々の賢さの中にどこかに存在していると考えなければ説明がつかないプロセスを仮定して、暗黙知(tacit knowledge)と名付けたと考えています。

 ここで重要なのは、暗黙知が、言語によって分節化できない、つまりは「語り得ないもの」であり、存在の確証さえも確認できないものである、ということです。また、それはプロセスであるということです。暗黙知は、通常tacit knowledgeと言われますが、そのコンセプトに忠実な言語を用いるのだすると、それはtacit knowingに近いと思います。

 ポランニーは、著書においても、暗黙知が何かを言明すること、また、暗黙知が作動する機序について説明することには、かなり慎重でした。それがなぜかは、僕はポランニーではないので(笑)、わかりません。でも、おそらく、その概念が、そもそも語り得ぬものだからだと思います(だから、ポランニーの本を読んでも、僕は、腹におちません・・・)。

 メタフォリカルな言い方が許されるのであれば、

 暗黙知とは、自己が「語り得ぬもの」であり
 他者からも「語られえぬもの」なのです。

 ポランニーは、暗黙知という概念を提唱しながらも、それに対して「饒舌」になることはありませんでした。その著書からは、自らが生み出したコンセプトのもつ「曖昧さ」「とらえどころのなさ」を、彼なりに引き受ける覚悟が感じられます。

  ▼

 もう、勘のよい方なら、なぜ僕が「あの技術の暗黙知を伝える」「あの人の暗黙知が伝わってきた」という表現が気になるか、おわかりだと思います。

 一言でいうと、こうした言い方では、暗黙知が「語られている」のです。
 前者の「あの暗黙知」という言い方が可能になるためには「暗黙知が何かをわかっていること」が前提になります。
 また、後者の「伝えられた」という表現が可能になるためには、暗黙知の存在を知覚し、さらにはその伝達の完了を知覚していることが前提になります。

 さらにいうならば、暗黙知とはプロセスに近いものとして概念化されているのにもかかわらず、それが「右から左」に「モノ」を動かすように「伝えられる」というメタファを使って表現されているのも、大変に気になります。暗黙知が、いわば「物象化」されている、というこです。

 大変大変細かいことなのですが、僕が気になるのは、こんな理由からです。

  ▼

 暗黙知という言葉を、僕は授業や講演などで、極力使いません。
 なぜなら、それは「僕は暗黙知について語る言語をもっていない」からです。語り得ぬものには沈黙せざるを得ません。

 暗黙知に限らず、世の中には「語り得ぬもの」がたくさんあります。「語り得ぬもの」の奥深さ、曖昧さ、とらえどころのなさに我慢がならなくなり、それを「語ってしまった」とき、その語られたものは、全く違うものになっていることが、ままあります。

 暗黙知について、なぜ、人がこんなにも「饒舌」になりうるのか。そして、その「饒舌な語り」によって伝えられているものが、何なのか。
 時に、僕にはわからなくなるときがあります。

投稿者 jun : 2010年2月12日 09:18


サードプレイスコレクション2010報告記

 先日、六本木super deluxで開催された「サードプレイスコレクション2010」の報告記がアップロードされました。

 サードプレイスコレクション2010とは、家庭でも職場でもない第3の場"サードプレイス"に関わる多くのゲストをお呼びして、これからの時代に必要な「学び」の可能性について考えるパーティーでした。

サードプレイスコレクション2010
http://bit.ly/bdhJN1

 企画&ディレクションは、ワークショップ部。構想から半年かけて、下記のような体制で開催されました。

○企画&ディレクション
ワークショップ部
舘野泰一(東京大学大学院博士課程 中原研究室)
安斎勇樹(東京大学大学院修士課程 山内研究室)
牧村真帆(東京大学大学院修士課程 山内研究室 修了)

◆WEB:http://utworkshop.jimdo.com/
◆Twitter:http://twitter.com/workshop_bu


○ステアリングコミッティ
長岡健(産業能率大学)
上田信行(同志社女子大学)
中原淳(東京大学)
熊倉敬聡(慶應義塾大学)
飯田美樹(カフェ文化研究家)
大西景子(SODA design research)
北本英光(株式会社電通)


○主催
NPO法人EduceTechnologies
http://www.educetech.org/

EduceTechnologiesは、「学び」に関する調査、研究開発、コンサルティング、実務家と研究者が集まる学術イベント(Learning barやWork Place Learning)を行う非営利特定活動法人(NPO)です。

副代表理事 中原 淳

  ▼

 サードプレイスコレクションがどのような場であったのか、どのような出来事が起こったのかについては、ワークショップ部の報告記に詳しいので、私から述べることはありません。ここでは、このイベントに対する「僕の思い」を述べたいと思います。

サードプレイスコレクション2010
http://bit.ly/bdhJN1

 僕としては、今回のイベントを通して、「独立した個としてつながる場」「個として自律しつつ、つながる場」をどのようにデザインすればよいのか、について考えることが課題でした。

 僕自身も、まだ、きちんとした「自分の言葉」で言うことができないのですが、最近、僕の中ですごく気になっているのが、この「個」と「つながる」という問題なのです。そして、そういう一見矛盾したものを可能にする「場のデザイン」がいかにあるべきか、という問題なのです。

 こういう思いは、ある程度、ステアリングコミッティのメンバーには共有されていたと思います。
 スーパーデラックスという場所を選び、ワークショップ的なインストラクションをすべて廃して、「場づくり」をするということになったのだと思います。
 この本当に難しい課題に、ワークショップ部の皆さんは「挑戦」しました。自らリスクをとっての挑戦だったと思います。

 これは、やったことのある人でしたら想像はつくと思うのですが、冗談ではなく、本当に難しいことです。

「さぁ、皆さん、グループになって集まってください。今から自己紹介をしますよ。トーキングスティックをもってください」

 というインストラクションで、いわゆるワークショップ的に「まとめること」は、ある意味で、実は、そんなに難しいことではありません。

 やや大げさにいえば、今回のサードプレイスコレクション2010の挑戦は、「予測不能な個をゆるやかに制御しつつ、個同士の関係をデザインすること」であったと思っています。
 そして、僕個人としては、もう既にある程度確立してしまっているLearning barなどのあり方を反省する意味でも、それとは別系統に、こうしたイノベィティブでリスキーな場を見てみたいと感じておりました。

 かつて、ドラッカーはこう言いました。

昨日を守ること、すなわちイノベーションを行わないことのほうが、
明日をつくることよりも大きなリスクを伴う

 現代は、何も新たな挑戦をしないことも、「リスク」です。もちろん、反面、挑戦することにもリスクはともないます。不用意にリスクを高めたいわけではないですが、僕はどちらかをとるのだとすれば、後者の挑戦するリスクをとりたいと考えています。

  ▼

 このような「挑戦」を行ったせいもあり、いくつかの課題も残すことにもなりました。その詳細は、先ほどのブログにあるとは思います。そのすべては今後の取り組みに活かしてくれると思いますし、僕自身も、内省を深めたいと思っています。

 ちなみに、最も誤算だったのは、「参加者が多くて会場が混雑した」ということです。これは、ワークショップ部の責任ではなく、僕の完全な判断ミスであったことを正直に告白します。申し訳ございませんでした。

 だいたい、この種のイベントでは参加申し込みに対して、7割程度の歩留まり率なのですが、このイベントでは、参加率が非常に高い状況でした。正直、これほど高いとは思いませんでした。非常に「嬉しい悲鳴」です。

 逆に、もっとも自分に都合よくに解釈すれば、「参加者の方々が、いまだ見たこともないような場に対して期待をもってくれた」とも言えるのではないかな、と思います。

 いずれにしても、今後、このようなイベントを開催する際には、今回の反省をふまえ、面白い場所をつくっていきたいと思っています。

 See you soon...

投稿者 jun : 2010年2月10日 10:52


泥臭い研究

 JR東日本 研究開発センター 安全研究所と東京大学・中原研究室は、今年度から2年間にわたって、安全教育に関する共同研究をしています。
 職場のマネジャー、キーマンが、自らのマネジメントのあり方を見直し、「安全」の価値観や大切さをどのように職場に共有していくのか。そのための教育的介入(研修)をどのように行えばいいのか、を探求する研究です。

  ▼

 おいおい、なんで、アンタが「安全」なのか?

 といぶかしがる方もいらっしゃるかもしれません。でも、いいの、立派に、「安全」は僕の研究テーマになるのです。

 通常の一般企業においては、

  教育的介入→研修・職場→パフォーマンス(いわゆる数字)

 のところが、JRさんの場合は、

  教育的介入→研修・職場→安全

 というかたちになっているということです。また、安全は職場の風土であり、文化でもあります。それを、現場のマネジャーが、いわばシンボリックマネジャーとして、どのように変革したり、強化することができるのか、という問題は、非常に興味深いテーマです。
 ですので、一瞬、安全というとギョッとしますが、僕の研究領域から離れているわけではありません。

 ▼

 今年は、フィールドスタディの期間でした。駅、電車区、現場をまわり、来年度はマネジャー研修を設計してきました。教育設計は、何よりも「現場」です。半年をかけて現場のフィールドスタディと議論を積み重ねてきました。

 来年はいよいよ研修の実施と評価です。きちんとした評価研究も行う予定です。具体的には、職場からの定量データをもとに実験群 - 統制群をもうけた教育効果検証を行う予定です。

 ▼

 昨日は、JR東日本本社の大塚会長・清野社長・役員の方々、JR東日本グループのマネジャー層、グループ企業の社長などの皆さん700名が集まる「鉄道安全に関するシンポジウム」が、都内で開催されました。中原は、講演とパネルディスカッションにて登壇させていただきました。

 職場の風土、職場の社会関係資本、学習、ワークプレイスラーニングなどについて、最近の中原の研究知見をまじえてお話しさせていただきました。ちょうど原稿を書いている最中だったので、非常にタイムリーでした。

 嬉しかったのは、懇親会の席上で、稲生武さん(いすず自動車・元取締役会長 / JR東日本取締役)から下記のように言われたことです。

「中原さんのような若い人が、コテコテの現場に一緒に入ってくれて、泥臭い研究をしているのが、僕は嬉しかった」

 小生、最近、やや「お疲れ気味」だったのですが、かなりやる気になりました。明日からはじまるインタビュー調査(これから数十人に対するインタビュー調査が始まります)も俄然気合いがはいります。ありがとうございました。

 ▼

 本シンポジウムでは、同社の常務取締役・石司さん、執行役員の宮下さん、安全企画部の吉田篤さんに大変お世話になりました。また同研究では、安全研究所の楠神所長、青沼さん、戸井さん、静山さんらにお世話になっています。心より感謝いたします。

 そして人生は続く。

投稿者 jun : 2010年2月 9日 12:47


ツイッターで授業中つぶやくことは、「よい学習」なのか?

最近、授業などで、参加者の方同士がツイッターなどを用いて、その様子を実況中継することが、よく行われるようになってきました。教師や授業者が意図的にツイッターを用いるように促すこともあります。多くは、学生や参加者が自分の意思でハッシュタグを設定して、実況中継することが多いようです。

 僕自身もやったこともありますし、僕の講演などでも参加者の方々が実況中継なさっている様子を見たことがあります。個人的には、非常に面白い試みだと思っています。

 18世紀産業革命時、一斉授業がイギリスで発明されて以来、学習者は常に「沈黙」してきました。
 学習者は、今、沈黙を破り、声を出そうとしている。
 敢えておおげさにいえば、これは「学習革命」として考えることもできないことはないな、と思います。

 ツイッターなどで授業中につくられるもうひとつのコミュニケーションチャネルを、研究の世界では「バックチャネル」といいます。
 授業や講義がフロントチャンネルだとすれば、その背後(バック)で、もうひとつの情報チャネルが存在している。それが、いわゆるバックチャネルです。
 授業者の中には、フロントチャネルに加えて、バックチャネルでのコミュニケーションを積極的に促す人もいます。個人的には、こうした方々に共感できます。

  ▼

 しかし、同時に、考えなくてはならないな、と思うところもあります。

 僕が思うのは、「バックチャネルが活発なこと」は必ずしも「学習効果が高いこと」を意味しないのではないか、ということです。以下では話をシンプルにするために「学習効果」を「講義において扱われた概念理解」として、また「学習者」を大学学部生(1年生・2年生)に限ることにします。

 ここで僕が疑問に思っていることは「バックチャネル」がない方が、学習効果も高い可能性について深い考察を行わないまま、バックチャネルが活発化することを「よし」とすることは、「よいこと」なのかな、とも思うのです。

 正確には、ここには、4象限の「可能性」が存在します。

1.バックチャネルのやりとりも活発で、個人の学習効果も高い
  →何の問題もありません

2.バックチャネルのやりとりは活発だが、個人の学習効果は低い

3.バックチャネルのやりとりは活性化しなかったが、個人の学習効果は高い

4.バックチャネルのやりとりは活性化せず、個人の学習効果も低い
  →シャレになりません

 2の場合は、参加者同士がツイッターなどで非常に活発にやりとりをしていても、肝心の講義は注意が払われておらず学習効果は低いということです。3の場合は、これまでどおり学習者は沈黙しているが、学習効果は高い状態を示します。

 とかく、今は、ツイッター万歳の風潮がありますので、人は「バックチャネルが活発化していれば、よい学びができている」と考えがちです。また、「バックチャネルがいまいちだと、個人の学習効果は低かろう」と類推します。

 しかし、これは1と4の可能性にしか言及していません。残る2と3に注意が払われていないのだとすれば、ここには問題が残る気がしています。

 ▼

 この問いを考察するためには、いくつもの要因を統制する必要がありそうです。例えば、「個人が既にもっている知識量」と「個人が既にもっている情報処理能力」などです。

 これらが高い場合には、既に授業の内容については見知っており、かつ、フロントチャネルとバックチャネルのコミュニケーションの情報をうまくやりとりできるので、学習効果が高まる可能性があります。

 逆に、「個人が既にもっている知識量」と「個人が既にもっている情報処理能力」が低い場合には、バックチャネルのコミュニケーションで講義内容に関する概念理解は低まってしまいます。

 また、フロントチャネルで講義を聴きながら、バックチャネルのコミュニケーションに集中する、というのは情報負荷が非常に高いので、情報処理能力の低い人には、難しい課題かもしれません。

「ツイッターでつぶやく前に、まず、講義内容を理解してよー」

 という状況が生まれかねません。

 他には、講義されている内容の違いも勘案しなければなりません。どの講義でも、バックチャネルが有効かどうかは検証する必要がありそうです。最大の課題は、「学習効果」をどのように測定するか、という問題が残ります。

 今日は「学習効果」を仮に「講義内容の概念理解」ととらえてきましたが、ここを別の基準に設定すると話は全く異なってきます。そのことは非常に慎重に考える必要があることを重ねて指摘しておきます。
 例えば、「授業の内容を「コア」にして、人とつながることが学習である」ととらえるのであれば、ツイッターでつぶやくことは、学習効果が高い、ということを意味します。

 また、学習者に関しても、注意が必要です。今日の議論では、大学の学部生と仮置きしました。これが働く大人になってくると話が違ってくるでしょう。
 働く大人は、概念理解云々よりも、人に伝え、巻きこみ、巻きこまれ、つながることによって、自分を変化させることを「学習」とおくでしょう。新たなアイデアやイノベィティブなやり方を思いつくことが「学習」とおくのなら、またさらに話が変わってきます。

 ▼

 くどいようですが、僕は授業や講義中のバックチャネルの教育応用の可能性に興味をもっています。しかし、同時に、上記のような検証、あるいは、下記のような問いについて、教育関係者が本気で考えるべきだと考えています。

 ツイッターで授業中つぶやくことは、「よい学習」なのか?
 そして「よい学習」の「よさ」とは何か?

 非常に面白い問いであると思います。

投稿者 jun : 2010年2月 7日 07:47


プレZEN!? : 書道と手書きの絵でプレゼンをしよう

朝から、僕は、大学です。今日は、夜遅くまで大学院の口頭試問があるのですね。朝っぱらからチャギントン(BSフジでやっている鉄道アニメ)を見ているTAKUZOには「パパ、ばいばい、また明日ねー」と言われて(泣)、寂しく家をでました。「また明日ねー」はないだろうに、、、しかも、どっか、オマエ、嬉しそうじゃねーか(笑)。

 大学では、あいまをみて、原稿を書いたり、月曜日のプレゼン準備をしています。原稿につまれば、プレゼンをつくり。プレゼンをつくれば、原稿をつくり。その繰り返しでございます。

  ▼

 小生、プレゼンをつくるのは「嫌い」ではありません。僕のプレゼンをお聞きいただいた方でしたらおわかりいただけると思うのですが、僕はプレゼンで習字や手書きの絵をよく使います。プレゼンに「内容のなさ」を補うために(泣)、やむなく「小手先の演出」を駆使するのです(笑)。

 リアルに書道をして、リアルに手書きで絵を描いて、スキャナでとりこみます。そうこうしているうちに、あっという間に時間がたって、「あべし、ひでぶー、あわゆび」という感じですね(笑)。

 例えば、書道なら、こんな感じです。

oshinagaki.jpg

 ちゃんと、自前の篆刻も用意しております。これは台湾でつくってもらったものを、スキャナで取り込みました。たしか1000円くらいでした。

tenkoku_nakahara.jpg

  ▼

 お絵かきもいたします。
 下記は、いわゆる「導管モデル」です。

doukan_model.jpg

 これは正統的周辺参加です。なぜか、先輩が「みやげ寿司」をもって、酔っぱらっているところがポイントでございます。意味は全くございません。
 何、表現されている内容が、LPPの概念と同じじゃない? いいんです、細かいことは。LPPが何たるかを、手書きの絵で完全に表現できるわけがないんだから。
 気にしない、気にしない、一休み、一休み(一休さんのナレーション風に読んでください)

community_Learner.jpg

 というわけで、、、

kan_desu.jpg

 ▼

 プレゼンで、書道とか、手書きの絵とかを使っていると、よく言われるのが「中原さんは書道とか、絵が、子どもの頃からうまかったんでしょ」ということです。

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 そうだったらよかったのですが、全くそんなことはありません。「図工」も「書道」も「3」。ひどいときには「2」を食らったこともあります、、、そりゃそりゃ、惨いものでした。

 前にも言ったことがあるかもしれませんが、僕は、夏休みの絵日記が死ぬほど嫌いでした。なぜか? そりゃ、絵を描かなくてはならないからです(文章も苦手でしたが)。なぜか僕が人の絵を描くと、「首がびよーん」と伸びたり、手がとんでもないところから出てきたりするのです。「絶望的な美的感覚」に、先生は、きっと悶絶したことでしょう。

 なら、僕は、なぜ書道や絵を描くかというと、「下手なのですが、気にしなくなってしまったから」です。子どもの頃は、「見たものがそのとおり描けず」、あんなに嫌いだったのに、大人になったら、好きになりました。

 特に、私たちは大人になると、人は、「絵は上手くなきゃ、人の前でだしてはいけない」と思いがちです。東京学芸大学の高尾先生の言葉を借りれば、「大人」になるにつれて「萎縮した子ども」化してしまうのえす。「下手だと思われようが、何だろうが、そんなもん、どーでもいいわ」とケツをまくってしまえば、もう、怖いものはありません。

 というわけで、皆さんも、書道や手書きの絵をプレゼンで使ってみませんか。特に書道はおすすめです。海外でウケます。日本のよさ、手書きのよさをいかしたプレゼン(アナログプレゼン)が、もっと増えればいいな、と思います。

 アナログプレゼン会をつくろうかな、こうなったら。
 なんか、いいネーミングじゃないな。
 ・・・「禅」にひっかけて、「プレZEN」というのはどうだろう。
 なんで「禅」なのかは1ミリもわかんないけど。

 ---

追伸.
 書道プレゼンの作り方です。

書道プレゼン
http://www.nakahara-lab.net/blog/2009/01/post_1425.html

投稿者 jun : 2010年2月 6日 09:45


ワークショップとは言わないワークショップ

 今、「働く大人とワークショップ」という本の原稿を書いています。

 最初は「企業人材育成とワークショップ」というタイトルだったような気もしますが、だんだん「働く大人とワークショップ」の内容が増えてきて、どっちにしたらいいか、悩んでおります。

 このままだと「企業人材育成と働く大人とワークショップ」になっちゃうよね、、、ちょっと、オクサン、どーすんの(笑)。
 僕ね、決められないんだよね、そういうの。思わず「まーまーまー、ここは、みんなで、ひとつ仲良く」なんて言っちゃいそうになる。
 でも、「と」が三回続くのは、「意味不明子ちゃん」だよねー。一瞬、「部屋とYシャツとわたし」みたいで、レトロでいいかな、とも思ったのですが(笑)。

  ▼

 閑話休題。

 書いていて、素朴に思ったことがあります。
 よーく考えてみると、世の中には「ワークショップとは言わないワークショップ」がたくさんあるということです。

 つまりですね、「ワークショップとは銘打っていないものの、やっていることと結果を見ると、ワークショップっぽく機能してしまっている場」がたくさんあるのですね。むしろ、そっちの方が数の上では、圧倒的マジョリティであるよ。あっ、タイプミス、いきなり国籍変わっちゃった(笑)。

  ▼

 例えば、某企業の事業部単位で実施されている場。会社がオフィシャルに支援し、三十年以上の歴史のあるそれは「懇談会」という名称です。職場単位で実施しているので、その内実は、職場長の裁量にまかされています。

 もちろん、職場単位の実施ですので、職場によっては形骸化している「場」もあるでしょう。でも、それが有効に活用されているところでは、職場のしかるべきメンバーが、ファシリテーターの役割を担い(自分がファシリテータなんて思っていない)、職場のメンバーに自分の仕事を見直す機会を与えたりしています。内容の構成も非常に、ワークショップ的です。

 もちろん、こうした場は、ワークショップという名乗っているわけではありません。でも、観察者の僕の目からみたら、すごく「ワークショップ的」に見えるのです。で、それをやっている方にお伝えすると、

「僕たちがやっているのって、ワークショップっていうんですか、、ははー。そんな風な領域があるんですねー、世の中広いですなー」

 ってな感じです。

  ▼

 今日の文章、だんだん、書いていて、どうやってオチつけんのか、わからなくなってきたけど(笑)・・・あのね、要するにそういうことですよ、、、感じてください、僕の言いたいことを(笑)。

 つまり、「企業人材育成とワークショップ」でも、「働く大人とワークショップ」でも、どっちでもいいんだけど、どこからどこまでを、「ワークショップ」の範疇に含めればよいのか、わからなくなってきたってことです。

 つまりは、ワークショップを「インプット」としてとらえる のか、それとも「アウトプット」としてとらえるのか、ってことなのかな。わかんねーけど(笑)。

 前者は、「ワークショップという手法を使って、●●したら、~なりましたよー」という風にとらえること。後者は、「●●というものが既にやられていて、そこでの活動と所産は、ワークショップ的でした」と書くということ、です。僕はこの本で、どちらの立ち位置で書けばいいのかな、と悩み始めました。たぶん、これが言いたかった。

 どない?

  ▼

 まぁ、少し悩んでみます。

 でも、いわゆる「教育畑・学習畑の人」からみたら、前者の書き方の方がすっきりすると思うんだけど、きっと「現場の人」からみたら、たぶん後者だろうな、と思う。

 まぁ、だとしたら、どっちの立ち位置に僕がたつかは、おのずと答えはでているよね。

 そして人生は続く。

投稿者 jun : 2010年2月 4日 12:21


酒井穣著「日本で最も人材を育成する会社のテキスト」を読みました!

「蛇の健寿司」お友だち(!?)でもある、酒井穣さんの「日本で最も人材を育成する会社のテキスト」を読みました。

酒井穣さんのブログ
http://nedwlt.exblog.jp/

酒井穣さんのTwitter
http://twitter.com/joesakai

こちらが蛇の健寿司です
http://www.nakahara-lab.net/blog/2010/01/post_1634.html

 酒井穣さんは「課長の教科書」「新しい戦略の教科書」でベストセラーを記録し、現在は、株式会社フリービットで、人事戦略ジェネラルマネージャーをつとめている方です。
 本書は、現在のビジネス環境における「ヒト」の役割をひもときながら、酒井さんのフリービットでの人材開発の手法を広く紹介したもので、非常に面白く読むことができました。

  ▼

 本書において、酒井さんが問題にしているのは、無反省に実施され企業経営への貢献が少ない人材開発の現在についてであると思われます。
 まず本書では、「人材育成とは何のために存在するのか」から筆をおこし、「育成ターゲットをいかに選定するのか」「どのようなタイミングで育成するのか」を考察しています。グローバル化する社会の中で、なぜ「人」が大切なのか。誰もがわかっているようでわかっていないことを、丁寧に解説してくださいます。

 その後、酒井さんの矛先は、「誰が育てるのか」という人材開発のイニシアチブの問題、そして「誰に育つ責任があるのか」といいう人材発達のレスポンシビリティの問題に波及します。
 この問題は、一昨年のワークプレイスラーニング2009でも扱った問題であり、昨今、組織と個人をめぐって、せめぎ合いが生じているような気がします。

ワークプレイスラーニング2009
http://www.nakahara-lab.net/blog/2009/11/2009_12.html

 最後には、株式会社フリービットにおける取り組み、「読書手当て」「社内ミニブログ」「将来の自分への手紙」「突撃☆お仕事インタビュー」「ジグソーメソッドによるインタラクティブな学習」などが紹介されます。
 随所に、最新の学習科学(例えば、ジグソーメソッドは協調学習論の考え方である)、人材育成の考え方が取り入れられていて、非常に示唆に富んでいるな、と感じました。

  ▼

 本書を読み終わり、何より重要だと思ったことは、酒井さん自身の「実践の中で考える」姿勢であると思います。

 結局、人材開発や人材育成に「王道」はありません。
 人材開発に携わる人々は - というよりは、「人」という最も予測不能で、最も不思議で、最も魅力的な存在にかかわる人々は、「動きの中で考えること」「実践を通して考えること」を迫られます。
 自社の現状を分析し、ありたい人材開発の姿を描き、人を巻き込み、時に内省しながら、アクションを起こすことが求められます。その仕事は、酒井さんが本書で述べている「リフレクティブ」ということと密接に絡み合っています。

 本書からは、酒井さん自身がリフレクティブマネジャーを体現なさっている様子がありありと伝わってきて、非常に勇気づけられました。

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 働く大人の学び論・成長論
 仕事の経験を積み重ね、内省する
 リフレクションをアクションにつなげる

中原淳×金井壽宏 「リフレクティブマネジャー」光文社新書!

投稿者 jun : 2010年2月 2日 17:27


支援すること考:支援することの難しさ

 最近、故あって、「支援」ということを考えさせられます。なんてことはない、今、書いている原稿の一部で、「支援」がでてくるからですね(笑)。「意味深」なことなんて、僕にはないのよ。単にそれだけ。原稿書いてるから、考えざるをえないだけです。

 いやー、支援ね・・・。
 つくづく思うのは、「支援することって、難しいよなー」ということですね。いやー、原稿を書きながら、僕は、しみじみと思ってしまうんですね。いやー、難しい。

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 小橋(2000)によると、「支援」とは下記のように定義されます。

「支援とは、何らかの意図をもった他者の行為に対する働きかけであり、その意図を理解しつつ、行為の質を維持・改善する一連のアクションのことをいい、最終的な他者のエンパワーメントをはかることである」

 なるほど。非常にわかりやすい、素晴らしい定義ですね。そして、この数行には、既に「支援することの難しさ」が凝縮されているように感じます。以下では、それを書いてみましょうか。

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 第一に「何らかの意図をもった他者」というところ。
 支援が「何らかの意図をもった他者に対する働きかけ」であるとするならば、大前提になるのは、支援する側は「他者が有する何らかの意図」を「把握」する必要があるということです。でも、これ、サラッと言いますが、とても難しいことだと思いませんか。

 だって、他者が「自分の意図」を把握していない場合だってありうるわけですよね。特に若年であればそうですよね。

「オレ、何していいか、わかんないっす、よろしくっす」

 みたいな人、いそうですよね。
 でも、意図を理解しないことには支援にはならない。ということは、そういう状態でも、支援するということは、「他者の意図」を「共同構築」「共同探索」するということと同義になりますよね・・・うーん、気が遠くなる。

 こんな場合もありうるでしょう。相手は確かに「意図」をもっている。でも、その「意図」が「誰の目」から見ても、イケてない。耳にしたとたん「ピキー」と秘孔をつかれたような気持ちになってしまうくらい、イケてない「他者の意図」をどうしたらよいのか。
 つまり、「あなたが一応は理解した他者の意図」が、あなたから見て「腹落ち」するかどうかは別問題なのです。

 「他者の意図」が、たとえば、下記のようだったら、あなたは、どうしますか。

「おいおい、おまえ、その意図はないだろ、単なるエゴじゃねーの」
「おいおい、そりゃ、その意図は時代遅れだよ、そのままいったら、あんたやばいよ」

 他者のもつ意図が、そんな意図だった場合に、それを曲げることを「支援」とよぶのか、それとも、あくまで「意図」にそったかたちで支援を行うことをよし、とするのか・・・皆さんだったら、どっちをとりますか?

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 次に「最終的な他者のエンパワーメントをはかる」の部分。
 これは、結局は、「他者が最終的には元気をもらって独り立ちすること」が重要だよ、ということなんでしょうか。
 
 でも、少し考えたらわかると思うんですが、これは難しいですよ。
 第一に、どのタイミングでいかに支援解除したらよいのか、わからない。

 いつも僕が思うことなのですが、「支援の難しさ」は「いつどうやって支援するか」に加えて「どのタイミングでいかに支援解除するか」にあるように思うんです。

 かつて、Kram(1988)は、それを「分離」と表現しました。分離が成功しなければ、支援者と被支援者の両者に、「気まずさ」が残りますし、支援される側も円滑な発達をとげられないといったことが起こりがちだそうです。

 いや、むしろ支援の解除、分離のときには、支援者 - 被支援者間に葛藤、否定的感情が、必然的に生じるものなのかもしれません。あんまりネガティヴなのはイヤですけど(笑)、やむを得ないし、むしろ、そうでなければ困るのかもしれないですよね。

 あとは、誰も言わないと思いますが、支援して独り立ちされてしまったら、「支援してきた側」としては、喪失感を感じませんでしょうか。
 つまり、うがった見方をすれば「支援を解除する」とは、「自分のコントロールできる人的資源をひとり失ってしまうこと」を意味するのです。

 支援関係という名のもとに「自分の仕事を助けてくれていた人」がこれまでいたとしたら、独り立ちされてしまうと、その労働力をまるごと失います。こりゃ、キツイわな。

 僕も含めて、あなたも、みんな弱い人間です。
 願わくば、「今まで支援した分、自分の仕事を助けて欲しい」と思うのが「人情」というものではないでしょうか(笑)。
 つまり、「支援を解除せず、自分に依存してくれたままの方が、自分のためにはいいんだけどなー」と思っちゃうようなことが、ないわけではない、ということです。

「あなたの成長のためなんだから、これ、大変だと思うけど、やっといて。いや、もちろん、君の成長のためを思って、僕は言っているんだよ・・・」

 という名の労働力の搾取、あるいは、象徴的暴力が、発達支援関係には作動する可能性はゼロではありません。そして、支援を解除するとは、そういう「労働力搾取をやめること」でもあるのです。

 支援する側に余裕がない場合は、そういう場合は、もしかすると、「支援解除をしない」という合理的な選択をするのかもしれない。もちろん、それでは、最後まで、支援された側は、独り立ちはできませんけれども。

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 支援することに関して、僕が思ったのは、こんなところです。いずれにしても、今後の職場における上司 - 部下関係を考える上で、「支援」はひとつのキーワードになりますね。エドガー・シャインさん(MIT)の翻訳本も、大変注目されているようです。

 皆さん、どう思いますか?
 嗚呼、支援は難しい。

投稿者 jun : 2010年2月 1日 11:15