「Learning bar-X:インプロと学びを考える」をふりかえる!
先日の「Learning bar-X:インプロと学びを考える」のディレクションを担当した東大ワークショップ部が、当日の様子をブログに書いてくれました。
Learning bar-X「インプロと学びを考える」
http://utworkshop.jimdo.com/2009/07/31/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%AD-learning-bar-x-%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%AD%E3%81%A8%E5%AD%A6%E3%81%B3%E3%82%92%E8%80%83%E3%81%88%E3%82%8B-%E7%B5%82%E4%BA%86//
Mindset web
http://mind-set.jp/contents/blog/2009/08/learning-barx.htm
牧村さんのブログ
http://mahooo.exblog.jp/11643816/
非常に丁寧にまとめられている、と思いました。きっと、書いていく中で、いろいろリフレクションしただろうね。
このブログを読むと、なんか、僕は、いつも彼らに「突然、無茶ぶり」をしているようですが(笑)、まぁ、そんなこともないわけではない(笑)。
でも、一応、建前としては、そこに「綿密なデザイン」があるのですよ(ホンマか?)。ワークショッパー育成5段階モデルといいます。これについては、また今度。
それにしても、「いつまでもジャニーズJrでいるんじゃない!」という台詞を最後のラップアップで使うとは、、、笑える(笑)。
12月26日に開催されるという「Party of Third Place Learning Collection」が、とても楽しみですね。今度の舞台は、企画からすべての担当ですね。ぜひ、修羅場をぜひエンジョイしてほしいと思います。
大丈夫、責任はすべて僕がとる。あと、次回は、小生は、皆さんの後ろで「ジャニーズJr.」として踊らせていただきます(もうジュニアという年齢じゃないけど・・・)。
若いんだから、バーンと行け、バーンと(笑)。
そして人生は続く。
---
近況.
体調悪し。目を閉じると、別の国にすぐにいってしまう。
投稿者 jun : 2009年7月31日 22:40
賢さはネットワークの中にある
知り合いの、ボストン在住のジャーナリスト菅谷明子さんから、お便りあり。非常に興味深い記事を、ご紹介いただいた。ありがとうございます。
米国の大学街で国境を越えたネットワークをつくる
http://globe.asahi.com/meetsjapan/090727/01_01.html
記事になっているのは、ボストンにある世界初の「科学領事館」である「スイスハウス・ボストン」。スイスと米国の大学、研究機関、企業、起業家などを、組織の枠組みを超えてつなぐネットワークの拠点として、スイスが国家政策の一環としてつくった。
多様な専門性と人脈をもった領事館スタッフが、ボストンエリアにあるハーバード大、MIT(マサチューセッツ工科大)や研究機関、ハイテク新規企業などに積極的に出向き、イベントを開催し、さらに人脈を広げていく。彼らが、スイスボストンに集う人々の「縁結び」を積極的に行う。
「これからの時代は、個人が持つ知識量ではなく、キーパーソンをつなぐネットワーキングによる「集合知」をいかに自分の知(脳)の拡張として使いこなせるかが鍵になる」
という菅谷さんの指摘は全く同感である。2004年に、MITやHarvardで開催される同様のイベントを見て、「僕も、こういうネットワーキングの場をつくりたい」と思い、Learning barをやりはじめた頃のことを、思い出した。僕は、こういう光景に憧れていたのだ。
それにしても、科学政策は僕の専門ではないけれど(でも、実は、科学教育学会の学会員だったりする)、スイスという国の「したたかさ」を思う。
日本の科学政策は、いかにあるべきなのか。そして、科学教育を研究する、とはどういうことなのか。
このあたりは、はこだて未来大学の美馬のゆりさん、宮崎大学の山口悦司さん、北海道大学の石村源生さん、JSTの中井祐輔さんあたりと、菅谷さんをまじえて議論すると面白いだろうな、と思った。
賢さは、「あなたのアタマの中」だけにあるのではない。
賢さは、「あなたとみんなのつながり」の中にある。
投稿者 jun : 2009年7月31日 08:58
噺家さんとお客さん
先日、パントマイム・パフォーマーのカンジヤママイムさんにお逢いしたおりに、お聴きした「噺家さんとお客さんのインタラクション」の話が忘れられない。
▼
噺家さんたちは、演劇場には舞台の直前にしか入らない。演劇場の楽屋には、ネタ帳というのがある。ネタ帳には、その日の朝から今にいたるまで、それまでの噺家さんたちが演じた「演目」がリストされているのだという。
噺家さんたちは、膨大な「演目」をすでに暗記している。彼は、このネタ帳を見て、自分の膨大な演目を検査する。自分が、次に、何の噺をすればよいかを、この時点で決定するのだという。
面白いのは、噺家さんが、ネタ帳を見たときの反応である。
一瞥して、
「今日の客は、素人が多いか」
「今日の客は、玄人が多いか」
を判断できるのだという。
素人の客が多ければ、それようのネタを用意する。玄人には玄人にきかせるネタがある。演目リストを見れば、だいたい玄人、素人が多いかは、おおよそわかるのだという。
ここには、こういうメカニズムが作動している。
まず、既に舞台にのぼっている噺家さんが、客の反応を見ながら、客は玄人が多いか、素人が多いかを判定していく。
その様子を見るか、あるいは、話をきいて、次の噺家さんたちは、自分の演目を決める。その演目を見て、また次の噺家さんは、演目を決める。「前の演目の配列」が、その次の「演目」を決めるリソースとなっている。
「何が演じられるか」「その日一日がどのような場になるのか」は、噺家さんたちだけによって、決定されているわけではない。
客の反応、そして、それを見た噺家さんの判断のインタラクションの果てに、「何が演じられるのか?」が決定されているのである。
▼
この世界は、以前、紹介した「茶の湯と卒意」の話とつながるところがある。茶の湯の世界では、「おもてなし」には、下記の3つの原則があるという。
1.準備を整えて客を待つ(仕度の原則)
2.くつろげる空間を演出する(しつらえの原則)
3.ゲームのルールを共有する(仕掛けの原則)
おもてなしは、まずは主人が取り仕切ることからはじまる。主人は、準備を行い、空間を演出し、客をまつ。あらかじめ前もって行う準備のことを「用意」という。
しかし、おもてなしの本質は「主人」だけにあるのではない。上記3のルールを共有した「客」と「主客一体」になって、相互行為として達成される、というところが最大のポイントである。これを「卒意」という。
おもてなしには、「用意」と「卒意」が必要である。つまりは、主人と客が、アドホックに機転を利かして場を構成する。
おもてなしが成功するかどうかは、主人だけにかかっているのではない。主人と客のインタラクションの中に、おもてなしがある。
「主人と客がともに一回かぎりの機会を思いやりをもって取り組もう」という「一期一会」、それにより「主人と客が心が通い合う状態」が生まれる「一座建立」は、こうしたインタラクションによって達成される。
▼
これは、おそらく、演芸や茶の湯といった世界だけに言えることではない。
フォーラム、セミナー、ワークショップというものでも同じだろう。きちんと主催者側が準備をしても、「お客さんが卒意をきかせてくれない場合」には、「よい場」にはならない。
もちろん、そもそも「用意」ができていない準備不足のイベントは多々ある。そういうものは論外にしても、いくら準備をしても、その場の成功は、主人だけで決定されるわけではない。
イベントを経験して、「あんまり面白くなかった」と感想を述べるのは簡単だ。
しかし、その場の構成のため、
あなたは「何」をしたのだ?
そういうことを考えてみる必要があると思う。
投稿者 jun : 2009年7月31日 07:15
「Learning bar-X インプロと学びを考える」が終わった!
昨日は、Learning bar-X。テーマは、「インプロと学びを考える」。東京学芸大学の高尾隆さんに、インプロを体験するワークショップをしていただいた。今回は、一番最初の企画以外の演出・当日司会・場づくり・ラップアップなどをすべて、東大ワークショップ部が担当した。
Learning bar-X
http://www.nakahara-lab.net/blog/2009/07/learning_barx.html
東大ワークショップ部
http://utworkshop.jimdo.com/
場づくりは、無味乾燥な東大の93B教室をいかにして、オーガニックでインプロな空間にかえるかが問われている。
はじめてあったばかりの人を、いかに互いに引き寄せ、インプロヴィゼーショナルな集合知を生み出すか。自らはサーバントリーダーとして、様々な人々の手助けをかり、場(相互作用の束)を構築するのか。
これからの学習研究者には、僕は、こういう資質が必要だと感じています。
東大ワークショップ部は、フードデザイナーのたかはしよしこさんや、空間デザイナーの笹本さんらの力を借りて、演出を行っていた。照明などは、イケアや無印まで買いにいったという。
インプロと学びについては、非常に多くのことを考えさせられた。同志社女子大学の上田信行先生、カンジヤママイムさんにも来ていただき、コメントなどをもらった。高尾君とお二人を出会わせることができて、僕は嬉しかった。カンジヤマさんは、早速、ブログに感想を書いてくださっている。
カンジヤママイムさん
http://kanjiyama.exblog.jp/
当日の様子は、東大ワークショップ部が報告してくれました。下記をご覧下さい。
Learning bar-X「インプロと学びを考える」
http://utworkshop.jimdo.com/2009/07/31/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%AD-learning-bar-x-%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%AD%E3%81%A8%E5%AD%A6%E3%81%B3%E3%82%92%E8%80%83%E3%81%88%E3%82%8B-%E7%B5%82%E4%BA%86//
僕としては、インプロに
・ロゴスが支配する学びを、「身体」によって
いかに脱構築するのか?
・通常、我々がもっているステレオタイプを
いかにUnlearnし、脱構築するのか?
という2つの可能性を感じています。
最後になりますが、当日ワークショップを担当いただいた高尾さん、中込さん、そして、東大ワークショップ部の舘野君、安斎君、牧村さんには心から感謝いたします。
会の途中、目眩に襲われ、体調が悪くなったので、僕はおいとまさせていただきました。その後の会議もキャンセルしてしまって、大変ご迷惑をおかけしました。ボロボロです、もう、僕は。
東大ワークショップ部に当日昼に無茶ブリした「ラップアップ」が、どんな風になされたのかを見られなかったのが、最後の最後まで心残りでした。
そして人生は続く。
投稿者 jun : 2009年7月30日 06:45
オープンなコミュニケーション
朝から著書の校正をしている。今日は、授業終了後、編集者の方々と打ち合わせがある。
何とかかんとか、粗々なものは出来上がりつつある。このまま授業開始の1時まで、ラストスパートで頑張ろうと思う。
▼
3章のくだり、組織学習の部分を校正していて、ふと我に返った。この部分では、「職場内の学習に強い影響を与えるのは、職場メンバー間にオープンコミュニケーションが成立しているかどうかだ」ということを説明している。
はて、オープンなコミュニケーションとは何か?
それは、どういう状態をさすのか?
▼
オープンなコミュニケーションとは、一言でいえば、「言いたいことをきちんといいあうこと」である。
誰にでも発言の権利があること、さらに言えば、メンバー間に意見の相違やコンフリクトが生じたときには、それを乗り越えようとする話し合いがなされるかどうかをさしている。
サラリと書いたのだけれど、これは本当に難しいことである。
とかく、人は「和」を重視するあまり、「本当は言いにくいこと」を言わないですますことがある。意見の相違はあっても、覆い隠してしまうこともある。
しかし、大人とは、思ったことを表出したい生き物である。
行き場のないメッセージは、かならず「アングラ化」する。
しからば、内に秘めたメッセージは、どこへ向かうのか。
まずは、ひそひそ声で、陰口がなされる。
さらに現代では、そのいきつく果てのひとつとして、さらに広大な空間が生まれている。オンラインだ。
意味深なメッセージを書いてみたり、宛先のない掃きだめのような罵詈雑言があふれる空間が生まれたりする。
そして組織には、今日も、「日常」が沈滞する。
人々は不機嫌な面持ちで、今日も、お互いを見つめる。
▼
どんな組織であっても、人が介在する限り、コンフリクトはつきものである。
問題は「コンフリクトがあること」ではない。
それを組織のメンバーが、どのように受けとめ、どのように解決しようとするのかである。
よい組織とは、コンフリクトがない集団ではない。
コンフリクトを恐れず、話しあう集団である。
「アングラ」「伏線」「ふくみ」が支配する日常を生きるのか。
はたまた、オープンなコミュニケーションがながれる日常を生きるのか。
自戒をこめていうけれど、どちらがよいのかを決めるのは、あくまで「自分たち」である。
投稿者 jun : 2009年7月28日 12:13
高槻にて
関西大学で久保田先生、黒上先生らが推進なさっているGPのシンポジウム+アドバイザリーボードに出席する。朝からシンポジウムが開催され、その後、アドバイザリーボード。
講演あり、学部生・院生さんらのポスターセッションあり、パネルあり、アドバイザリーボードによる議論ありの結構ハードなスケジュールである。一日高槻。学部生・院生さんたちの国際交流活動は、非常に本格的なもので、素晴らしいと思った。
東京都市大学の上野直樹先生に久しぶりにお逢いして、ご講演をお聴きする。学習環境デザインと教授法デザイン、学習カリキュラムと教育カリキュラムの違いについて、改めて考えさせられた。
アドバイザリーボードには箕浦康子先生がいらっしゃった。10数年ぶりにお逢いした。懇親会で「かつて、学部の頃、先生の授業をとりました」と言ったら、ほほえんでおられた。
明日、東京に帰る。
投稿者 jun : 2009年7月25日 23:05
キレイにまとめる研修
研修講師は、どうしても、最後に答えを言って、キレイにまとめたがるのです。受講者に最後にモヤモヤとした感情を残すと、研修後に実施されるアンケートでの満足度に響くからです。だから、答えを言ってしまいます。
多くの研修とは、一番最後に「正しい答え」をだすものなのです。
中原さんの実施するようなLearning barやセミナーのような終わり方を、絶対にしません。だって、来る前よりも、来た後の方が、モヤモヤ感は増していますから。
「考えるための素材が、今、これだけあります。
で、、あなたは、結局、どうしたいのですか?
今あるものを変える必要があるのですか?どうなんですか?」
と終わりますよね。たいていの人は、悩みます。だから、モヤモヤします。通常の研修ですと、こういう終わり方をすると、満足度が下がるのです。
▼
ある研修講師の方から聞いた話が、ずっと忘れられません。人生いろいろ、研修いろいろでしょうから十把一絡げにはできませんけど、「へー、そういうものなのかな」とも思いました。
疑問は2つです。
ひとつめ。
まず、「正しい答え」をもらった受講者たちは、それを本当に実践し、行動にうつしてくれるのでしょうか。
むしろ「正しい答え」をもらって満足はするけれど、そこで思考停止するのではないでしょうか。
ふたつめ。
そもそも、すべての現場に適用できる「正しい答え」など存在するのでしょうか。
たとえば、マネジャー向けの研修であったとするならば、どうでしょうか。すべての現場に適用できるような万能のルールや仕組みを教えることは可能なのでしょうか。
結局は、一人一人のマネジャーが、「自分の現場の状況」にあわせて、自分のあたまでソリューションを考える他はない、つまりは、自分の現場の状況に応じて、何を変えて何を守るのかを決める他はないのではないでしょうか。
内部の人間が実行するべき「正しい答え」を、なぜ外部の人間が、知り得るのでしょうか。
主張は1つ。
もし上記の疑問1に対する答えが、それぞれ「正しい答えをもらっても行動にうつさない」「正しい答えをもらって停止する」というのであれば、アンケートで満足度を取得する意味なんてあるんでしょうか。
むしろ、満足度を取得することで、研修効果を失わせているのではないでしょうか。
人生いろいろ、研修いろいろですので、すべてをまとめて論じることはできませんが、なかなか考えさせられました。
おかげでさまで、自分の主催する会の特徴についても、よくわかりました。僕は最後に「まとめ」は行いますが「正しい答えはこうだ」とは一言も言っていないということです。むしろ、「考える素材はこれだけあるけど、さて、あなたは、どうするんですか」と言っているんですね。自分では全く気づきませんでした(笑)。
Learning barに「正しい答え」はありません。
そこにあるのは「素材」と「問いかけ」だけです。
答えをだすのは「僕」や「講師」ではありません。
答えをだすのは「あなた」です。
そして、それこそが「大人の学び」だと僕は思います。
投稿者 jun : 2009年7月24日 12:59
さよならOJT、グッバイOFF-JT!
企業人材育成には、OJT(On the job training)とOFF-JT(Off-the job training)という2つの強固なラベルがあります。企業の中の学習、教育訓練を語るとき、誰もが、これら2つの言葉を使います。
アカデミックな定義としては、OJTとは
「職場において実施される、上位者と下位者の間の1対1の教育訓練」
をさします。それは「上司からの指導助言」と「上司からの権限委譲」から構成されるとされています。この2つの構成要素から考えるに、上位者とはいっても、そこで想定されているのは、限りなく「上司」に近い、ということがおわかりでしょうか。
一方、「OFF-JT」とは
「職場を離れて実施される教授行為」
をさす場合が多いと思います。
しかし、このOJT、OFF-JTという言葉は、様々なものを見落としてしまいがちです。
たとえば、OJTという言葉からこぼれ落ちてしまうのは、「職場の様々な他者と出会い、コミュニケーションする中での学び」です。
私たちが職場で「学ぶ」機会は、上司とのあいだだけに存在するものでしょうか。
あなたが最も成長したと思うとき、その傍らには、誰がいましたか?
あるいは
あなたが最も成長したと思う仕事を「一本の映画」にたとえるとするならば、そのエンドロールには、誰の名前を書きますか?
わたしたちは、実際は、同僚、部下、顧客・・・様々な人々と出会うことによって、学んでいます。しかし、OJTという言葉は、主に「上司」「上位者」に焦点化します。我々が日々経験するダイナミックな学びを見落としてしまいがちです。
一方、OFF-JTという言葉はどうでしょうか。こちらも、大切なものを見落としてしまいます。それは研修室における「インタラクティブでリフレクティブな学び」です。
一般に、OFF-JTで指示されている内容が「教授行為」とされているからです。とかくOFF-JTという内容から連想するのは、「知識を注入すること」に目がいきがちです。一方で、受講者の方々が、相互に話しあい、日々の仕事のあり方をリフレクションすることは、忘れ去られがちです。
さらに、さらに、もうひとつ見落としてしまうものがあります。それは、「OFF-JTとOJTの連携」です。
カリキュラム(学習経験:教育学では学習者の学習体験の総体をカリキュラムとよびます)という観点からは、そこに一貫性があってもよいものなのに、この2つの言葉があるばっかりに、連携が失われます。
OFF-JTは「研修所」で、OJTは「現場」でコントロールするという役割分担も生まれてしまいます。言語が現実を構成する、ということの典型が、OFF-JTとOJTにもいえるのです。
▼
要するに、僕が、言いたいことはひとつです。
皆さん、思い切って、OFF-JT、OJTという言葉の使用をやめませんか?
グッバイ、OFF-JT!
ほんじゃねー、OJT!
ってな感じです。
名残惜しいですか?(笑)
これらのカテゴリーは、見落とすものがあまりに多い。しかも、その見落としているものが、あまりに重大であり、現在のビジネス環境に照らして、失ってはいけないもののように、僕には思えます。
かつて、大量生産 - 大量消費を是とする時代は、OFF-JTとOJTという言葉の利用は、機能していたのかもしれません。しかし、今はどう考えても、これらの言葉は機能しているようには、見えません。
OJTに関しては、一般に、よく人は、
「OJTが機能していない」
といいます。
しかし、よくよく考えてみると、
「OJTという言葉が機能していない」
「OFF-JTという言葉が機能していない」
のだと思うようになってきました。
そういえば、僕が企業の研究を始めた頃、ある違和感を常に抱いていたことを思い出します。
教育という観点から見れば、「ラーニングはラーニング」であるのにもかかわらず、企業では「OJT」「OFF-JT」という言葉で、それが分けられている・・・ここに僕の違和感があったのかもしれません。そのときから、いつか、OJTとOFF-JTに「グッド・バイ」を告げる日が来ることは、僕にとっては、宿命だったのかもしれません。
OJTとOFF-JTという二つのカテゴリーの利用を辞めて、もういちど、自社の人材育成を見直すとき、そこに、「新しい育成のあり方」が生まれるのではないか、と思っています。
▼
それに、きっと、そんなに現場には抵抗がないと思いますよ。
理由は2つあります。
ひとつめは、これはMCCで授業をしているとき、受講者の方々と話していて気づいたのですけれど、「現場の方々は必ずしもOJTやOFF-JTという二つの言葉を知らない」ということです。それは人事で流通している言葉でありますが、現場で流通している言葉ではありません。
ふたつめ。それにもかかわらず、「OJT」や「OFF-JT」という言葉に関する現場の方々のイメージは、必ずしもよくない、色褪せているということです。そこには、どうしても「やらされ感」「またか感」が漂っている。
それなら、新しい育成のあり方、それにともなう新しい言葉をつくって普及した方が早いと思うのですが、いかがでしょうか。
えっ、御社では、まだ、
OFF-JT、OJTという言葉、使ってるんですか?
---
追伸.
また6時、研究室です。今日こそ、原稿を完成したい・・・。今から11時までが勝負です。でも、、、眠たい。嗚呼、そちらの国からお呼びがくる。閉じようとするまぶたを、セロテープでこじあけて、何とか生きながらえようと。
今日は、慶應MCCの「暑気払い」です。受講生の中に、真のナポリピッツァ協会の方がいらっしゃって、皆さんでピッツァを楽しむことになっています。24名くらいに宴会になるでしょう。実際、授業では皆さんとお話しする機会は限られます。楽しみにしています。
投稿者 jun : 2009年7月23日 07:47
保育園のこと
昨夜、自宅に帰ったら、カミサンが「動揺」している。どうしたのか、と聞いたら、急に、市役所から連絡があったのだという。
「入園を希望されていた認可保育園に空きがでましたので、明日の午前中までに入園するかどうかを決めてください」
今通っている保育園は無認可保育園。非常に小さく、アットホームな保育園である。
物理的スペース自体が狭いので、部屋のどこにいても目が届く。どちらかというと、先生と子どもの関係も、家族みたいな関係に近い。
対して、認可保育園は「大規模」である。1クラスの人数が40名以上もいる。それはどちらかというと、「学校」に近い。制服もある。
さてどうしたものか。
意志決定の期限は明日までである。
結局、どうするかを決めるために、「無認可 / 認可」「メリット / デメリット」の2軸で、2×2のクロス表をつくってみた。それぞれの枠に、メリットとデメリットを箇条書きする。我が家の意志決定は、すべてこれである。クロス表、最強。
▼
えっ、無認可と認可でしょ?、なんで悩む必要があるの?
人はきっとそういうかもしれない。
そうなんだ、そもそも、本来、悩む必要なんてないのかもしれない。これまでずっと望んできたことであり、喜ばしいことだ。心からそう思う。
認可には園庭もあるし、先生の数も多い。僕は専門家ではないのでよくわからないけれど、保育環境という観点から言えば、認可を選択するのが妥当なのかな、とも思う。
でも、たぶん、どこかで踏ん切りがつかず、クロス表までつくることになったのは、
「そんな大規模な保育園で、うちのTAKUZOがやっていけるのか」
と、どこかで心配しているからだと思う。頭ではロジカルな判断をくだしていても、感情がそれにおいついていない、というのが正確なのかもしれない。
TAKUZOは、おっとりとした子である。ケンカも好まない。どちらかというと、女の子に近い。物静かで、控えめで、甘えんぼうである。病弱なことも、その背景にあるかもしれない。少なくとも親の目にはそう見えてしまう。
今まで通っていた無認可の保育園は、どちらかというと、そういう事情を知った上で、TAKUZOを受け入れてくれた。
今度の大きな保育園でTAKUZOはサバイブできるのだろうか。たぶん、取り越し苦労になるんだろうけど、それが親としては心配なのかもしれない。
▼
結局、あーだこーだ話し合った結果、認可保育園を選択することにした。
いつかはTAKUZOも、様々な人にもまれながら、生きていく必要がある。そうであるならば、最初はいろいろあるかもしれないけど、より「大きな社会」に参加していくことが重要なのではないだろうか。
TAKUZOは、親が思っているより、いろいろなことにチャレンジできるはずである。新しい環境でも、きっと適応できるだろう。もし万が一適応できなくても、そのときは、今までの保育園に帰ればいいではないか。
結局、こういうことになった。
▼
「たかが保育園をかわるくらいで大げさな」と人は思うかもしれない。もし、かつての僕が、他人のこういう話を聞いたら、そう思っただろうから、容易に想像がつく。「そう、大げさ」なのである。でも、自分の子どもを前にして、意志決定をする段になったとき、様々な思いが去来する。
たかが保育園
しかし、されど、保育園なのである。
新しい場所でも、TAKUZOが明るく楽しく生活できれば、それ以上に、僕にもカミサンにも、望むものはない。
ほんと、それだけなんだよな。
投稿者 jun : 2009年7月22日 12:27
NECが3000人の対話集会
金曜日のことになりますが、下記の情報が日経新聞に掲載されました。NECが3000人の「対話」を行う、そうなのです。この場を、どのようにファシリテーションするのか。そして、どのような効果が生まれるのか、大変興味深いところです。
NEC、3000人の対話集会 グループの将来像討議
http://www.nikkei.co.jp/news/sangyo/20090717AT1D150EE16072009.html
---
近況。
ここ3年間にわたって研究開発を進めてきたプロダクトが、いよいよダイヤモンド社から発売になりました。
「職場の育成」「現場の学び」の状況を「見える化」して、改善に役立てるための診断ツールです。名前を「WPL:現場の学び(ワークプレイス・ラーニング)診断システム」といいます。
現場の学び(ワークプレイス・ラーニング)診断システム
http://jinzai.diamond.ne.jp/other.command?url=test/wpl.html
中原は松尾先生と一緒に、本プロジェクトの企画・執筆・監修などを担当しました。9月15日には記念セミナーも開催します。
記念セミナー
http://jinzai.diamond.ne.jp/item_detail.command?item_cd=SEMINAR0016&category_cd=
研究開発は困難を極めました。これまでの基礎研究に加え、プレプレテスト、プレテスト、本番テストと3度のテストを繰り返し、質問項目および診断ロジックを確立しました。
WPLでは、様々な単位で「見える化」が可能です。「個人に対するレポート」「職場のマネジャーに対するレポート」「経営者や人事に対するレポート」といったかたちで、診断結果が表示されます。
また、WPLの結果をもとに、現場のマネジャー・社員の方々に日々の仕事を内省していただくためのワークショップキットも開発しました。内製化時代に対応し、それぞれの会社でワークショップが実施できるよう、ファシリテータ養成講座も用意しています。
WPLを活用したワークショップファシリテーター養成講座
http://jinzai.diamond.ne.jp/item_detail.command?item_cd=SEMINAR0015&category_cd=
WPLを利用すれば、これまでブラックボックスと化していた職場の中が見える化します。新人の配属や、職場育成力の向上のためにも使えるかもしれません。
そして人生は続く。
投稿者 jun : 2009年7月21日 08:32
Party of Third place learning collection
連休、皆さん、いかがお過ごしですか?
僕は、「子育て」+「子育ての合間をぬっての仕事」に明け暮れています。週末ちょっと具合が悪かったのですが(先週は本当に気が狂うかと思うくらい激務だった・・・具合が悪いのは単なる疲労です)、何とかかんとか、元気になりました。でも、一時発熱したので、危なかった・・・ふぅ。
今は、元気に、相も変わらず、原稿の執筆(ただしくいうと、加筆・修正)にあけくれています。
▼
日曜日。
午前、家の近くにあるプールへ、TAKUZOを連れて行きます。TAKUZOにバタ足を教えます。まぁ、完全ではないけれど、TAKUZOは、浮き輪とバタ足で、少し泳げるようになりました。しめしめ。
ヘロヘロになるまで泳いで、ランチをとったあと、ベビーシッターさんにまかせて、僕とカミサンは仕事へ出掛けます。
僕は初台のNTT ICCへ。電車の中では爆睡しました。終点で駅員さんに起こされました。はじめてです。
ICCでは、上田先生の展覧会を楽しんだあと、場所をうつして、某プロジェクトのミーティングです。
実は、12月26日、有志で「ラーニングに関するイベント」をやることになっているのです。それも「パーティ」という形式で。
今までにない場所で、誰も見たこともない演出で、記憶に残る場をつくろうとしているのです。
▼
今日は、急遽(たまたまICCでお逢いした)、広告代理店のKさんにも参加いただいて、「なぜファッションメゾンがパーティをするのか」についてお話しを伺いました。
パーティというと、ファッションメゾンがその最先端を切っていますね。例えば、パリコレはそのファッションメゾンが世に問いたいコンセプト(コレクション)を提案する場です。
で、なぜパーティなのか。
それは、「ファッションは空間とともにあるから」だそうです。「空間から構築し、コレクションの世界観(コスモロジ)をつくること」がパーティでめざされることだそうです。
当然、そこには、たくさんの工夫がある。招待状から始まって、各種のアクティビティ、さらにはゲストそのものがコンテンツとなるような仕掛けがたくさんちりばめられているのです。
話を伺っていて、ファッションのパーティデザインから、学習環境デザインが学ぶことは非常に大きいな、と思いました。
また、Kさんが「私たちの仕事は結局、学習環境デザインそのものなのです」とおっしゃっていたことも、非常に印象的でした。
▼
あー、本当ならば、この後、本屋さんに言って、ファッション業界の本を大量に、大人買いしたい・・・。衝動にかられましたが、僕には、もう残されている時間はありません。ベビーシッターさんと交代の時間です。
まぁ、欲してもかなわぬくらいが丁度よいのかもしれません。だから集中力をもって、事に取り組むことができるのかもしれない。ものぐさな僕には、このくらいがよいのです。
明日は、ママが一日仕事なので、TAKUZOと一日過ごします。
そして人生は続く。
投稿者 jun : 2009年7月19日 17:10
ヴィジョンとは「憧憬」である!?
昨夜、元・リクルートWorks編集長で、現在、ジェイフィール・執行役員を勤めていらっしゃる高津尚志さんに、授業でご出講いただた。組織理念に関する内容である。
高津さんのお話しは、いつもInsightfulであり、Informativeである。その中でも印象に残ったのは、
ヴィジョンとは「憧憬」と訳するのがよいかもしれない
ということであった。
「組織のヴィジョン」というと、どこか、「他人事」のような気がする。誰かがつくって、それをいかに落とすか(浸透させるか)という話になる。
そうではなくて、ヴィジョンとは「自分が仕事を通じて抱く憧れ」であり、「職場で働く他者が仕事を通じて抱く憧れ」である。
高津さんがおっしゃりたかったことは、おそらく、そこに共通点やつながりを見いだせたとき、つまりは「組織が事業を通じて抱く憧れ」が存在したとき、はじめてヴィジョンはヴィジョンとして機能するのではないか、ということではないか、と思う。
慧眼である。全く共感する。そして、これが既存のミッションマネジメントの議論にすっかり抜け落ちていることであると僕は思う(先行研究ではいくつか指摘は存在するが、実証的ではない)。
この考え方は、センスメイキングを重視したカール=ワイクや、社会構成主義の考え方に近い。次々週では、そちらに関しても、長岡健先生にご講義いただく予定である。こちらも楽しみだ。
最後に。
高津さんが、プレゼンの中でヴィクトール=フランクルの言葉を引用なさっていた。
人間の主な関心事とは
喜びを得ることでも
痛みを避けることでもなく
自分の人生に意義を見いだすこと
フランクルの言葉に触れるのは、そういえば、十数年前、そういえば、学生の教養学部以来である。僕の人生の意義とは何だろう。思わず、考えさせられた。
---
追伸.
今日は午前8時青山集合。ダイヤモンドさんとのお仕事である。
今週、東京は暑い。そんな週に限って、スーツ+Yシャツの日が多い。こんなことを言うと怒られるかもしれないが、ふだん着慣れないだけに(いつもTシャツ+短パン+サンダル)、むちゃくちゃ疲労を感じてしまう。
はやく、「大人」にならなければ。
投稿者 jun : 2009年7月17日 06:08
まだはじまったばかり・・・
近況。
ようやく、論文、投稿しました。はじめての経営学系の学会への投稿になります。この4ヶ月くらい、暇を見つけてはシコシコと書いていましたが、ようやく書き上がりました。
ここでお名前をだすことはできませんが、お忙しい中、ご試読いただいた皆様、どうもありがとうございました。
やはり、アウェイの学会というものは緊張するものですね。教育学系の学会だったら、もう緊張というものはあまりないのですけれど、久しぶりに、学生時代の頃を思い出しました。結果はどうあれ、僕にとっては、よい成長の糧になったと思っています。結果に戦々恐々としつつ、密かに楽しみです。
▼
今日からは、次の仕事です。この後、新書を1冊、単行本を1冊が待っています。
その後は、いよいよ単著(専門書)の執筆に入りたいと思います。僕は、今まで論文では専門的なことを論じ、書籍は一般向けと位置づけてきました。
でも、一度、ちょっぴりハードな専門書を書いてみたくなりました。こちらもかなり難航しそうですが、少し長期的な視野にたって、何とか取り組んでいきたいと考えています。
企業における学習研究に着手して、5年以上が経過しています。ようやく自分の中で、散発的に行っていたものがまとまってきました。また、ようやく仮説らしきものが、頭の中で浮かんでは消えるようになりました。
僕は、やはり「個人」というよりは、「職場」あるいは「職場における個と個のインタラクション」に興味があるようです。
そういう意味では、結局回り回って「協調学習」に戻ってきたような感覚をもっています。はからずも・・・。
我が研究人生は、まだはじまったばかりです。
投稿者 jun : 2009年7月15日 08:46
寝相
朝6時・・・本郷の研究室に着きました。
昨夜は、TAKUZOと寝ていたのですが、ひどいね、奴の寝相は。蹴るわ、殴るわ、頭突きはするわ、回転するわ。そのたびごとに起こされる。オマエ、絶対、わざとやってねーか?
いわゆるひとつの「家庭内暴力」です。それにしても、よく、カミサン、毎日、TAKUZOと一緒に寝てるよな・・・。尊敬するわ。
まぁ、僕は眠りが浅いので、余計、そう思うのかもしれないけれど。
昨日、TAKUZOの寝顔が可愛かったので、一緒に寝ようと思ったのですね。よせばいいのに。それが運の尽き。全く眠れなかったなぁ。おかげで、今日は4時起き。で、6時に大学というわけです。
▼
でも、ここからが大変で、6時に着いたら、今度は、大学の門があいてない。正門も、赤門も。でも、キャンパスの中には、たまーに、人がいる。どーいうこっちゃ。
結局、小さな隙間をのぼって、キャンパスに入ったんだけど。おもいっきり、「侵入者」じゃねーか。なんか悪いことしたみたいで、感じ悪いな。
▼
今日は、9時から会議が続きます。
今のうちに、たまっている仕事をこなします。
投稿者 jun : 2009年7月14日 07:21
聴くこと、語ること
某氏の博士論文で参考文献として引用されていた本「聴くことの力」を読みました。著者は大阪大学総長の鷲田清一氏。臨床哲学を標榜する鷲田先生は、哲学に対する自省的な思惟の果てに、「聴くこと」にたどりつくのです。
最も印象的だったのは、冒頭に紹介されている末期医療の研究者による質問紙調査の質問項目でした。
わたしは、もうだめなのではないでしょうか?
と語りかけてくる患者に、あなたなら、何と答えるだろうでしょうか。
1.「そんなこといわないで、もっと頑張りなさいよ」と励ます
2.「そんなこと心配しないでいいんですよ」と答える
3.「どうしてそんな気持ちになるのと聞き返す」
4.「これだけ痛みがあるとそんな気にもなるよね」と同情を示す
5.「もうだめなんだ・・・と、そんな気がするんですね」とかえす
さて、上記の5つの質問、、、これに対する、あなたの答えはどれでしょうか。
調査の結果、精神科医をのぞく医者、および医学生は1を選ぶひとが多かったそうです。看護師の場合は3。精神科医が選んだのは5だlったそうです。
言うまでもなく、5は、患者の語りかけに対して何も「答えていません」。
1のように「励ます」わけではなく、2のように「示唆」を与えるわけでもありません。また3のように「理由」を問うわけでもないですし、4のように「同情」を示すのでもないのです。ただ単に「受けとめる」だけなのです。
末期医療は僕の専門分野ではないので、この答えに関する専門的な考察は、僕にはできません。でも、想像力をはたらかせ、この状況を想うとき、「圧倒的な受容」というものが、僕たちの日常生活に如何に欠けているか、自戒を込めて思うのです。
「聴くことができない」というのは、「語りかけることもできない」ことを意味します。なぜなら、「聴くこと」によって、自分の発する言葉の「宛先」が明瞭になり、「誰か」に対して、適切な語りができるからです。
語ることとは「雄弁」であることを意味しません。雄弁であっても、どんなに勇ましく、とぎすまされた言葉であっても、「宛先」を失えば、空中に漂流します。
僕は「聴くこと」ができているのだろうか?
そして、僕は「語りかけること」ができているのだろうか?
僕にとって、永遠の課題かもしれません。
投稿者 jun : 2009年7月13日 09:50
ライブラリーつきの社員食堂
仕事をこなしてもこなしても、次がどんどん降ってきて、「発狂寸前」です。「死にかけ人形」状態といっても、いいかもしれません。TO DOリストは、期限を過ぎたTO DOだらけで、もう意味がなくなりました。書いたって、書かなくたって、同じです(笑)。増えることはあっても、もはや「減ること」はありません。
しかし、それでいて、どことなく、何とかなるだろう、と思っているところが、我ながら、怖いところです。まぁ、のんびり、やろうと(笑)。ひとつひとつ、粛々とこなしていきます。だから、結構、元気だったりします。粛々とやるしかないことは、粛々とやるしかないのです。
▼
金曜日、講演です。その後、ディレクターの大房さんと台本の打ち合わせ。お互いの理解のすり合わせをしました。新しい台本が週明けあたりにはおくられてくるようです。
その後、赤坂にある博報堂さんの新社屋にお邪魔しました。博報堂さんの社内教育施設「博報堂大学」と、それにつながるキハチカフェ、ライブラリー、レストランを見せていただきました。
うーん、すごいね。全く、いわゆる「社員食堂」には見えません。ものすごく落ち着く空間でした。下記に記事があるようですから、ぜひ、ご覧下さい。
博報堂
http://bizmakoto.jp/bizid/articles/0901/13/news061.html
特に印象深かったのは、ライブラリーとカフェが併設されていることです。ライブラリーというと、「飲食厳禁」というイメージがありますけれど、分別ある「大人」なら、リラックスしてお茶を飲みながら、本を読んだとしても、大丈夫なのではないかな、と思います。
実際、カフェに併設して、ライブラリーの利用率は、ぐーんとあがったそうです。社員の方々の知的生産にも、かなり影響があるのではないか、と推測します。大人の学びの場合、「Learning」と「Eating」「Drinking」は一体であるような気がします。僕が食いしん坊なだけかもしれませんが。
見学のあとは、キハチのレストランで、一献。超高層ビルの窓越しに飲むビールは、なかなかよろしいものです。さらに、赤坂で毛蟹などを一献。
博報堂大学の田沼さん、百合岡さんには大変御世話になりました。この場を借りて御礼申し上げます。ありがとうございました。
▼
日曜日、妻が、公園にTAKUZOを連れて行ってくれました。僕は、今から仕事です。ここからが勝負です。たまった仕事をガシガシとこなします。午後からはタッチ交代。今度は、妻が仕事で、僕がTAKUZOです。
そして人生は続く。
投稿者 jun : 2009年7月12日 09:42
小鉄のためのレストラン!?
先日は、珍しく(!?)、僕もカミサンも両方お休みでしたので、TAKUZOを連れて、おでかけしました。今日の目的地は「東京駅」です。
本心をいうと、何も休日まで「東京駅」に来たいとは思わないのですが(いつも行っているから)、ここには、TAKUZOの好きな電車をたくさん見ることのできるレストランがあるのです。
OAZOの中にある「えん」に向かいます。
和食えん
http://r.gnavi.co.jp/a186416/
ここは、小鉄をもつ親には有名なレストランのようです。個室の窓からは、新幹線を含めて、東京駅のありとあらゆる電車の行き交う様子が見えます。
TAKUZO、大満足です。
「しんかんせん、きたねー」
「700系きたねー」
とか言っています。
「なんとか系」と言われても、パパにはさっぱり(笑)。
窓際には石ころがおいてあります。都会に生まれたTAKUZOには、石ころがめずらしいのです。石ころを列べて、電車をつくります。
「はっしゃ オーライ!」
だそうです。
石ころ電車の車掌さんになったつもりになっているのでしょうか。
また「電車」ですか(笑)。
▼
ともかく、TAKUZOの頭の中は、リアル「東京駅」です。おそらく、右脳から左脳まで、ひっきりなしに「電車」が行き交っているのでしょう。
まぁ、好きなことがあるのは、よいことですけれども。でも、どうせやるなら、中途半端じゃなくて、極めて欲しいと僕は願います。
ちなみに、レストランを出たあと、OAZOのビルの片隅にある公園にいきました。僕は、知らないうちに、ベンチで寝てしまいました。外は、クソ暑いのですけれども。
ちなみに、まだ大学生だった頃、昼下がりの真夏の公園で爆睡しているサラリーマンたちをよく見ました。きっと疲れているんでしょうね。わずかな時間でも、お昼寝です。で、そのときは、こう思っていたのです。
「このクソ暑いのに、よく、こんなところで眠れるよなぁ・・・」
いいえ、違うのです・・・そのことに今になって気づきました。
彼らは「眠っていた」のではないのですね。
本当は「倒れていた」んです(笑)。「疲れて、嗚呼、プチ気絶」というやつです(笑)。だから、クソ暑くても、「眠っていた」のです(笑)。笑い事じゃねーよ。
子育ては、Hard funです。
そして、今という時期は、決してあとから経験できません。
人生は続く。
投稿者 jun : 2009年7月10日 10:30
「思考停止するビジネス書」と「問いかけるビジネス書」
この世には、二種類のビジネス書があります。
「思考停止するビジネス書」と「問いかけるビジネス書」です。
▼
「思考停止するビジネス書」には、その著者に「迷い」や「戸惑い」がありません。彼/彼女は、「事実」を知っているのです。それを支配している語り方は、「もし○○したかったら~しなさい」です。
著者が何らかのかたちで所有している「権力」 - 人気、社会的立場、成功の経験 - を背景にして、彼/彼女は、自信をもって高らかに、言い放ち、あなたに迫ります。
「もし○○したかったら~しなさい」
読者は、「迷い」や「戸惑い」のない著者の言葉を心地よく受け止めることができます。なぜなら、「自分の頭で考える」必要がないから。
それさえ従順に実行していれば成功が約束されると、彼/彼女が言うのだから、考える必要がありません。つまり「思考停止」するのです。
「思考停止」は、いつだって、心地よいものです。「自分の頭で考えること」が重要なことはわかっていつつも、「考えること」で生じてくるモヤモヤ - つまりは、「わからなさ」に、人はなかなか耐えることができません。
そして、「自分の頭で考えること」をあきらめるのです。「誰かがだした答えや処方箋」を求めるのです。そのことで、「誰か」に知的隷属ことと引き替えに、「答え」を手に入れるのです。
逆説的ですが、「考える」とは「モヤモヤ」することです。
「わかる」とは、「わからなくなること」、なのです。
かつてT.S.エリオットはいいました。
我々のすべての探求の最後は、初めにいた場所でありその場所をはじめて知ることである
知的探求も同じです。「わからなさ」からスタートして、あなたは、いつの日か、わかる時を迎えます。しかし、そのとき、あなたはスタートした地点、つまりは、わからなさの中にいるのです。
「わからなさ」を決して諦めてはいけません。モヤモヤしていること、戸惑い、葛藤を誤魔化してはいけません。それを誤魔化そうとする、美しい「誰かの答え」を、安易に受け入れてはいけません。自由で主体的な生き方を自ら選びたいのであれば、自ら考えることだけは、放棄してはいけません。
▼
一方、「問いかけるビジネス書」は、著者に「迷い」「戸惑い」があります。つまり、著者自身、自分の語っていることが、あくまで「仮説」であることを重々認識しています。しかし、反面、膨大なデータや理論的背景のもとに、ようやくつかんだその「仮説」が、ある一面では、読者に「考えるヒント」となることの可能性を信じています。だから、彼/彼女は、今自分がもっている自分の思考やデータをなげうって、読者に問うのです。それはあくまで仮説に過ぎないかもしれないけれど、敢えて問うのです。
これは、ある先生にお聴きしたことですが、経営学の泰斗ヘンリー=ミンツバーグは、この問題に関して、こういう言葉を残しているそうです。
With the vast amount of data, I have the right to dream...
結局、ミンツバーグが言いたかったことは、こうではないでしょうか。
「自分は、これまで様々なデータを集めて、理論を構築してきた。それを総合して、「きっと、こうではないか」といういくつかの仮説を得ることができた。読者にとって、それは、もしかしたら"考えるヒント"になるかもしれない。もちろん、それは、僕の「夢」かもしれない。しかし、これだけやってきたのだから、その「夢」を見る権利、夢を語る権利は、僕にはあるはずだ」
▼
「問いかけるビジネス書」を支配する語り方は、こうです。
「もし○○だったら、あなたはどうしますか」
彼/彼女には、「もし○○したかったら~しなさい」という語り方はできません。言い得ることは、あくまで「もし○○だったら、あなたはどうしますか」です。しかし、この問いは不完全です。「問いかけるビジネス書」の読者には、読後に、「モヤモヤ感」が残ります。なぜなら、「答え」は呈示されていないから。あくまで、著者が呈示しているのは「考えるヒント」であるからです。
「問いかけるビジネス書」は、人を思考停止させません。むしろ、読者に「思考すること」を促すのです。
▼
「自己啓発」「大人の学び」「人材育成」に関するビジネス書が巷にあふれています。しかし、仮に、それらの本が「思考停止するビジネス書」であるのだとしたら、それは「論理矛盾」です。
本の中で、「大人に学べ」「大人に自分の頭で考えろ」と主張しつつ、反面、人々に「思考停止をせまる」からです。
これは本だけに言えることではありません。「講演」にだって、「セミナー」にだって、「ケーススタディ」にだって、いえることです。
答えは、「本」や「講演」そのものには、ありません。
答えは、いつだって、あなたの「思考」の中にあるのです。
あなたが、今、手にとっているビジネス書は、あなたに何を問いかけてきますか?
投稿者 jun : 2009年7月 9日 09:21
時間、空間、身体、言葉
先日、ある先生と、とりとめもなく、こんな話をした。
子どもの学びは「空間」により分節化されるところが大きい。
砂遊びをするときは「お砂場」へ。絵を描くときには、「図工室」で。身体を動かすときには「体育館」へ。「活動」にとって「最適な空間を選ぶ」という発想が、どこかにある。
「時間」が全く意識されないというわけではないけれど、それが分節化に果たす役割は、それほど大きなものではない。時間は、ゆるやかに流れていく。
しかし、年をへるにしたがって、「空間」よりもむしろ「時間」が気にされるようになる。
誰もが「時計」を気にし始める。「空間」により学びを分節化することは少なくなる。何をしようが、基本的には「教室」でいいよね、ということになる。
学びの時間は、「時間割」「カリキュラム」というものに分節化され、細切れにされる。「いかに早く」「いかに効率化するか」が問われるようになっていく。
「時間」が学びを支配しはじめるのである。
▼
「身体と学び」という問題もある。
最も幼い頃は、「身体を動かすことが学ぶこと」でもある。身体を思い切り動かすこと、動かすことができるようになることが、学びである。しかし、いつのまにか、学びにおいて、身体が果たす役割は少しずつ失われる。
一方、役割を大きくしていくものもある。「言葉」である。
特に、最初の頃は、「発話」が果たす役割は大きい。学ぶこととは発話すること、意見を交換すること、ということになる。小学校の教室では、発話が溢れている。教室には、活気のある子どもたちの「声」があふれている。
しかし、その時期も長くはない。
知らないうちに、「書くこと」が、重視されるようになる。子どもの声は失われ、教室には「沈黙」のけだるい雰囲気がただよいはじめる。
学ぶこととは「板書をすること」「ノートを書くこと」と見なされる。学びはテストという「書き物」によって評価されるようになる。
「書くこと」が学びを支配し始める。
▼
空間、時間
身体、言葉、発話、書くこと
上記のような視点から、自分の生きてきた軌跡を - つまりは、あなた自身の学びの軌跡 - を、あなた自身、たどってみるとよいかもしれない。
あなたにとって、「時間」を気にしながら、机の上で「書くこと」が、「学ぶこと」になったのは、いつのことだろうか。
あなたは、何を得て、何を失ったのか。
「今のあなた」は、「あのときのあなた」がなりたかった、「あなた」なのか?
自分の学びについて考えることは、生きてきた軌跡をふりかえることでもある。
投稿者 jun : 2009年7月 8日 07:07
上田信行先生の「プレイフルシンキング」を読んだ!
楽しく学ぶということではない
楽しいことの中に、学びはあふれている。
(Nobuyuki Ueda)
---
上田信行先生(同志社女子大学)の待望の新刊が刊行されました。「プレイフル・シンキング」(宣伝会議)です。
これまでの、上田先生の無数の実践(歴史)を振り返りつつ、ワクワクドキドキしたマインドセットをもちつつ、「仕事」に「学び」に取り組むことの可能性を論じています。
上田信行先生(同志社女子大学)
http://www.dwc.doshisha.ac.jp/research/data/811.html
背景にある理論群は、実は、めちゃくちゃ深いのですが、記述は一般向けで非常に平易です。所々にイラストがあって、なごみます(プレイフル君)。おすすめの一冊です。
▼
本書は、いろいろな読み方ができる本であるように思います。
第一には、本書のメインの読み方、すなわち自己啓発の本として。
モティベーションの維持は、現代を生きるすべての人々にとって、非常に重要なことですが、それを自ら考えるための素材として、非常に重要な指摘を行っています。
▼
第二に、専門書へのガイドとして。
本書はモティベーションの問題を扱っていますが、その背景にあるのは、キャロル=S.=ドゥエック(スタンフォード大学教授)のFixed Mindset, Growth Mindsetの理論です。
ドウェックは、学習者が自らの学習や能力に対して抱く信念が、学業成績に強く影響を与えることを明らかにした研究者として、知られています。
上田先生は、大学院時代、ドウェックに薫陶を受け、そのモティベーション理論と、MITのシーモア=ペパートの構成主義をミックスした実践を、これまで実施してきました。
本書は、ドゥエックの研究や、パパートの構成主義に入る前の入り口として、非常に適切な本だと思います。
ちなみに、最近ですと、ゲイリー・レイサムの「モティベーション研究の教科書の決定版」ともいえる「ワークモティベーション」が翻訳されています。
「ワークモティベーション」は、モティベーション研究の歴史を丹念に記述した非常によい本です。
上田先生がプレイフルシンキングで扱った内容は、「ワークモティベーション」では、目標志向性理論、自己調整の理論の部分に触れられています。
▼
第三に、ワークショップの実践家のバイブルとして。
今でこそ、ワークショップという言葉は、どこでも流通する言葉でしたが、わずか10年ほど前までは、誰も使っていませんでした。(教育工学会の大会の申し込みカテゴリーに、ワークショップというカテゴリーが設けられたのは、わずか数年前!)
上田先生は、その時代から、ドウェックやパパートの理論的背景をもとに、「ワークショップ」の可能性を信じ、自ら実践してきました。
奈良県吉野に、NeoMuseumというワークショップのための空間も設計・建築なさいました。
NeoMuseum
http://neomuseum.org/
彼が実践したワークショップは、多くの人々に強い影響を与えました。ちょっと前ですと、MITのジョン前田さんとのコラボのワークショップ「Human powed computing」などが有名です。
Human powed computing
https://secure.kanshin.jp/chizai/?mode=keyword&id=213280
今年の夏には、NTTのICCで、展覧会「プレイフルラーニング」の監修をなさっています。
プレイフルラーニング
http://www.ntticc.or.jp/Exhibition/2009/Kidsprogram2009/index_j.html
現在、いろいろな方が、ワークショップを実践していますが、その源流のひとつとして、彼が、創始したものは非常に大きいと思います。僕も、ワークショップをやることがありますが、そのほとんどは、先生から学びました。
場づくりやインフォーマルラーニングに興味をお持ちの方にも、おすすめです。人が出会い、交歓する場を、どのようにデザインすればいいのか? 上田先生の実践は、非常に多くのインスピレーションを与えてくれます。
ちなみに、昨日、ちょうど、美馬のゆり先生が研究室にいらっしゃったのですが、僕が、上田先生の本を差し出したら、
「ついに、こういう時代が来たんだね。十数年前は、誰も、使っていなかったのにね」
とおっしゃっていたのが、印象的でした。
▼
上田先生とはじめてお逢いしたのは、今から13年ほど前のことです。当時、東大を卒業し、大阪大学大学院に進学した僕は、学部時代の指導教員だった佐伯先生から、
「大阪に行ったら、上田信行先生という、非常に面白い先生がいるから、ぜひ逢ってお話を伺うように」
と言われておりました。
はじめてお逢いしたのは、当時、上田先生がお勤めになっていた甲南女子大学です。上田先生は、今と全く変わる様子なく、ワークショップ型の授業をなさっていました。
上田先生と僕は、実は、父親と息子くらい年が離れているのですが、全くそんなことを感じさせない方でした。自らエナジェティックであり、まわりをエナジャイズしておられました。
それから10数年・・・上田先生は、10数年前も、そして今も、常に、「時代」をつくってきたラーニングアーティストでした。
楽しく学ぶということではない
楽しいことの中に、学びはあふれている。
上田先生の、このメッセージは、当時も今も、常に一貫していたように思います。
上田先生は、僕が最も影響を受けた研究者の一人です。そして、社会に影響を与えた、いいえ、これからも社会をエナジャズしつづける教育工学研究者の一人ではないでしょうか。
ぜひ、ご一読いただければと思います。
おすすめです。
投稿者 jun : 2009年7月 7日 08:53
長期間にわたるプロセスの支援
「マネジャーを育成するには、長い時間がかかります。その長期間にわたるプロセスを把握し、しっかりと支援することが重要なのです」
▼
最近、僕が関与する授業、公開研究会等でご登壇いただいた方々は、皆、このようなご主旨のご発表をなさることに気がついた。「長期間」「プロセスの支援」という言葉がキーワードである。
例えば、先日、慶應MCCでご登壇いただいた三井住友銀行人事部の田中さんは、「マネジメント人材の育成は単発のスキルや能力開発だけでは不十分。マネジメントの目的とプロセスを理解・意識させ、長い時間をかけて育成する必要がある」とおっしゃていた。
同じくMCCにご出講いただいた、一橋大学の守島先生は、日本企業に適応した「戦略人材マネジメント」として、「組織がもっている強みを生かすような長期間の人材マネジメント」を主張なさっていた。
そういえば、Learning barにご登壇いただいたマイクロソフトの小林さんも、リーダーシップの開発は「長期にわたるプロセスの支援」だとおっしゃっていた。
▼
ちょっと前まで、この領域では、「いかに即戦力にするか」がキーワードであったように記憶している。
その時以来感じていたことだが、人が熟達化するには長い時間がかかる。あまりにも「長期」になってしまうのは問題あることであるけれど、かといって、人材育成を、あまりに短期に解決する問題として捉えてしまうことは、問題の本質を見誤るような気もする。
しかしながら、「長期にわたるプロセスの支援」というのは、かなりの難題である。現場で起こっていること(プロセス)をどのように可視化し、把握し、適切な施策を打っていくのか。これまで以上に、難しく、しかしそれでいて本質的な問題空間が、我々の目の前に広がっている。
投稿者 jun : 2009年7月 6日 08:52
演じることと学ぶこと
先日、劇作家・大阪大学教授の平田オリザさんにお逢いした。平田さんがMCCで実践なさっている、「社会人を対象にした演劇のワークショップ」を見学させていただいたのである。
平田さんの活動は、これまで、多くの知人づてに、いろいろとお話をお聞きしていたのであるが、実際にお逢いしたのは、はじめてだった。
短い間しかお話しできなかったけれど、「演じること」「対話すること」に関しての平田さんの語りには、一つ一つ言葉に重みがあって、非常に印象深かった。ぜひ、今度はゆっくり時間をとって、お話をさせていただきたいものである。
▼
既にお知らせしているように、今度、Learning bar-Xでは、「インプロと学び」をテーマに公開研究会(ワークショップ)を開催する。
この研究会には、同志社女子大学の上田信行先生、パントマイムのパフォーマーとして有名なカンジヤママイムさんなどに、ご参加いただく予定である。
東京大学ワークショップ部の舘野君、安斎君、牧村さんが、ディレクション・演出を担当する。
▼
最近、「コミュニケーションと学び」に関する議論では、とみに「演じること」「身体を動かすこと」にスポットライトがあたっているように感じる。
これは「感じる」としかいいようがないのだけれど、様々な領域で、同時多発的に、同じようなことを、違った背景の人々が述べている。ちょっと週末に調べたら、論文数も激増というわけではないが、増えている。いわゆる「シンクロニシティ」なのかもしれない。
考えてみれば、これまでの「コミュニケーションと学び」に関する議論で焦点化されていた「議論」「対話」とは、いわゆる「ロゴス」の世界である。
ロゴスの世界にある学びで見逃されていたものは、「身体」の問題である。身体をもってかかわること、理解することに、人々の関心が当たっているのかもしれない、と感じる。
▼
しかし、同時に懸念もある。
「演じること」が「奇をてらった一時期の流行」になりかけている点も否定できないのではないか、と思う。
「演じること」の「やり方」だけが注目され、急速に定式化され、教条化され、実践され初めているように感じるのは僕だけだろうか。
だからこそ、Learning bar-Xでは、その意味をしっかり考えたいのである。
演劇、ドラマ、シアター・・・・「役割を担うコミュニケーション」によって、相互の理解が深まることの意味、それを組織内、あるいは、組織外で実施することの意味を、きちんと考えることをめざしたい。
演じることは、コミュニケーションの何を解決して、何を解決しないのか。そこには、どのような課題があるのか、を「熱い心と、クールな頭」で考えることが必要である。「熱い頭と、クールな心」で盲進してはいけない。
---
近況.
・大学院生の修士論文中間発表が無事終わった。全員それぞれ課題はもっているものの、焦らず、腐らず、粛々と淡々とゴールをめざしてこなしていってほしいと思う。
・自分の研究。論文はまだ投稿できていない。最後の最後のつめで気になって、週末のあいた時間をぬって、すべて分析をやり直した。何とか、今週末には投稿したいと願うが。論文とは、どこかで「見切る」必要があるのだ、とも思う。そうしないと永遠に投稿できない。自分の大学院生にもそのように指導している。しかし、自分の論文ということになると、なかなかそうはいかない(笑)。まだまだ未熟である。
・中原研究室は、某社と共同研究を開始することになった。共同研究契約書の締結がこれからはじまる。担当者の方々と協力し、素晴らしい成果を残せるよう、努力したい。
・右手には10キロを超えるPC入りのカバン、保育園袋。左手にはTAKUZOをダッコして、今日も、保育園に向かう。それにしても、TAKUZOは、ずいぶん重くなったものだ。片手でダッコできるのは、そろそろ限界に達しているような気もする。
・先日来、TAKUZOと何度か寿司屋にいった。タマゴ、イクラ、マグロがTAKUZOのお気に入りである。僕のマネをして、寿司を手でつまんで、しょうゆにチョンチョンとつけて食べる。「立派な寿司食い」になってほしい、と思う。
投稿者 jun : 2009年7月 6日 08:34
Learning bar-X : 「インプロ」と「学び」を考える
=================================================
Learning bar-X...
ワークショップ:「インプロ」と「学び」を考える
2009年7月29日(水曜日)12時 - 5時
東京大学・本郷キャンパス・工学部2号館 9F 93B
Directed by 東京大学ワークショップ部
=================================================
Learning bar-X(ラーニングバー・エックス)は、
通常のLearning barとは異なり、少人数で実施される
学術公開ワークショップです。
2009年7月29日、Learning bar-Xでは、東京学芸大学
の高尾隆さんをお招きして、
1)インプロ(即興演劇)について体験・実感すること
2)インプロの可能性と課題について議論すること
を目的とした公開ワークショップを開催します。
場の演出とディレクションは、東京大学ワークショップ部の
舘野泰一さん、安斎勇樹さん、牧村真帆さんが担当します。
東京大学ワークショップ部
http://utworkshop.jimdo.com/
▼
インプロとは、その場で与えられたお題をもとに、
複数の人々が協働で演じる即興の演劇です。
インプロは、コミュニケーション教育、あるいは
、創造性開発の手段として、近年、初等中等教育、
あるいは、企業内人材育成の領域で注目されています。
フィンランドをはじめ、世界のいくつかの国では、
インプロを導入した教育を既に実施しています。また、
ピクサー社をはじめとして、日本のいくつかの企業に
おいても、インプロを使った企業内研修が既に実施
されています。
▼
高尾さんは、学部時代より、インプロに取り組まれ
てきました。
インプロで世界的に有名なキース・ジョンストンに
師事し、自らも舞台に立ちながら、いくつかの大学や
企業でワークショップを実施してきました。
この内容を博士論文にまとめ、数年前、一橋大学
博士(社会学)を取得なさっています。
Learning bar-Xでは、高尾さんにインプロのワーク
ショップを実施していただいたあとで、その可能性と
課題について議論します。また、多様な領域のアカデ
ミアにもご参加いただきつつ、その試みを、アカデミ
ックにどのように位置づけるか、についても議論を行
いたいと思います。
ちなみに、高尾君と僕は、学部時代の同期です。一
時期、有志で教育に関するオンラインジャーナルを発刊
したりしていました。本企画は、10年ぶりにあったその
日に「やろう」ということになりました(無理矢理?)。
僕もとても楽しみにしています!
閑話休題
参加をご希望の方は、下記の参加条件をお読みになり、
フォームに必要事項をご記入のうえ、7月15日までに
sakamoto [at mark] tree.ep.u-tokyo.ac.jpまでご連絡
下さい。7月17日までに参加可否をお伝えいたします。
下記の要項を必ずご一読いただき、ご応募をお願いいた
します。
なお、最近、Learning barは満員御礼が続いており、
参加登録いただいても、すべての方々の御希望にはお応
えできない状況になっております。
会場を変えて、何とかこれに対応していますが、限ら
れたスペースと人的リソースの中で運営し、かつ、参加
者のバックグラウンドの多様性を確保する必要がある関
係上、すべての方々のご要望にはお答えできません。
主催者としては心苦しい限りですが、なにとぞお許し
ください。
主催:中原 淳(東京大学・准教授)
※Learning barは、NPO法人 Educe Technologiesが
主催、東京大学大学院学際情報学府 中原研究室が
共催する、実務家と研究者が集まる学術イベントです。
Learning bar-Xは、Learning barを拡張した公開
ワークショップです。
---
○主催
NPO法人 EDUCE TECHNOLOGIES
エデュース・テクノロジーズ
http://www.educetech.org/
EDUCE TECHNOLOGIESは、「学び」に関する調査
研究開発、コンサルティングを行う非営利特定
活動法人(NPO)です。
企画担当
副代表理事 中原 淳
○共催
東京大学大学院 学際情報学府 中原淳研究室
- 大人の学びを科学する研究室 -
http://www.nakahara-lab.net/
○企画&ディレクション
東京大学ワークショップ部
http://utworkshop.jimdo.com/
舘野泰一さん
安斎勇樹さん
牧村真帆さん
○日時
2009年7月29日(水曜日)
午前12時00分 開場
午後5時まで
○内容(案)
□ウェルカムランチ
(12時00分)
・ワークショップの前に、おいしいランチを
皆さんでしましょう!
・舘野泰一・安斎勇樹(東京大学ワークショップ部)
□イントロダクション
(13時00分-13時10分)
・中原 淳(東京大学)
□インプロワークショップ パート1
(13時10分-14時10分)
・高尾 隆(東京学芸大学)
--- Caffe time (10min.) ---
□インプロワークショップ パート2
(14時20分-15時20分)
・高尾 隆(東京学芸大学)
--- Caffe time (10min.) ---
□ダイアログ on インプロワークショップ
(15時30分-16時50分)
・舘野泰一・安斎勇樹(東京大学ワークショップ部)
・上田信行(同志社女子大学)
□ラップアップセッション
(16時50分-17時00分)
・中原 淳(東京大学)
○場所
東京大学・本郷キャンパス 工学部2号館
9F 93B教室
http://www.u-tokyo.ac.jp/campusmap/cam01_04_03_j.html
地下鉄丸の内線本郷三丁目駅から徒歩15分程度
地下鉄南北線東大前駅から徒歩10分程度
(安田講堂横の建物です)
○参加費
2000円(1名さま 一般・学生)
(講師招聘費用、講師謝金、会場費、飲み物、
食べ物、運営費等に支出いたします)
○食事
ソフトドリンクなどの飲み物、およびランチ
をご準備いたします。
○参加条件
下記の諸条件をよくお読みの上、参加申し込みください。
申し込みと同時に、諸条件についてはご承諾いただいて
いるとみなします。
1.オブザーバーとしての参加は原則として認めません。
インプロのワークショップを体験し、考えることを
すべて体験いただくよう、お願いします。
2.本ワークショップの様子は写真・ビデオ撮影します。
写真・動画は、NPO Educe Technologies、東京大学
中原研究室が関与するWebサイト等の広報手段、講演
資料、書籍等に許諾なく用いられる場合があります。
マスメディアによる取材に対しても、許諾なく提供
することがあります。
3. 欠席の際には、お手数でもその旨、
sakamoto [at mark] tree.ep.u-tokyo.ac.jpまで
ご連絡下さい。
人数多数のため、多数の方の参加をお断りしている
状況です。繰り上げで他の方に席をお譲りいたします。
4.本イベントで剰余金が発生した場合は、東京大学
中原研究室および、NPO法人 Educe Technologiesが
企画する、組織人材育成・組織学習に関係するシン
ポジウム、研究会、ワークショップ等の非営利イベ
ント等の準備費用・運営費用、および、研究費用に
充当します。
○どうやって参加するのか?
下記のフォームに必要事項をお書き入れの上、
sakamoto [at mark] tree.ep.u-tokyo.ac.jpまで
7月15日までにお申し込み下さい
〆ココカラ=======================================
参加申し込みフォーム
sakamoto [at mark] tree.ep.u-tokyo.ac.jpまで
7月15日までにお申し込み下さい
抽選の上、7月17日までに参加の可否をご連絡
させていただきます
---
上記の参加条件を承諾し、参加を申し込みます。
○氏名:( )
○フリガナ:( )
○ご所属:( )
○メールアドレス:( )
○業種の選択:下記の11つの属性から、あなたに
最も近いものをひとつお選びください
1.研究者
2.学生
3.民間教育会社勤務
4.民間コンサル会社勤務
5.事業会社勤務(人事・教育部門)
6.事業会社勤務(事業部門)
7.個人事業主(教育・コンサル)
8.経営者
9.初等・中等教育の学校勤務
10.公務員・公益法人等勤務
11.その他
○もしあれば・・・一言コメント
( )
〆ココマデ=======================================
投稿者 jun : 2009年7月 3日 07:00
オフィスはコミュニケーションするところ
先日、某コンサルティングファームのフリーアドレス制のオフィスを、研究室の大学院生と一緒に見学させていただいた。
そのファームは、まだWindows95が出る前から、オフィスのペーパーレス化(書類のデジタル化)とフリーアドレス化に取り組んできた先進企業である(ちなみに、学問の世界では、こうしたオフィスをノンテリトリアルオフィスとよぶ)。
プロジェクトのチームメンバーとのコミュニケーションは、テレカンファレンス、チャットなどを駆使して行われる。
Know-whoを支援するコンサルタントのデータベースも整備されていて、世界中から、スペシャリストを探すこともできる。
働き方は、完全フレックス。業績さえあげれば、職場には来なくてもよい。自宅で仕事ができる。もちろん、オフィスには来ないわけではない。しかし、オフィスの位置づけは、他社とは異なる。
「オフィスは、コミュニケーションしにくるところ」
とのことである。
面白いな、と思ったのは、池袋や渋谷などの都内の各主要ターミナルに、サテライトオフィスを持っていることだ。
ノートPCのバッテリーが足りなくなったとき、プリンタを利用したいときには、サテライトオフィスを利用すればよい。これは非常に便利である。ぜひ、本学でもサテライトオフィスを準備してほしいな、と思った。
▼
見学後、2人のコンサルタントの方々とディスカッションした。いろいろ考えさせられることが多かったけれど、「効率性」という観点から見た場合、「通勤時間」というものが、いかに無駄かを考えさせられた。
たとえば、あなたが郊外の自宅から職場まで1時間かかるとする。行き帰りで2時間。それが週に5日だから、トータル10時間である。
1日8時間労働だとして、実に、なんと1日分以上の労働時間を、電車の中で過ごすことになる。
僕の場合は、電車の中では、ほとんどノートPCを広げている。メールを書いたり、連載記事を書いたり。
時は、このブログの記事も電車の中で書かれている。これが仕事か、そうでないか、というのは判断が分かれるけれど(笑)。
でも、電車の中でヘビーな仕事(ヘビーな知的生産)ができるか、というと、これは、僕の場合は、できない。
たとえば、統計ソフトをグリグリ回すような仕事や、論文の原稿などは、やっぱり大きな机に、資料を広げて、あーでもない、こーでもない、とやりたい。
そういう意味では、通勤時間は全くの「無駄」ではないけれど、どちらかというと、もったいないな、とは思う。
▼
組織は、生産性や業績をあげろ、という。そして、典型的なホワイトカラーの場合、105500時間もの長い長い時間をオフィスで過ごす。それは一生の、約3分の1だ。
「成果をだせ」だの「業績をあげろ」だの檄を飛ばすのも結構だけれど、オフィスのあり方、仕事のやり方を、ぜひ、組織で見直してほしいと思う。実に、それがもつインパクトは大きいのではないだろうか。
---
付記.
見学を快く引き受けてくださった、Kさんに感謝いたします。ありがとうございました。
投稿者 jun : 2009年7月 2日 09:11
人生いろいろ、職業いろいろ
今年度の大学院授業「組織学習システム論」では、
1.ある職種を選ぶ
2.1で選んだ職種の人々にインタビュー調査をする
3.熟達化プロセスのモデルをつくってみる
という実習形式の授業をしています。
組織学習システム論(無料で授業のビデオ公開しています)
http://iiionline.iii.u-tokyo.ac.jp/index.php/class/15
大学院生たちが選んでいる職種は多岐にわたります。ウェディングプランナー、シスター、商業ライター、カメラマン、大学職員、助産師などです。
昨日は中間発表でした。学生が15分のプレゼンテーションを行います。それぞれの発表を聞いていて思ったことがあります。
アタリマエのことですが、
「職業は、それぞれ様々であり、その熟達化のプロセスも様々だ」
ということです。
ホンマに、アタリマエだよな、そんなの(笑)。
アタリマエダのクラッカーだ。
でも、それぞれの職種で、それぞれの職場があって、それぞれに助けてくれる他者がいるのです。その職場で、いろいろな経験をして、人は成長していきます。
なんかね、十把一絡げに、「最近の職場は・・・」とか、言えないよなぁ、と思いました。
あと、研究者が知っている職場というのは、ホントに限定されていて、ほとんどの職場を知らないんだなぁとも思いました。まだまだやるべきことは多いんだな、と。
顧客との接点が多い職場もあれば、全くないものもある。自分でキャリアの軌跡を描くことが求められている職場もあれば、組織の縛りがキツイところもある。成果期待に対する圧力も違えば、平均在職年数も違うんですね。
▼
昨日の授業では、それぞれのプロゼンにかなりコメントをしました。ちょっと最初のうち熱くなりすぎて、最後時間が足りなくなってしまったけれど(スミマセン・・・)。
今後、大学院生たちは、さらに調査を進めます。7月末に発表を行います。楽しみですね、実に。
投稿者 jun : 2009年7月 1日 21:56