ただの援助はしない!: 松本仁人著「アフリカレポート」を読んだ!
Power tends to corrupt.
Absolute power corrupts absolutely.
権力は腐敗する
絶対的権力は、絶対に腐敗する
英国の歴史家アクトンの名言にこんなものがある。
どんなに素晴らしい「大きな物語」「大きな理念」を掲げ、民衆を解放に導き、民主政治を実現しようと努めようとしても、権力の座についたとたんに、腐敗は始まる。あなたが腐敗しなくても、あなたのまわりは腐敗するかもしれない。
まして、その立場が絶対的な立場であればなおさらのことである。絶対的権力は、絶対に腐敗する、とは皮肉なことであるが、歴史の真実である。
外側に敵を想定して激しい戦いを続けてきた人々は、いったん、自分の夢見てきた理想が実現し、自分たちの外側に敵を失った瞬間に、皮肉なことに「まとまり」を失う。
失うのは「まとまり」だけではない。
これまであんなに夢見てきた「公共性」「公」という理念も失われ、あとには「利権漁り」がはじまっていく。
権力のもたらす暴力 - それは内側から生まれ、内側からシステムを破壊するという意味で、キャンサーを我々の脳裏に想起させる - は、現代アフリカが苦しむ「病」である。
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松本仁人著「アフリカレポート - 壊れる国、生きる人々 -」(岩波新書)を読んだ。
システムとして確立していたジンバブエの農業は、権力者の迷走 - 間違った政策 - によってわずか10年で壊滅した。
アパルトヘイト後の南アフリカ共和国は、反アパルトヘイトの中心的団体であったアフリカ民族会議内部に、急速な勢いで腐敗が進んでいる。
治安は悪化し、いつしか南アフリカ共和国は「帰路の安全が気になって、仕事が手につかない国」と言われるようになってしまった。
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本書は、こうしたアフリカの政府・権力の腐敗をレポートする一方で、それに抗するため、政府・権力とは独立した立場で立ち上がろうとする人々、NGOなどの活動を紹介している。
僕個人としては、この分野は全くのシロウトであるが、非常に興味深く読むことができた。
ここで紹介されているのは、「国」レヴェルの話であるけれど、人が集まる場所 - つまりは、企業や組織、もちろん学校にも同様の問題は起こりうるな、と思った。これは「学習」の問題であるな、とも思った。
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興味深かったのは、本書の最後に紹介されている、ジンバブエの支援NGO「ORAP : Organization of Rural Association for Progress」の活動である。彼らは、旱魃地帯の農民の自律を支援する活動を、すでに30年間にわたって行っている。
ORAPでは、「ただの援助」は決してしない。
何の考えももたない援助団体がやるように「ただで物を配る援助は絶対にやらない」。まして「Food for Work」のように、「公共事業をおこし、そこで労働すれば食べ物を与える」といった、一般にはサスティナブルな援助といわれている援助のあり方まで、彼らは否定している。
なぜなら、そうした援助では、農民は、いつまでたっても「自律」できないからだ。
少し長くなるが、下記に引用しよう。
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このあたりの農民は、自分は死ぬまで貧しいんだ、どうやっても、そこから抜け出せないんだ、と思いこんでる。だから、外からの援助がはじまると、それに依存してしまう。
そんなことはない、ちょっと方法を変えて頑張れば、自分たちの力だけで十分に豊かな生活ができるんだ。そう呼びかけるところからはじまった。
(同書p153より引用)
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(Foor for Workのような)そうしたプロジェクトを実施するのは、外からきた援助組織であって、農民自身ではない。
農民は、いつまでたっても、援助してもらう立場で、運動の主体ではない。自分たちが運営している活動ではないから
どうしても依存心が高まってしまう。
以前、チョロチョ村の近くで、欧米援助団体がFood for Workをやっていたことがある。
村人からは、「あのプロジェクトでは食料をくれる。ORAPはなぜくれないのか」と文句を言われた。
「見ていてごらん、あっちの村はまたひどいことになるから」と答えた。
二年後、欧米の援助団体が去ると、言ったとおりになった。
Food for Workだって何だって、プロジェクト期間が終わったら終わりだ。後には何も残らず、元の貧しい村に戻ってしまう。私たちがやっているのは、人々がやる気を起こすようにし向けることなんだ。
ORAPは、自分から援助の手をだすことはない。村人が自分でどうしたらよいかを考え、こうしたいという方針を決めたら、そこでやっと動き出す。
牛を飼っているある村から、牛を増やしたいので貯水塔をつくってほしい、という要望がでた。
ORAPスタッフが村にでかけたが、貯水塔をつくるには3万ドルかかる。その金をどうするんだ、と問題提起するだけだ。あとは何もしないで、村人の議論にまかせた。
村人は自分たちで智慧をしぼるしかない。最終的に「ミルクを売ったらどうだろう」ということになった。
(同書 p154 - p155より引用・一部筆者改)
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持続可能性、自律性・・・
そうしたものは、結局、外部から「お仕着せ」のようにつくることはできない。
もちろん、今生きるか死ぬかの瀬戸際にある人にとっては、外部からの迅速な介入、支援は必要である。
しかし、そういう緊急事態を抜け、さて、「未来をどう設計しようか」いう段階になるならば、自分たちの未来のイニシアチブは、自分たちでとらなければならない。
結局、
変わりたいと願う当人たちにしか、
変わることはできない
のである。
既存の考えや囚われを棄却し、対話の果てに、自分たちの力で、何かを学び取り、何かを捨て去り、自分たちの生き方を選択することしかない。
そして、それがあることを前提にして「外部からの援助」「外部からの支援」は可能になるのかな、シロウトながらと思った。
この事例に、僕が学ぶべき事は非常に多かった。
やっぱりそうだよな、と思った。
投稿者 jun : 2008年11月18日 07:00