なんでもいい、思い切ったことをしてください

「なんでもいい
  思い切ったことをしてください」

 共同研究などでいつもお世話になっている、立命館大学・准教授八重樫先生の言葉である。

八重樫先生のブログ
http://kazaru.sblo.jp/article/18644035.html

 とても共感できた。全くの同感である。大学は残り1ヶ月で夏休みが終わる。

 思い切ったことをしてください。

投稿者 jun : 2008年8月31日 23:00


地方公共団体の人材育成

 先日、総務省の関連団体「全国市町村国際文化研修所(JIAM)」にて、「地方公共団体で人材育成を担当している方々」向けの研修を担当した。

 研修自体は、合計4日間にわたる研修。
 前半2日間は、京都大学大学院名誉教授で、現・愛知学院大学経営学部教授の田尾雅夫先生(組織心理学)がご担当し、後半2日間は僕と熊本大学の北村先生が担当し、「人材育成の理論と実践」についてお話をした。

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 一昔前までは、

「やっていることになっていればいいから」

 とまで、まことしやかに言われた、地方公共団体の人材育成。今、それが「見直されはじめて」いるのだという。

「地方分権」という大きな流れにおいて、自ら政策や事業を提案する職員が必要になってきている。
 財政の逼迫によって、給与・待遇を含めた様々な見直しがはじまり、人材育成体系自身も変わらざるをえなくなってきている。
「自らが成長できるか否か」を重視する近年の若者気質からか、はたまた民間企業の景気がよかったせいか、あいつぐ公務員バッシングのせいか、若年層の公務員離れが進んでおり、同時に「早期離職」が問題になってきている。

 これらの背景のもと、「やってることになってればいいから」と言われた公務員の人材育成体系の見直しが、「意欲ある自治体」において、はじまっている。

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 私見であるが、一般に、公務員の人材育成は、民間企業のそれと比べて下記のような特徴をもっている。

1.学習内容は業務に関連しているものというより、公務員としての倫理や姿勢を「伝達」するものが多い

2.「伝達」の手段としては、オムニバス型の一斉講義(講話)が多く、対話の機会やリフレクションの機会は相対的に少ない

3.「現場」との連携は極めて低く、また、OJTなども、各現場に任せられている

4.人材育成担当者も短期間でローテーションするため、ノウハウの継続も比較的難しい

 一目見てわかるように、地方公共団体の人材育成の「課題」は、非常に大きい。

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 今回の研修は、人材育成の理論と先行事例を通して、「課長・係長級の研修カリキュラムを見直す」という内容であった。
 僕の不手際や準備不足でうまくいかなかったところもあったけれど、受講者の皆さんのご協力で、何とか無事に終えることができた。

 研修中の受講者の反応、そして各種エクササイズのアウトプットからは、大きな「可能性」も感じることができた。

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 ちなみに、余談。

 近年、企業を対象にした組織人材育成研究、あるいは、組織学習研究は非常に増えているものの、「地方公共団体」を対象にしたそれは、まだ本腰を入れて研究している人は、ほとんどいない。

 もちろん経営学や政治学的観点から、それを論じる人はいないわけではない。が、教育学的観点からは、まだまだである。

 しかも、地方公共団体における「学習」の問題は、実は、地方公共団体に勤務している人だけでなく、それぞれの地域で、開発や町おこしに携わっている人々、NPOの方々、住民など、様々なステークホルダーに広がっている。

 ここにも、「大きな研究のタネ」が転がっている、と思った。

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 最後になりますが、今回の研修を支えてくれた、JIAMの今西佳子さん、久保佳代子さんには、大変お世話になりました。
 地方公共団体の人材育成カリキュラムに関する膨大な資料集めに奔走していただいたり、本をお送りいただいたり。当日は、様々なロジをご担当いただいたりしました。
 研修は講師だけでなく、事務局スタッフとのパートナーシップによって実現することを実感しました。

 また、参加してくださった地方公共団体職員の皆さんにも、たくさんの示唆をいただきました。

 この場を借りて感謝いたします。ありがとうございました。

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 そして人生は続く。
 来週は忙しさのピーク。

投稿者 jun : 2008年8月31日 07:00


ボール1個分のストレッチ

 僕はテニスをしないので初耳であったが、ハリー=ホップマンのという名監督がいるそうな。熊本大学の北村先生に話を聞いた。

 選手としても一流であったけれど、むしろ監督しての名声の方が有名で、30年以上にわたって、オーストラリアチームを率いたのだという。テニス界では知らない人はいないらしい。

 ホップマンが選手に課す練習は、ランニング、柔軟体操などを組み合わせた非常に厳格かつプログラム化されたもので、非常に厳しかったそうである。

 しかし、僕が、今回、北村先生から聞いて印象的であったのは、その話ではない。

 ホップマンは、選手と組になってトレーニングをする際、選手が腕を思い切り伸ばして届くか届かないか、本当にスレスレの絶妙な場所に、ボールを落とすのがうまかったのだという。

 全速力で走り、背中や腕を伸ばし、ボールにくらいつく。選手のもつ能力の限界の、ボール1個分くらい先に、ホップマンはボールを落とした。

 ホップマンとの練習を繰り返すことで、選手は一人前になっていった。

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 この事例は、熟達研究者エリクソンのいう、ストレッチの概念を理解するのに、非常によい事例であると思う。

 人は、「自分の能力を、ほんの少し超える課題を与えられ、それに全力で立ち向かうこと」で、熟達することができる。もちろん、その際には、他者からのコメントやアドバイス、いわゆるフィードバックが必要であることは、疑いもない。

 ボール一個分のストレッチ。

 上司が部下を育てるときに求められるのは、そのくらいの絶妙なボールさばきなのかか。

 なんだか「ため息」が出ちゃうような話ではあるけれど、いずれにしても、果てない繰り返しの先に、めざす能力の伸張はある。

 今日の「背伸び」は、明日の「日常」
 やるしかない。

投稿者 jun : 2008年8月29日 06:26


あぁ、トマコの生きる道

 先日、カミサンに教えてもらった「あぁ、トマコの生きる道」というブログが、非常に面白い。
 日々の子育てが「4コマ漫画」でしたためられている。子育てをしたことのある人なら、誰もが「わかる、わかる」と思わずうなずいてしまう内容である。

あぁ、トマコの生きる道
http://ameblo.jp/tomakonomichi/

 まとめて出版したら、面白い本になるのになぁ、と思う。
 ていうか、僕は買う。
 トマコさんの日々、僕は、楽しみにしている。

投稿者 jun : 2008年8月29日 04:01


「週末」の研修

 先日、あるインストラクターの方からメールをいただきました。
(ありがとうございます。最近、多くの方々から"現場の生のレポート"をお寄せいただくことが多くなってきました。本当にありがたいことです。小生のメーラーは、さしずめ、「ジャンプ放送局」状態です)。

 その方曰く、

「最近、企業研修が土曜日・日曜日に開催されることが本当に多いのです。

企業側の理屈としては、平日は数字をとってこないと、ということらしいのですが、よく考えてみると、おかしな話だとは思いませんか?

だって、片方では、"教育は投資"とか、おっしゃっる方多いですよね。その研修が「業務の生産性向上」にとって本当に必要なものならば、"平日の業務時間"を削って(投資して)、やればいいとおもいませんか? なんか、ここに矛盾があるよなぁ、と感じてしまうんですよね」

  ・
  ・
  ・

 かくして、休日に、研修が実施されていることが増えているそうです。
 参加者の中には、代休も取れず、12日連続勤務になっている人がいたりする方がいるそうですね。
「子供の、人生1回だけの卒園式に出られず」
 とか
「結婚式の打ち合わせをキャンセルしたので、フィアンセに叱られて」
 といった愚痴がこぼれることもあるそうな。

 世にいう「ワークライフバランス」とは全く「逆行」していますよね。ちょっと「感じ悪い」よなぁ・・・。

 土曜日・日曜日に開催するのは、研修で人を抜かれては困る「現場マネジャからのリクエスト」なのかなぁ。

  ・
  ・
  ・

 ちなみに、この話には、オチがありました。土曜日・日曜日に研修企画をする人は「子育て終わってしまった年配の世代」の方が多いそうです。

 メールをくれた方が想像を逞しくして推論した理由は、下記のとおりです。

理由その1.自分は既に「土日も留守していても家族から何も言われないし、研修といって外出しているほうが、家族にとっても、自分にとっても、お互いに気楽」

理由その2.そもそも、若い頃から、「仕事」という名目で出かけていた(帰らなかった)世代なので、若手世代にプライベートライフがあることが、自分の過去を振り返っても想像つかない

 下記は、僕の予想。

理由その3.研修に人をだすことで現場マネジャーから文句を言われたり、交渉したりするのが厭である。だから、問題が起こりにくい土曜日・日曜日に開催することにしている。

 真実はわかりません。
 でも、確実にわかっていることがあります。

 それは研修受講者が、その研修に参加することで、

 子供の、人生1回だけの卒園式に出られなかったり
 フィアンセから愚痴を言われたりする

 ということです(泣)。「後ろ髪引かれる思い」だろうに。そわそわしちゃいそうですね。平日にやったら、より高い学習効果がのぞめるかもしれませんよ。

 何とかならないものでしょうかね?

投稿者 jun : 2008年8月28日 06:18


Barの外での語り

 先日のLearning barでは、中原から趣旨説明を行う際、ゲストの皆さんに下記のようなご説明をしたことは、既にブログで書きました。

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 Learning barは、

 1.聞く
 2.聞く
 3.聞く
 4.帰る

 という場ではなく、

 1.聞く
 2.考える
 3.対話する
 4.気づく
 5.Barの外で語る

 という場にしていただければと思います。

Learning bar報告
http://www.nakahara-lab.net/blog/2008/08/8learning_bar.html

  ・
  ・
  ・

 このことについて、何名かの方からメールで感想をいただきました。ありがとうございます! そのうちKさんからいただいたメールを、ご本人のご承諾を受けまして、下記に掲載させていただきます。(理解しやすいように、一部のみ加筆・修正)

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突然のメールを恐縮です。このようなメールを差し上げたのは、昨日のLearning Barで提案があった、

「Learning barで自分が気づいた内容を、Barの外で語ってください。そうすれば、内省が深まるはずです。

そして、皆さんの言葉に共感した人々によって、少しずつかもしれないけれど、職場の仕事のやり方、組織のあり方、そして社会は変わっていくかもしれません」

という言葉に、とても共感を覚えたからです。

Learning Barには、「興味」と「思い入れ」を持って参加させていただいていますが、特に、昨日のようなテーマは私の個人的なテーマと重なる部分が多い一方、巨大組織の底辺にいて、自分のものとしてなかなか落とし込むことが難しいテーマでもあります。

昨日のLearning barには、上司を誘っていましたが、上司の時間的な問題で参加が叶いませんでした。

でも、昨日の「Barの外での語り」にヒントを得て、終了後、上司のもとへ行き、報告(内容とそこで感じた自分の思い)いたしました。

内省する時間が短かったので、深く全体感をもっての話にはなりませんでしたが、上司の話を聴きながら、「この部分は今回のテーマと同じだよね」または「この部分をもっと広げるための知恵はここにあるよね」といった、深い内省と対話が始まりました。

このことで、Learning barでの体験が二重三重にと広がっていく気がしました。もともとずっと考えているテーマだからこそタイミングがよかったということもあるかもしれません。

しかし、外での語りを意識し、そこでの語りからもう一度自分のテーマに戻って内省するということを意識することで、大きな実りになると実感しております。

   ・
   ・
   ・

「Barの外で語る」は8月のLearning barではじめて「付け加えさせていただいた」のですけれども、こんなにもはやく実践していただけるとは、嬉しいことです。非常にありがたいですね。

 経験を語ることは、自分の理解を更新するだけでなく、他者との間に合意をつくったり、未来をつくりだす力をもっているのかもしれません。

 もちろん、すべての問題が「語り」で「Catch All、解決よ」というわけにはいかないですけれども、そのとっかかりをつくるきっかけにはなるのではないか、と思いました。

「Barの外での語り」・・・ぜひ、今後とも増やしていただきたいと思います。

 ---

 ところで話は変わりますが、つい先日、

「自分も、Barをつくりたいです。Learning barの作り方を教えてください」

 というメールもいただきました。ご興味をもっていただいてありがとうございます。

 考えてみれば、こういうノウハウをきちんと「形式知」のかたちにして、公開することこそ、僕の専門である「教育工学」の仕事なのかもしれないな、と思いました。何も「ソフトウェア」をつくって評価するだけが、教育工学じゃない。

 どのようなメディアでそれを行うかは、ちょっと考えますけれど、すべてのリソースを公開しようとも思っています。
 できれば、僕のアタマの中にはいっているノウハウをすべて文章のかたちにしようかな、と思っています。

 今しばらくお待ち下さい。

 ---

 昨日は、いつものように会社訪問をさせていただきました。
 
 お話を伺った方は、

「人材育成とは、教えることだけで実現されるものではない。"オフィスレイアウトの変更"によって、成し遂げることもできる」

 という意志をもった方で、もう10年以上も、数社において実践を積み重ねている方です。今後、Learning barにご招待できればと思っています。

 今後のLearning barの予定です。

 11月22日(金曜日)には、ディナ=ロビンソンらの名著「パフォーマンスコンサルティング」を翻訳・出版なさった鹿野尚登さんをお招きして、パフォーマンスコンサルティングに関するワークショップを開催していただけることになりました。

 12月5日(金曜日)には、はじめての「アウェイ」での開催になると思います。
 この日は、東京大学ではなく、青山の「子どもの城」でLearning barを開催します。青山学院大学教授の苅宿俊文先生と一緒に「人材育成担当者向けのワークショップ」の企画を練っています。
 手足を動かし、五感をとぎすませ「大人の学びとは何か?」を根源的に考える、よいきっかけになると思います。日々の雑事に追われ、会社の中で身につけてしまったステレオタイプを「学びほぐし」ませんか。その先には「大人の学び」の可能性がかいま見えるはずです。

 9月、10月はLearning barはございません。10月31日に開催される、年に一度のイベント「ワークプレイスラーニング2008」の準備にすべてを注ぎ込むつもりです。
 ワークプレイスラーニング2008は9月1日より、申し込みがスタートしますので、ぜひ、おこしください。

 そして人生は続く。

投稿者 jun : 2008年8月27日 06:50


越境する教師の会

 大学院入試が始まる。
 最近少しずつ涼しくなってきたけれど、大学院にとっては、一年で最も熱い「二週間」のはじまりだ。

 「志ある人」に出会いたい。
 ただ、それだけである。

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 入試業務のあいだ、ソシオメディア論がご専門の水越伸先生とランチをする。お互いが、今やっている研究、実践についてお話しした。

 水越先生は、「メディアが変わる、世の中が変わる」というマーシャル=マクルーハン以来の命題に違和感を覚え、「ソシオメディア論」という分野を立ち上げたそうである。

 水越先生と僕では「月とスッポン」だけれど、つい先日、僕もブログで「○○授業が、学校を変える」というスローガンに対する違和感を自戒をこめて書いていた。奇妙な「シンクロニシティ」である。

 違う分野の先生と話すのは、とても多くの「発見」があって面白い。こうした対話が実現することが、僕が、大学院教育に参加するひとつの「意義」かもしれない。

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 このところ、青山学院大学・教授の苅宿俊文先生と、お話しする機会が多い。

 苅宿先生の主催なさる「越境する教師の会」の企画に賛同し、その企画づくりに少しだけご協力させていただいている。

「越境する教師の会」は、現場の先生と「学校外の人々」を出会わせ、そこでの対話を通じて、「成長」や「気づき」を促そうという会である。

 今回はシンポジウム開催のため「企業などで勤務する学校外の人々で、曇りのない目で学校を見つめることのできる方々」をご紹介させていただいた。

 これまで、学校の先生と学校外の人々が出会うと、下記のような責任のなすりつけ合いが起こり、必ずしも生産的な議論にならなかった。

こうなったのは、学校のせいだ。
  学校が変わり~しなければならない

こうなる原因は、企業にある
  会社が変わり~しなければならない

 僕も、これまで何度か企業主催のセミナーに、あたかも「大学」を代表する人間であるかのように招かれ(もっとエライ人に言え!)、下記のようなディスコースに巻き込まれ、何度か厭な思いをしたことがある。

 大切なのは、「○○が~しなければならない」とったようなディスコースを超え、「○○を実現するためには、あなたに何ができるか、そして、わたしには何ができるか」というディスコースをつくりだすことであると思う。

 「が」の応酬に「未来」はない。
 どんなに論理的で合理的に「がの応酬」を繰り広げようとも、お互いがお互いにとって都合のよいデータや根拠を持ち出すだろうから、それは平行線をたどるだけである。

 必要なことは、「学校」も「学校外の組織」も、対話を通じてお互いを理解し合い、お互いが「変わること」を決意し、その「関係」をリデザインすることである。

 今回ご紹介させていただいた方々は、必ずや、現場の先生と素晴らしい対話の機会をつくりあげられる方々であると思う。

 僕自身、次回の「越境する教師の会」には、学会のため、参加できない。でも、おいおい参加させていただけることを楽しみにしている。

 そして人生は続く。

投稿者 jun : 2008年8月26日 09:18


親と子どものインタラクション

 土曜日、日本科学教育学会から「論文賞」を授与されました。

「家庭で親子で科学実験に取り組むことのできる教材キットを開発し、それで、親はどの程度学んだのか、子どもはどの程度学んだのか、家庭環境はどのように変わったのか」

 について論じた論文です。

jyusho0.jpg

 この論文をプランニングしていた4年前くらいは、学習環境としての「親子関係」が、まだクローズアップされていない時期でした。

 子どもが「学び手」であるのと同時に、また
 大人である「親」も「学び手」である

 「親」と「子ども」のインタラクションにこそ
 貴重な学びの機会がある

 そんなコンセプトのもと、中原がプロジェクトリーダーをつとめ、宮崎大学の山口さん、専修大学の望月さん、東京大学の西森さんでやっていた共同研究でした。

 プロジェクト自体は今から4年前にスタートしたもの。今回の論文は、山口さんが筆頭著者で、他のメンバーは共著者としての受賞でした。非常にありがたいことですね。

jyusho.jpg

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 夜、予定を変更して、祝宴。

 ホテルのコンシェルジュの女性に、

「あなたが、もしプライベートで、誰かに連れて行ってもらえるのだとしたら、どこのレストランに行きたいですか?」

 と質問を投げかけ、「鮨山もと」を紹介してもらいました。この質問の前に最初に紹介された店とは微妙に違っていて、ちょっと面白かったけど(笑)。

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鮨山もと
http://r.tabelog.com/okayama/rvwdtl/358311/
TEL 086-232-3900
住所 岡山県岡山市弓之町12-6 レジデンス弓之町 1F
営業時間 12:00~14:

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 結論からいうと、「山もと」は「素晴らしいお寿司屋」さんでした。

 刺身。
 タコはやわらかく、「イカの子ども」はコリコリとして美味。ゲソは、ゆずの香りがついた甘い煮詰めがかかっています。

 握り。
 タイはコリコリとした食感で、ネタが大きい。しめ鯖は、しゃっきり、ちょうどよい〆具合。中トロは、上質の肉を食べているように、口の中でとろけます。

 途中、岡山名物「ままかり」を頼みましたが、

「最近の暑さで、どうしても、シメがうまくいかない。今日のできは、申し訳ございませんが、お客様にだせるものではありません。申し訳ございません」

 とのことでした。
 素晴らしい。

 あなごは、一本を巻きます。
 よくある煮すぎの「ベチャベチャした水っぽい穴子」ではなく、どっしりとしていて凛とした、「オレは今、あなごを1本食べているな」という感じさえしてしまうような、素晴らしいものでした。とても、香ばしい。

 卵は圧巻です。通常のだし巻きを、注文がきてから焼き始めます。ですので、注文から供されるまで5分くらいはかかります。8割半熟くらいの焼き加減で、握りにします。

「熱くて、食べにくいですよ」

 とご主人から言われます。確かに、食べにくい。でも、美味しい。それはそうですよね。焼きたてですから。

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 なにやらあとで聞くところによると、ご主人は、西日本の鮨の名店「魚正」の3代目だとか。「魚正」は超有名なので、その3代目ともなると苦労も多いでしょう。

 無駄口は聞かない。でも、それでいて礼儀正しい方でした。最後は、ご主人自ら店をでてお見送りでした。

 岡山には、美味しい鮨屋がありました。

投稿者 jun : 2008年8月25日 09:42


対話を通じて組織を変える!?:8月Learning barが終わった!

 本日のLearning barは、野村総合研究所の永井恒男さんを、講師にお招きし、

 「対話を中心的活動にすえて組織をかえることができるのかどうか」

 について、皆さんで議論を深めました。

 今日もラーニングバーは満員御礼! 本当にありがたいことですね!
 できるだけ多くの方々にご参加いただくため、教室の椅子の数を増やしました(院生の皆さん、ありがとうございます)。いつもより10名多い160名の方が、今回の参加者です。

nagaibar26.jpg

 まず、最初に僕の方から「趣旨説明」をさせていただきます。

nagaibar8.jpg

 Learning barは、

 1.聞く
 2.聞く
 3.聞く
 4.帰る

 という場ではなく、

 1.聞く
 2.考える
 3.対話する
 4.気づく

 ような場であるということをご説明いたしました。

 さらに今回から「調子にのって」、もうひとつの項目を付け加えさせていただきました。

 1.聞く
 2.考える
 3.対話する
 4.気づく
 5.Barの外で語る←(新規項目)

 です。

 Learning Barを出たあとで、まだここを訪れたことのない方に - 同僚であってもいいし、先輩や上司であってもいいし、オクサマでもオコサマでもいいです - ぜひ、ここで得た「気づき」を語っていただければと思うのです。

本当に「わかったこと」「腑に落ちたこと」というものは、自分の言葉で「語ること」ができるはずです。また、「自分の言葉で語りなおすこと」で、さらに「わかること」「気づくこと」もありえます。

 Barで得た「何か」が、そこに参加した方の生の声として語られることで、その内容が様々な「かたち」に変わりながら、様々な人々に伝わる。そうしたプロセスをへて、少しずつ少しずつ、「私たちの企業・組織における学びや成長」、ひいては「社会」が変わる「かも」しれない。つまりは、Learning bar自体が、社会の「対話」を促進するきっかけになってほしい。そんな思いをこめて、5番目の項目を付け加えました。

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 早速、永井さんのご発表がはじまります。

nagaibar3.jpg

 話題は「コンサルティングの限界」です。
 永井さんは、ご自身のコンサルティング経験から、「合理的かつ論理的整合性のある戦略」というものをつくり、クライアント組織に手渡したとしても、実行されずに終わるものが必ずしも少なくないことをご指摘なさいます。

 社長のコミットメントを引き出すことに失敗したり、社内の抵抗にあったり・・・結局、どんなに素晴らしい「戦略」を構築しても、それを実行するのは、生身の利害を有する「人間」であるからです。そこには、そこにいる方々の「センスメイキング」と「コミットメント」が必要になります。

 数年前、永井さんが社内ベンチャー制度を活用し、エグゼクティブコーチングに関する新サービス「イデリア」を野村総合研究所内で立ち上げたのは、そんなときでした。

 永井さんのはじめたエグゼクティブコーチングとは、社長・経営者層などを対象としたコーチングサービスのことです。1回90分の対話を半年、12回繰り返すことで、自己を振り返り、かつ、目標を達成することを支援するのだそうです。

 永井さんが、イデリアを通してお逢いした多くの社長、経営層は、優秀な人が多いものの、「孤独」で、決して「一枚岩」などではなく、「葛藤」や「悩み」をひとり抱えながら、黙々と仕事をする人々でした。

 現在、永井さんは、エグゼクティブコーチングから、さらに枠をひろげ、マネジメント層の「思い」や「願い」をタネにして、様々なレイヤーで「対話」を組織しつつ、組織を変えることにチャレンジなさっています。

「学習する組織論」のいくつかのツールやコンセプトを利用して、自分たちが陥っているメンタルモデル(常識の罠)に気づき、それをどのように脱却すればよいのかを、自分たちが対話の中から見いだす、ということを支援なさっています。
 そのようなプロセスを通じて、「センスメイキング」と「コミットメント」を引き出し、組織を変える原動力として組織化するということでしょう。

 ---

 永井さんの3セットのレクチャーの後は、Learning bar恒例の「お隣ディスカッション」に入ります。

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 様々な背景をもつ人々で、今日はじめて出会った方々が、永井さんのお話をネタに30分間、「自分の気づき」を共有していきます。

nagaibar6.jpg

nagaibar7.jpg

 お次は、携帯フィードバック。
 今回は、総数42件のメールが寄せられました。

 中には、

このままいくと、うちの会社が危ないことは、社長以外はみんなわかっている。社長だけがわかっていない。彼に、この状況を理解してもらうためにはどうしたらよいのか。

 といった「切実な質問」や、

この手法は学校にも、当てはめることができるのか。もしやった事例があれば教えて欲しい

 といった現場の先生からのご意見もありました。

 質問のすべてを扱うことができたわけではありませんが、皆さん、ご協力、ありがとうございました!

 ---

 今回、永井さんのご講演を聴いていて、僕は自分自身のことを深く内省していました。

 僕も、多種多様な人々に日々助けられながら仕事をする人間の一人です。自分の周りにいる様々な人々に助けられながら、一緒に「何か」を成し遂げたいと思っているひとりです。そして、僕に協力してくださる方々もまた、それぞれの「利害」や「関心」や「やりたいこと」や「やらなければならないこと」をお持ちです。

 僕にも、自分の気づかない、しかし、他の人には気づいている、たくさんの「思いこみ」があり、そこに「囚われている自分」がいます。
 幸い、僕のまわりにいる研究仲間の中には、そういう僕の「囚われ」を、臆することなく指摘してくれる方がいらっしゃいます。大変ありがたいことです。大変貴重なことです。
 しかし、そういう方々の指摘をもってしても、なかなか「踏ん切りのつかないとき」もあることを正直に吐露しなければなりません。

「ここまで積み重ねてルーティン化され、制度化されたもの」を「壊して」まで「変わること」に抵抗しようとする自分もいます。そうしなければ、いつか、限界がくることはアタマではわかっていつつも、それを「怖れる自分」がいます。

 別の言葉でいえば、こうとも言えるでしょう。

 僕は、自分の周りのルーティン化され、制度化されたもので、今は着実にWorkしているが、このままではいずれ限界がおとずれてしまうものを、学習棄却(unlearn : 大江健三郎さんは、これを学びほぐしといったそうです)しなければならないのです。
 組織学習論という研究領域が、これまで生み出してきた「智慧」を、多少なりとも知っている僕ならば、そうするべきことが論理的には正しいのです。

 しかし、それを行わなければならぬと感じる一方で、時に、それを拒もうとする「アンビバレントな感情」を自分の中に発見してしまうことを、吐露せざるをえません。否、正しく言うならば「発見してしまった」のです。

 僕もまた、「変わること」のできない一人であり、どのように「変わること」がよいことなのかを煩悶する一人でありました。そして「変わること」を怖れる一人でもありました。

 昨日のお話をお聞きして、このことがよくわかりました。
 しかし、これに気づけたことは、決して、ネガティブなことではない。「よいこと」であったと思っています。
 「大きな問題」がそもそも自分の前に立ちはだかっていたことを知ること、そして、日々の雑事に追われ、いかに自分が「大きな問題」から逃げていたのかを知ることはよいことだと思います。

 もちろん、こうした「大きな問題」に対する答えを、忙殺される毎日の中から見いだすことは困難だとは思いますが、それでも、少しずつ、時間をかけて見いだしていきたいと思います。
 何より、僕には、様々な人々の智慧や協力を得て、「皆さんと一緒になしとげたいこと」が、まだまだ、たくさんあるのですから。

 ---

 最後に、今回、お忙しいところご出講いただいた永井恒男さんに、心より感謝いたします。本当にありがとうございました。

 また、Learning barは東京大学大学院の院生諸氏によって運営されています。事務局長の坂本君、牧村さん、坂本A君、舘野君、脇本君、林さん、大城さんにお手伝いいただきました。

 さらには議論に参加してくださった皆様に感謝いたします。

 本当にお疲れ様でした。
 そして、ありがとうございました。

 ---

 次回のLearning barは、11月21日(金曜日)4時30分からです。久しぶりのワークショップです。

 昨年、ディナ=ロビンソンらの名著「パフォーマンスコンサルティング」を翻訳・出版なさった鹿野尚登さんをお招きして、パフォーマンスコンサルティングに関するワークショップを開催していただけることになりました。

 どうぞお楽しみに。

 詳細は、下記メルマガからお知らせいたします。ご参加希望の方は、ぜひご登録ください。あと、来週には、10月31日東京大学安田講堂で実施されるシンポジウム「ワークプレイスラーニング2008」の募集が開始されます。こちらもお楽しみに。

Learning barメルマガ
http://www.nakahara-lab.net/learningbar.html

 See you soon at Learning bar!

投稿者 jun : 2008年8月23日 07:12


プロジェクト学習の可能性をさぐる!

 人は、どのようにすれば、コミュニケーションの能力を高めることができるのでしょうか。プロジェクトを遂行できる力をつけることができるようになるのでしょうか。今、大学では様々なチャレンジが続いています。

 ふるってご参加下さい!

==============================================

公開研究会「BEAT Seminar」

コミュニケーション能力 / プロジェクト遂行能力は
いかにして育成が可能か?
プロジェクト学習の可能性をさぐる

2008年9月6日(土)開催・東京大学
☆★☆ 登録お早めにどうぞ! ☆★☆
http://www.beatiii.jp/seminar/?rf=bt_m051-2

==============================================

BEAT(東京大学情報学環 ベネッセ先端教育技術学講座)
では、BEAT Seminarを開催いたします。

近年、大学卒の人材は、専門的知識や思考力に加え、実
践的な能力(コミュニケーション能力やプロジェクト遂行能力)
も求められるようになってきています。

大学でこれらの能力を育てるためには、どうすればよい
のでしょうか。

その答えの一つとして、プロジェクト学習が注目されてい
ます。プロジェクト学習はグループで課題について議論を
行い、その解決策を提案する作業を通じて、学習内容に
ついて理解を深めると同時に実践的な能力を育成する
方法であり、ここ数年日本でも取り組みが増えてきました。

今回のBEAT Seminarでは社会で活躍できる人材を
育成するためにプロジェクト学習を行っている大学の教員
をお招きし、プロジェクト学習の成功の鍵について議論した
いと考えています。

みなさまのご参加をお待ちしております。

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■主催
東京大学 大学院 情報学環 ベネッセ先端教育技術学講座

■日時
2008年 9月6日(土)午後2時より午後5時まで

■場所
東京大学 本郷キャンパス 情報学環・福武ホール(赤門横)
福武ラーニングシアター(B2F)
http://www.beatiii.jp/seminar/seminar-map35.pdf

■定員
180名(お早めにお申し込みください)

■参加方法
参加希望の方は、BEAT Webサイト
http://www.beatiii.jp/seminar/?rf=bt_m051-2
にて、ご登録をお願いいたします。

■参加費
無料

■内容
1.趣旨説明
 14:00-14:05

 山内祐平 (東京大学大学院 情報学環 准教授(BEAT併任))

2.事例紹介
 14:05-16:15(休憩適宜含む)

●事例紹介1:工学教育におけるプロジェクト学習の実践事例:
 久保猛志氏
 (金沢工業大学 環境・建築学部 建築都市デザイン学科 教授)

●事例紹介2:看護教育プロジェクト学習の実践事例:
  森明子氏
 (聖路加看護大学 看護実践開発研究センター 教授)

●事例紹介3:プロジェクト学習を支援する概念とツール
 八重樫文氏
 (立命館大学 経営学部 准教授)

3.参加者によるグループディスカッション
 16:15-16:30

4.パネルディスカッション
 16:30-17:00

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投稿者 jun : 2008年8月22日 12:47


シンポジウムの企画

 最近、なぜかシンポジウムの企画のための「話し合い」や「調整」が、いくつも重なっている。

 シンポジウムの企画というのは、簡単なようでいて難しい。プログラムを通じて「ひとつのストーリー」を構成できなければならない。
 しかし、実はそれはとても困難なことでもある。発表者が話せる内容、時間の制約、そして企画をする側の意見の一致が必要だからである。その「決定」には時間がかかる。

 しかし、くどいようだが、何とかかんとか、「ひとつのストーリー」を何とか構成しなければならない。

「関係あるものをたくさん詰め込んで、いろいろなフックを提供し、ストーリーを構成するのは、参加者にゆだねればよいではないですか」

 と思う向きもあるかもしれないが、会場ではじめて発表を目にする参加者にそれを求めるのは、なかなか難しい。

 雑多なものの中から発表と発表のあいだの「意味のつながり」をその場でアドホックにつくるのは、相当対象領域についてわかっている人でなければ難しい。
 ストーリーは、やはり企画側で提供できなければ、参加者は戸惑ってしまうことが容易に想像できる。

 シンポジウムの企画とは、オーディエンスを魅了する「ひとつのストーリーをつくること」である。

 僕はそう思う。

 ---

 今日は、Learning barである。

 今回のLearning barは、野村総合研究所の永井さんにお越し頂き、「エグゼクティヴコーチングとダイアログによる組織変革」のお話をしていただく。

組織改革、上からやるか、下からやるか!?
http://www.nakahara-lab.net/blog/2008/07/learning_bar_16.html

 昨日は、永井さんに作成いただいたパワーポイントをもとにディスカッションをした。永井さんのご発表は、非常に深い、面白いご発表内容であると思った。本日、僕自身が、そのお話を聞くのが楽しみである。

 今日は参加者は未曾有の160名である。教室のキャパシティ限界までお越し頂くことにした。これでも、100名以上の方は残念ながらお断りせざるを得なかったことが心苦しいが、現体制ではいかんともしがたい。

 今日は天気もよい。
 熱い日になりそうだ。

投稿者 jun : 2008年8月22日 06:46


研修の現実

 先日、ある方から、こんなお話を伺いました(一部、話に加筆・修正あり)。

 その方曰く、

 ---

 ○○研修で、クライアント先の研修施設に行ってみたら、どうも参加者の様子がおかしいんです。

 研修を始めて、参加者1人1人に「受講目的」をたずねてみたところで、その理由がわかりました。誰一人、研修を受ける意味といいますか、「ここにいる意味」がわかっていないのです。

「上司の指示で仕方なくきました」
「前にも似たようなのを受けたことがあるんですけど・・・また受講する必要があるんでしょうか」

 人材育成担当者と話をすると、

「この研修、うちが主催じゃないんだよね。うちがやっているのは、ロジだけです。

主催は○○事業部ですから。細かいことは主催者に聞いて。あっ、でも、主催の○○事業部の人間は今日来ていないみたいですね。でも、研修内容は、事前に参加者に書類を配付して説明してますよ。だから大丈夫」

 で、その書類を見せてもらったら、

「○○等級以上の方向けの研修です」

 とだけあったんですよね・・・。

 その書類を見ても、なぜこの研修を受けなければならないか、さっぱりわかんない。何が期待されているか、内容はどのようなものなのかもわからない。受講者が気の毒になるくらいでした。

 かくも、問題は根深いのですよ。

 ---

 多くの現場で、研修は、かくして「丸投げ」に「丸投げ」を重ねて、「ぺんぺん草もはえないような無責任状況」で実施されるのでしょうか。

 このような状況で、「効果をあげること」が期待され、仮に効果が上がらなければ、「あの研修は悪い」と言われることになるのでしょうか。

 悪いのは「誰」よ?
 仮に、効果があがらないのだとすれば、それは「なぜ」よ?

 TAKUZOでもわかりそう。

投稿者 jun : 2008年8月21日 09:14


うるまでるび著「おれボテ志」を読んだ!&カクテルの名前

 うるまでるび著「おれボテ志」を読んだ。

 デジタルクリエーターである「うるまでるび」(夫がうるま、妻がでるび : おしりかじり虫の原作者として有名ですね)が、息子「ボテ志」の成長をつづった絵日記。
 もともと、この絵日記は、糸井重里の「ほぼ日刊イトイ新聞」で日々公開されていたものである。

おれボテ志
http://www.1101.com/urumadelvi3/ball.html

 ユーモラスな描写に、何度も笑い転げた。子育てをしたことのある人なら、絶対に笑えると思う。
 一方、「懐かしさ」も感じた。たしかに、TAKUZOにも、そんな時期もあったなぁ、と思い出しつつ。

  ▼

 今、TAKUZOはイヤイヤ期真っ盛りである。

 機嫌の悪いときは、何をすすめても、イヤ!
 あれも、イヤ!
 これも、イヤ!

 ちょっと前まで、ピーピー泣いてたくせに。いっちょまえの口ききやがって。

 子どもの成長とは本当に早い。
 そしてTAKUZOの人生は続く。

takuzo_boteshi.jpg

 ---

追伸.
 夕方、オムツを替えるとき、すっかり油断していた。

 久しぶりに「ウンコ・オン・ザ・レッグ」。
 ひょえーっ
(TAKUZOのウンコが、オムツの中から転がって、僕の足の上にポトンと落ちた、という意味)

 なんだか、「カクテルの名前」みたいだな、と一瞬思った。
 僕は疲れているのかもしれない。
 
 ともかく・・・・
 「オン・ザ・ハンド」じゃなくて、ありがたき幸せ。

投稿者 jun : 2008年8月20日 21:48


小学校の組織開発に参加した!

 某県の小学校(正確には小中学校)で実施された「組織開発のワークショップ」に参加する。

 2日間という限られた時間ではあるけれど、様々な背景や考えをもった教員、職員、管理職など学校の全スタッフが集まり、日々の仕事のやり方を振り返りつつ、「どういう学校を、一緒につくっていけばよいのか」をともに考え、「対話」を積み重ねる。

 そこでの会話の内容は、決して「対話」という言葉のもつ「予定調和的なイメージ」では語り尽くせぬほどの「マリアナ海溝なみにディープな内容」を含むものである。

 「人は意味の世界に生き、意味と格闘している」・・・このことを強く意識し、危うさを感じる一方で、様々な背景や経験をもつ人々が、向き合い、真剣にお互いの話に耳を傾け合う姿に可能性を感じた。

 ---

 いくつか思ったこと。
 印象深かったことは数多くあるが、ここで書けるのはすべて「僕自身の経験に根ざしたこと」「自分の胸に思い当たること」だといってよい。下記にそれを記す。

  ▼

 ひとつめ。

 我々は、話しているつもりでも、話せていない。
 聞いているつもりでも、本当に聞いていない。
 言葉を届けているつもりでも、届いていない。
 そういうことが自分にもたくさんあるな、と感じた。
 
 特に僕は話を「聞けない」。
 他人の話の終わりを、「待てない」。
 「聞く」「待つ」・・・これは僕の課題であると思う。

 ちなみに、内田樹さんの言葉ではないが、

 我々は、言い過ぎるか
 言い足りないかのどちらかである。

 僕の言葉は、他者に届いているのか、についても
 一抹の不安を感じた。

  ▼

 ふたつめ。

 自分が学生であった頃、センセイという職員室
 にいる人々は、「一枚岩」の集団に見えた。
 センセイはセンセイであった。
 しかし、それは、一面、真実ではないように思う。

 校種は違うとはいえ、僕も「教員」のひとりである。
 自分の経験に照らしてみると、
 そんなことはアタリマエのコンコンチキ。
 教員は「一枚岩」なんかじゃない。

 しかし、皮肉なことに、教育研究者としては、つい、
 現場の先生方を「一枚岩」に夢想してしまいがち
 ではないかと思った。
 夢想はしなくとも、現場が「一枚岩になれること」
 をよしとして、それを前提に理論構築をしてしまう。

 どうもここには「根本的な懐疑」が必要である。

 我々、大人は「一枚岩」になれるのか?
 学校であろうと、企業であろうと、
 「一枚岩」になりうるのか?
 「一枚岩」とはどういう状態なのか?
 そして、「一枚岩になる必要はある」のか?

  ▼

 みっつめ。

 学校の中心的活動とは「授業」である。
 このことは間違いないし、その革新は、
 これまで以上になされるべきである。

 しかし、「授業が変われば、学校が変わる」と
 いう論法は、やや早計ではないかと思う。

 教育研究者は、よく

 ○○授業が、学校を変える

 というスローガンを打ち立てたがる。
 しかし、それは一面では真実かもしれないが
 一面では不足があることを、自らも懺悔しつつ、
 指摘しなければならない。

 学校とは、授業を担当する教員の他にも、
 様々な人々から構成される。

 生徒の側から見た学校、保護者の側から見た
 学校は、決して「授業」だけではない。

 学校生活、否、もっというならば学習経験とは
 決して、授業だけから構成されるのではない。
 学習環境としての学校、制度、カルチュア
 様々なものが学習経験を構成する要素である。

 繰り返していうが、
 学校にとって「授業」は重要である。
 しかし、学校にとって変わる必要があるのは
 「授業」だけなのか?

 学校の変革とは、教員だけがその担い手か?
 教員、事務職員含め、様々なスタッフが、
 その担い手であるのではないだろうか。

 そのためには何が必要か?

  ▼
 
 よっつめ。

 これは僕自身が「一教員」として感じたこと。
 今回、某小学校の現場の先生方の行う対話を通じて
 僕は、自分自身を深く内省できた気がする。

 まず、第一に「自分は初任者教員である」
 ということを深く認識した。
 何をアタリマエのことをと言われる方が
 いるかもしれないが、本当のことである。

 僕は、今年から自分の研究室を運営したばかりの
 「初任者教員」である。
 それなのに、大学の教員は、決して「初任者教員」
 とは言われない。

 むしろ、学位を取得した後、ヘタをすれば
 その前にでも教壇にたつことを要求され、
 「センセイ」として振る舞うことが養成される。

 大学教員に「初任者教員」というカテゴリー
 の認識は限りなく薄い。

 それはなぜか?

  ▼

 最後。

 今から5年前、僕は企業人材育成の研究に着手
 しはじめた。
 未だ、志半ば。
 正確にいえば、志のうち実現できたものは2割である。

 やりたいことがたくさんある。

 やらねばならぬと思っていることも
 たくさんある。

 知りたいことはたくさんあるし、
 明らかにせねばならぬと思っていることも
 たくさんある。

 腰を落ち着けて、これに取り組みたい。

 しかし、「ひとつの思い」も脳裏をよぎる。

 研究をはじめた当初、「企業」と「学校」は全く違う
 ものであると思っていた。
 ある面ではそれは真実であるが、ある面では
 単純なものの見方であったのかな、とも思う。

 そこには、両者「働く大人」がいる。
 そして、両者「職場」がある。

 いつの日か、これらの知見が、つながるのでは
 ないかと、勝手気ままに夢想する。

  ▼

 いずれにしても、道のりは長い。
 そして人生は続く。
 否、続かねば困る。

 ---

 最後に、このような場への参加を認めていただいた某小中学校のY校長、ファシリテーターのSさん、Tさん、そして現場の先生方に感謝いたします。ありがとうございました。

投稿者 jun : 2008年8月19日 06:47


それは○○先生だからできたんじゃないですか?

 先日、ある方々とお話していた際に、こんな話を聞きました。

---

「実践報告とか、事例報告を主眼においた教育系のシンポジウムって、どこでも盛況なんですよね。たくさんの関係者が、集まっていますね。いつも、その人数にびっくりしてしまいます。

でも、そういう会に参加すると、いつも不思議に思うことがあるんです。

実践報告が終わると、それに対して、質疑応答がなされるじゃないですか。僕が不思議に思うのは、その質問なんです。

 "今の報告は、○○先生だからできたんじゃないですか"
 "その実践は、○○学校だからできたことですよね"

 とかいう「質問」が、会場からなされませんか?

 あれって、「変」な質問だと思いませんか? 僕だけでしょうか、ああいう質問を聞いて不思議だなぁと思うのは。
 さらに、この質問に対して発表者の方も、「まとも」に答えようとするのが、不思議です。「ええと・・・確かにそうかもしれませんね・・・」、と。なんで、この質問に答えなければならないのでしょうか。

「変」に聞こえるのは、これだけではすみません。
質疑が終わり、会場を出たあたりで(笑)、参加者同士、お互いにこう言いあっているのをよく聞きます。

"あの実践は、○○だからできたんだよ"

この発言で、お互いに溜飲を下げあっているんです(笑)。

なんか「変」なんですよね。いったい「何」をしに、遠方から会場まで足を運んだのでしょうか。「目的」は、いったい何だったのでしょうか?

僕は教育畑出身ではないので、よくわかりませんが、他の領域だったら、絶対になされない質問だし、絶対に聞かない感想なんですよね。

他の領域の事例報告のあとだったら、"うちは、もっとオモシロイコトをやっている"と、うそぶくか、あるいは、"あれは、こうやればうちに活用できる"という会話がなされる方が多いんですけどね。

教育の世界って、なんか不思議なんですよねぇ・・・」

 ---

 ICレコーダをもっていたわけではないので、一字一句同じではなですが、発言のご趣旨は、このようなものであったと思います。
 そして、この指摘は「非常に鋭い指摘」だと思いますし、全くの同感です。

 それでは、考えてみましょう。

 なぜ、教育の実践報告では、上記のような「質問」がなされるのでしょうか。
 この「質問」に対しては、厳密に答えることが可能なのでしょうか?
 発表者は、こうした「質問」にまともに答えなければならないのでしょうか。

 さらに、

 「○○だからできたんだよ」という発言は、いったい何のために行われているのでしょうか。
 この発言から、どうして、溜飲を下げあうことができるのでしょうか。

 そして、

 こうした質問を可能にしている背景には、教育の関係者がもつ、どのような「背後仮説」があると考えられますか?

 とにかく、その質問、外から見ると、相当"変"に聞こえるらしいですよ。

 「ここが変だよ、日本人」じゃないけどね。

 ---

追伸.
 炎天下の某デパート屋上。
 おそらく気温は40度近い。
 機関車トーマスの「乗り物」に乗ってご機嫌なTAKUZO
 ゆらゆらゆらゆら。機関車は右に左に揺れています。
 TAKUZO、楽しそう。

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  ・
  ・

 精いっぱい、「手動」で、乗り物を揺らしてあげる僕。
 楽しいかい?

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 100円くらい入れろよ>自分

投稿者 jun : 2008年8月18日 07:00


Give, Give, Give, Give and Give : 酒井穣著「あたらしい戦略の教科書」

 酒井穣さんの新刊である「あたらしい戦略の教科書」を読んだ。

 酒井さんといえば、前著「はじめての課長の教科書」が10万部を超えるベストセラーになった方である。
 政治的観点から課長の実態を論じている箇所が、僕にとっては非常に印象的な本であった。

課長の教科書を読んだ!
http://www.nakahara-lab.net/blog/2008/05/post_1228.html

 ---

 新刊「戦略の教科書」の中で、特に印象的だったのは「Giveの5乗」という話である。要するに「よい情報を得るには、Give and Takeではダメで、Give, Give, Give, Give and Giveでなくてはだめだ」ということ。
 もともとは、経済評論家の勝間さんがよくする話だそうだが、下記に引用してみよう。

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 人間というものは、他人に一方向的に頼るような状態を嫌いなので、あなたから情報をもらった人は、必ずあなたのもっていないウェット情報をもたらすようになります。

(中略)

 ウェット情報をだすのに、いちいち見返りなどを期待せず、とにかく自分で聞き出してきたり、加工してきたりした有益な情報を「give, give, give, give and give」という具合に、関係者に与え続ける、ある意味で逆転の発想です。

 貴重な情報の取り扱いに慣れていない人は、すぐに「Give and take」というかたちでの見返りを相手に期待してしまうものなのですが、これでは自分が相当貴重な情報をもっていない限り、見返りとして等価に帰ってくる情報もあまりパッとしたにものになるのは当然です。

(同書 p88-89より引用)

 ---

 非常に共感できる。僕の信念にもかなり近い。
 「Give, Give, Give, Give and Give」
 これである。

 でも、こういう話を聞くと、下記のように訝る人も容易に予想できる。

「フリーライダー(ただ乗り野郎)が得するだけじゃないですか! 彼らにも、Give, Giveしてどうするんです!」

 でも、僕は、実は、そのことはあまり問題だと思わない。

 なぜか?

 それは3つの理由による。

 第一に、フリーライダーはどんなに予防しようと思っても、一定数、必ず含まれる。

 第二に、フリーライダーの情報力、情報抽出能力は限られている。一言でいうと、たいした情報はもっていないし、どんなにこちら側がGiveしようとも、その中から価値ある情報を抽出できないことが多い。
 ただ乗りを続けていて、オモシロイ情報を常に収集できるほど、人間社会は甘くない。かつ、情報収集能力が高く実行力のある人は、そもそもフリーライディングはしない。

 第三に、フリーライダーからもたらされるデメリットよりも、通常の参加者によって「互酬」によってもたらされるメリットの方が、非常に大きい。

 よって、「情報をGiveすることに付随するフリーライダーの問題は」、一定の確率で発生する「コスト」と位置づけ、あまり気にしない。というか、問題にしても、あまりよいことがない。

 ---

 結論。
 クリエイティビティを高めるためには、まずは、Giveすることである。

投稿者 jun : 2008年8月17日 06:58


「お盆」にソーリー

 近況。

 12日 - 13日の「缶詰執筆会」は、某出版社 Mさん、Iさんのご協力により、無事終わりました。朝早くから夜までの会は、大変でしたが、とても有意義な時間でした。

 寒くなる前あたりには出版できる!?

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 14日。

 会議デー。午後には、新宿某社にて、研究と今後行っていくセミナーの方向感を打ち合わせ。
 それにしても、この日この瞬間まで「世間はお盆であること」をすっかり忘れていて、この日に、日程調整の候補を出してしまったことを、悔やみました。ご迷惑をおかけした皆様、本当に申し訳ございません。そういえば「お盆」でした。

 最後は、某新聞社のKさんと打ち合わせ。でも、TAKUZOのお迎えの時間が迫ってしまったため、電車の中での打ち合わせとなってしまいました。Kさん、ごめんなさい。ギリギリで保育園に駆け込み、セーフ。

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 15日

 原稿執筆+プレゼンテーション作成デー。
 そっとしておいてください。

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 来週からは、いよいよ夏のスケジュールが本格化します。

 17日 - 18日は、院生のY君の研究に立ち会い。
 長野県の某小学校で、「小学校の先生を対象にした組織開発のワークショップ」が開催されます。Y君の研究は、このワークショップの効果を定量的、かつ定性的に明らかにするというものですね。

 19日は、大学に戻って、大学院の修士論文中間発表。某プロジェクトの総括会。10月31日の安田講堂プロジェクトの打ち合わせなどなど。とにかく、一日中、会議。

 20日は、朝、企業ヒアリング。その後、大学にて某調査の実施前最終打ち合わせ。調査の趣旨は、「日本企業の人事教育部が、社内・社外で具体的にとっている行動特性とその効果を明らかにすること」です。

 21日は、一日中会議日。某雑誌の取材。東大で開催されるシンポジウムに参加し、その後、表参道にて1月のシンポジウムの打ち合わせ。

 22日は、朝から企業ヒアリング→会議→取材→会議→会議→取材→Learning barという感じです。

 23日は、朝早く岡山入りして、某学会参加。中原も共著者のひとりである某論文が、「論文賞」を受賞することになりました。ありがたいことです。その授賞式です。

 25日からは、一年でもっとも自由がない二週間。大学院入試ウィークのはじまりです。朝から夜遅くまで会議や面接が続きます。
 途中、いったん東京を抜け出して、滋賀で、「全国の地方公共団体の人材育成担当者」向けの研修をします。

「世間はお盆であること」を忘れ、やはり人生は続く。

 ---

追伸.
 カミサンと一緒に、広尾のレストラン「ひらまつ」に食事に行きました。オーナーの平松氏は、日本にフランス料理を広めた代表的人物のひとり。

 まずはアミューズ。レモン風味のかき氷の上に、トマトのシャーベットとエシャロット。

hiramatsu1.jpg

 前菜は、手長海老と鰻のゼリー寄せ。ねっとりと濃厚な手長海老と、鰻のの香ばしさが印象的でした。

hiramatsu2.jpg

 メインは鶏胸肉のロースト。しっかりとした肉の味がする一本でした。

hiramatsu3.jpg

 おいしゅうございました。
 それにしても、「食べる」っていいですね。
 僕にとって、これはストレス解消のひとつですね。

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追伸2.
 昨日のエントリーに対して、某社のKさんからお便りをいただきました。Kさんありがとうございました。

うちの組織にはビジョンがない
http://www.nakahara-lab.net/blog/2008/08/post_1313.html

 Kさんがかつて、日本企業40社弱のハイパフォーマーの方々を対象にして行った調査によると、「組織ビジョンの理解や認知」ともっとも相関が高かったのは、「個人が、自ら、目的・目標をもっているかどうか、あるいは、どの程度認識しているか」だったそうです。

 ここからはあくまで仮説ですが、個人として目標や志をもっていない人は、組織としてのビジョンを理解しようと自らさぐったり、意味づけたりする行動をとらないのかもしれません。

 こうしたテーマがアカデミックの現場で研究がなされているかどうかはしりませんが、もしないのだとすると、とても面白い研究テーマですね。
 研究テーマってゴロゴロしてますね、本当に。 
 僕らは本当に、「わからないことだらけの世界」の中にいる。

投稿者 jun : 2008年8月15日 08:44


うちの組織にはビジョンがない

 「うちの組織にはビジョンがない」
 「トップはビジョンを示してくれないと困る」
 「うちの社長は明確なビジョンをもってない」

 と嘆いている人を、たまに見かけます。こういう方々を、僕は心の奥底で密かに「ビジョン症候群」と呼んでいます。

 正直いって、僕は、ビジョン症候群に罹ってしまった方々の言葉を「鵜呑み」にしていません。というより、どちらかというと「眉唾だなぁ」と思って聞いています。

 なぜか?

 ---

 僕の少ない経験からいって、「組織のビジョンが欲しい」という方に限って、「ビジョン」ができたら文句をいい、何も自分からアクションをとろうとはしない傾向があるからです。

 いざ、ビジョンが明示されたら、

「そもそもビジョンとは上から与えられるものなのか」

 と文句を言い、

「ビジョンを上から与えられても、何をしていいんだか、わからない」
「こんな不明瞭なビジョンじゃ、何から手をつけていいかわからない」

 と言う。
 僕の短い人生で、「ビジョンを欲しつつ、それが与えられたときに、そのビジョンに基づいてアクションをとった人」を、悲しいかな知りません。

 「上」が何かをやってくれるに違いない。「ビジョン」という名の「プラン」や「ルール」をつくって、「上」が何をしたらいいか教えてくれるに違いない。そう思っている方が多いように思います。

 これは、ビジョン・ロマンティシズムといってもよい。

 ---

 かつて、松下幸之助さんは、正月に全社員を集めて、「訓辞」をなさっていたそうです。

 そこで示される<ビジョン>は、どちらかというと、シンプルでいるけれども、難解なものでした。逆に言えば、どうとでも解釈可能なものが多かったそうです。

 重要なことは、訓辞が終わったあとで、全社員が行う会議にありました。

「社長の言っていたことは、こういうことだったのではないか」「いや違う。社長はきっと、こう述べたかったに違いない」

 というかたちで、社長の示したことを相互に解釈する会、ビジョンを語り合う会が開かれたそうです。

 ---

 ビジョンとは、組織メンバーの相互解釈の中で明らかになり、達成されるものなのではないでしょうか。トップができることは、「相互解釈のためのタネ」と、「タネを解釈しあう場をつくること」なのではないでしょうか。

 そして、ビジョンとは、それぞれの立場で解釈され、それぞれにインプリメンテーションされてはじめて、明らかになるものなのではないでしょうか。

 ビジョンとは、あなたが語り合うものである。
 僕はそう思っています。

投稿者 jun : 2008年8月14日 09:34


問題解決にとって重要なこと

 問題解決のKFS(Key Factors of Success)のひとつは、「何を"問題"として定めるか」という、いわゆる「問題の定式化」にある。昨日、産能大の長岡先生らと議論していて、その話題になった。

 長岡先生がよく引用なさる事例に、エイコフの著書「問題解決のアート」の中に掲載されている「エレベータの話」というのがある。少し長くなるが、下記に引用してみよう(一部筆者により加筆・修正)。

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 話の舞台は、ある大きなオフィス・ビルである。

 そのビルの支配人は、最近、「ビルに設置されたエレベーターの待ち時間が長い」と店子からクレームを受けることが多くなっていた。

 何人かの店子は、

 「エレベーターが改善されなければ引越もやむをえない!」

 と支配人を脅した。

 困った支配人は、エレベーター・システムの設計の専門家をよんで、「事情」を調べさせた。

 専門家たちは、エレベータシステムの動作やキャパシティを子細に分析し、シミュレーションを行った。その結果、下記の解決策を見いだした。

 1)エレベータを増設する
 2)エレベータの機種変更を行う
 3)新たに開発されたエレベータ制御装置を新設する

 要するに、専門家たちは、大幅なコストをかけて、エレベーターを増やすか、取り替えるか、関連する装置を新設しないかぎり、店子から寄せられたクレームの問題解決は行えないことを明らかにした。
 また、同時に彼らは損益分岐計算を行い、そのためにかかる費用は、このビルの収入からすると大きすぎることを発見した。
 かくして、エレベータシステムの改善を行うという問題解決は、完全に「デッドロック」したかにみえた。

 ▼

 絶望的になった支配人は、やけになって、部下を招集し、事態を相談した。
 早速ブレインストーミングの会議が開かれ、多くの代案がだされた。しかし、結果として、満足のいく解決策は提案されなかった。
 議論のペースが落ち、話の切れ間にきたとき、それまで口を開かなかった人事課の新人で若いアシスタントが、おずおずとひとつの提案を行った。

「各階のエレベータの前に、大きな鏡を置きましょう。それで問題は解決するのではないでしょうか」

 支配人はじめ、ブレインストーミングのメンバーは、皆、その提案に同意した。

 2~3週間後、エレベータシステムに対するクレームは、一件もなくなった。

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 さて、ここで、皆さんに、考えていただきたい。
 なぜ、「エレベータの前に鏡を置くこと」で、「エレベータの待ち時間が減らす」という「問題」が「解決」したのか。

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 それは、「エレベータの前に置いた鏡によって、エレベータを待っている人が、そこを覗き込み、身だしなみを整えたり、後ろにいる魅力的な異性に目をやったりする時間が増えたから」である。

 その結果として、「エレベータの待ち時間」 - 正確に言うならば、「エレベータの待ち時間として認識される時間」は、激減することになった。

 つまり、「鏡をおくこと」で、「エレベータの待ち時間は何一つ変わっていない」のにもかかわらず、その時間を「待ち時間」として認識しなくなった、ということである。

 かくして「問題」は解決された。

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 システム設計の専門家が行った問題解決とは、「エレベータシステムのキャパシティやスペックが不足しているので、それに対する解決策をさぐること」であった。つまり、彼らは「エレベータ」の内部に、「問題の定式化」を行った。

 その背後には、彼らが、システム設計の専門性、経験、知識を有しているということがある。専門性、経験、知識、技能は「諸刃の剣」である。それは「問題解決のための重要な資源」であると同時に、問題の定式化を行う際に「活用されなければならないもの」にも転化してしまう可能性を孕んでいる。

 彼らにとって、定式化される問題とは、彼らの専門性や経験や知識をもって、「解決されるべきもの」でなくてはならなかった、ということである。

 一方、エレベータの前に鏡を置くことを提案したアシスタントの行った問題の定式化は、それとは一風変わっていた。
 彼は問題をエレベータの側に定式化するのではなく、「待ち時間が長い」と認知してしまう人々の側においた。

「エレベータを待つ人々に、エレベータの待ち時間が長いことを何とか認識させない方法はないだろうか?」

 アシスタントは、このように問題を定式化し、「鏡」の提案を行った。エレベータホールに「鏡」を置けば、多くの人々は、そこをのぞき込む。身だしなみを整える人もいれば、後ろを観察する人もでてくるだろう。

 かくして、ビルの収入のすべてを奪ってしまうほどの「難問」は、数百ドルで解決することになった。

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 問題解決といえば、我々はともすれば、「問題解決のプロセス」に目がいきがちである。そのプロセスをいかに円滑にまわし、エレガントな解をだすか。そこに関心があつまりがちである。

 しかし、自戒を込めていうけれど、問題解決でともすれば無視されやすいのは、「問題の定式化」である。この事例は、そのことを僕たちに、思い出させてくれると思った。

 その問題が、「解決するべき問題」でいいんですか?

投稿者 jun : 2008年8月13日 08:50


パブリックカンヴァセーションプロジェクト:膠着した議論をいかに打開するか?

 先日来、ケネス=ガーゲンの「あなたへの社会構成主義」を読み直している。その中で、ガーゲンがとりあげている「パブリックカンヴァセーションプロジェクト(public conversation project)」というプロジェクトが大変興味深い。下記、同書p229から一部を加筆・修正しながら引用する。

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 パブリックカンバセーションプロジェクトは、1989年、マサチューセッツ州にて行われた。家族療法の分野で発展してきた技法を、いかに「意見の膠着した議論」に適用するか、ということがめざされた。
(僕は家族療法の専門家ではないので、この手法がどのような手法で、どれほど一般的なものなのかはよくわからない・・・どなたか教えてください)

 具体的には、「中絶」について正反対の立場にたつ政治家や活動家を、一つの場所に集め、会話を行わせる。
 一部の米国人にとって中絶問題は宗教問題を含む問題であり、議論が平行線をたどり、どこにもたどり着きそうもない問題の典型である。対立するそれぞれの人々が、既に、それぞれが全く異なる「現実」や「道徳」を構成しているからである。

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 そんな彼らに会話を行わせるといっても、「議論」を行わせるのではない。仕掛けはこうだ。

 まず、この問題について話し合いたいと考えている政治家や活動かを「小さなグループ」に構成させる。プロジェクトを主催する側は、「もし居心地が悪ければ、活動に参加する必要はない」とあらかじめ伝える。

 会合はビュッフェ形式のディナーではじまり、参加者たちは、中絶問題に関する事柄「以外」のこと、たとえば、自分の人生や生活について話し合うことが求められる。

 ディナーが終わると、進行役は、参加者に「ある立場の代表者としてではなく、個人として自分の経験や考えを語り、また、自分以外の人々の話を聞いて考えたり、感じたりしたことを話し合い、興味をもったことについて質問する」ように求める。

 その上で、下記の3つの問いを話し合うことが求められた。

1.どうしてこの問題にかかわるようになったのですか。この問題とあなた自身との関係や、その経緯について聞かせてください。

2.中絶の問題に対する「あなた自身の」展望や信念について、もう少し聞かせてください。あなたにとって最も重要なことは、いったいどんなことですか?

3.私たちがこれまで話してきた多くの人々は、この問題に対する自分たちのアプローチに、曖昧なところ、自らの信念に関するジレンマ、矛盾点があるということがわかったといっています。あなたはどうですか。半信半疑な部分、今ひとつ確信がもてない点、心配事、価値に関する矛盾、誰かに理解してもらいたい複雑な気持ちなどはありますか?

 この3つの問いのあとは、お互いに質問し合う機会もアタえっられる。「あなたがたが心から興味をもったことについて、"個人的な経験や信念について知りたいから質問するのだ"という気持ちで、質問をすること」が求められる。
 最後に、参加者が重要だと考える幅広いテーマについての話し合いが行われ、さらには「会話を今までのように進めてくるため」に、自分たちは、いったい何をしてきたのかについてリフレクションさせる。

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 このセッションの結果は、非常に良好なものであったという。
 参加者は、セッションを通して、この問題に対する深い理解が得られ、「他者」を自分と同じ人間として見られるようになったと感じていたそうだ。

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 パブリックカンヴァセーションプロジェクトは、一見、単なる「対話の会」に見える。
 が、しかし、この場を構成した研究者は、幾重もの「仕掛け」をここに張り巡らしている。あなたならは、そのいくつに気づくだろうか。

 ひるがえって、このブログの中心的テーマである「教育」の問題に戻る。
 再三にわたって強調するように、教育現場とは決して「一枚岩」ではない。その場における学習者の成長や学習を保証するためには、その場を取り仕切る人々のネットワーキングや利害調整がかかせない。

 そして、パブリックカンヴァセーションプロジェクトには、「マルチステークホルダーたちのネットワーキング、相互理解を促進する場をつくること」に関する、いくつかのヒントが隠されているような気がしている。

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追伸.
 密かに「社会構成主義をもう一度味わう会」というのをやりたくなった。こんなとき、大学院生の誰かが主宰してくれると嬉しいですね。

投稿者 jun : 2008年8月12日 09:15


リクルート「Works」記事 - ASTD2008考察 人材育成はネットワークの時代へ

 リクルート・ワークス研究所の雑誌「Works」に、僕のインタビュー記事が掲載されました。

リクルート「Works」
http://www.works-i.com/flow/works/contents89.html

 ASTDに参加する中で感じたことを記事にしていただきました。どうぞご覧いただければ、嬉しいです。よろしければコメントをお寄せ下さい。

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 今月号のWorksでは、ASTD2008がフィーチャーされています。
 各国の担当者が、どのような思いをもって、ここに参加し、ここで何を得ているのか。それぞれの国では、今、人材育成に関して、何が問題になっているのか、がよくわかると思います。非常に躍動感あふれる記事だなぁ、と思いました。

 取材にあたっては、編集長の高津さん、入倉さん、カメラマンの鈴木さんには、大変お世話になりました。この場を借りて感謝いたします。ありがとうございました。

(ちなみにシリコンバレーレポートの中には、スタンフォード大学のD-schoolの記事もあります。こちらは、僕も、ぜひ、訪れてみたいと思っているところです)

投稿者 jun : 2008年8月11日 08:35


砂利道にて

 北海道での夏休み、日高の牧場にて。

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 TAKUZOが、牧場の「道」を歩きながら、不思議そうな顔をしてる。立ち止まったり、足踏みをしてみたり。何かを確かめるように、様子をうかがうように。

 理由が、しばらくわからなかったけれど、ふいに気づいた。舗装されていない「砂利道を歩くこと」は、彼にとって、生まれてはじめての経験であったのだ!

 急に屈んで、ひとつぶの「石」を僕に手渡す。一歩足を踏み出すたびに、じゃり、じゃりと音のする「道」が、不思議でたまらない。
 
takuzo_ishi.jpg

 砂利道では、バランスを崩して、何度も転ぶ。いつもと勝手が違う道に戸惑っている。転んで手をつくと、石にあたって痛い。半べそになることも何度か。転びそうになっては立ち止まり、歩き出しては転ぶ。

 ちなみに、僕の住む街は、首都圏の中でも、比較的緑の多い地域である。公園も本当に多い。しかし、そのほとんどが舗装されているか、あるいは、砂利が丁寧に避けられた安全な道である。
 そこに自然むきだしの「道」はない。転ぶことも、最近ではあまりない。

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 TAKUZO、世の中には、いろんな道があるんだよ。
 舗装された道ばかりじゃない。
 砂利道もあるし、砂埃がたつ道もあるよ。

 でも、パパの経験からすると、
 歩くことのできない道は、そう多くない。
  
 歩けば、時には、転ぶこともある。
 いいや、本当のことをいうと、歩けば転ぶことの方が多い。
 だから、転んだことなんか気にしなくていい。

 転んで痛けりゃ、思い切り、わんわん泣くといい。
 気が済んだら、立ち上がって、歩きだそう。

 どんなにシンドイ道でも
 いつかは目的地にたどり着くから。
 
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 夏休み、終了。
 明日から、仕事復帰します。

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投稿者 jun : 2008年8月10日 20:31


空を「見た」

 久しぶりに空を「見た」
 すこし目眩がした。

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 これが私の故郷だ
 さやかに風も吹いてゐる
 (中略)
 ああ おまへはなにをして来たのだと
 吹き来る風が私に云う

 (中原中也「帰郷」より抜粋)

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 嗚呼、夏休み

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投稿者 jun : 2008年8月 9日 05:33


学びとコンピュータハンドブック(佐伯胖監修・CIEC編)

 佐伯胖監修・CIEC編「学びとコンピュータハンドブック」が出版された。僕もほんの少しだけ書かせていただいております(学習者中心主義のところ)。
 状況的学習論から、組織学習、教育評価、ブログ炎上まで、何でもありですね。

1 学習観・教育観
 1.1 「学習・教育」観
 1.2 状況的学習論
 1.3 学習者中心主義
 1.4 協調学習 ―拡張するソーシャルな学び
 1.5 伝統芸能(わざ)の学び
 1.6 学習環境デザイン
 1.7 学習環境の構築と運用
 1.8 教育実践研究
 1.9 組織学習
 1.10 教育評価の原理と課題
 1.11 教育評価の機能と方法
 1.12 教育データの量的分析
 1.13 教育データの質的分析

2 コンピュータ,ネットワークの技術的・社会的展開
 2.1 インターネット
 2.2 情報検索
 2.3 Web2.0
 2.4 ブログ炎上
 2.5 オープンソース
 2.6 ウィキペディア
 2.7 携帯電話
 2.8 iPod(アイポッド)

3 コンピュータ利用教育
 3.1 コンピュータ利用教育とは
 3.2 情報通信技術(ICT)と教育
 3.3 コンピュータ利用教育はどこへ?
 3.4 ユビキタス環境におけるコンピュータ利用教育
 3.5 学びを支えるICT
 3.6 コンピュータ利用教育を支えるもの

4 「情報」教育
 4.1 情報技術の教育
 4.2 タイピングとマウス操作 ―情報教育における身体性
 4.3 プログラミング
 4.4 教育用スクリプト言語によるアルゴリズム教育
 4.5 図解 ―情報教育における感性
 4.6 指導設計(ID:インストラクショナル・デザイン)と情報システム構築
 4.7 メディア・リテラシー
 4.8 セキュリティ
 4.9 情報倫理
 4.10 教育におけるIT利用と著作権

5 小・中・高での「情報」教育
 5.1 学習指導要領におけるコンピュータ教育の変遷
 5.2 教科「情報」の現状と課題
 5.3 総合的な学習の時間とコンピュータの活用のねらいとその視点
 5.4 教科におけるコンピュータの活用のねらいとその視点 ―事例:情報教育としての世界史B
 5.5 「情報」と他教科のクロスカリキュラム
 5.6 予習教材としてのeラーニング活用
 5.7 米国における軽度発達障害児童・生徒に対する「技術支援」動向
 5.8 学校の校務の情報化と教員研修

6 大学における「情報」教育環境
 6.1 大学における情報環境の変遷
 6.2 情報教育支援体制
 6.3 授業支援システム
 6.4 CMSの変遷
 6.5 大学におけるeラーニングシステム構築と運用
 6.6 遠隔授業
 6.7 授業のSNS支援
 6.8 モバイルラーニング
 6.9 情報環境を用いた学生支援
 6.10 大学Webサイトの展開
 6.11 大学におけるPC必携と諸課題

7 外国語教育・学習におけるコンピュータ利用
 7.1 外国語教育・学習モデル
 7.2 CALL環境の構築と運用の実態
 7.3 外国語学習デジタルコンテンツの制作
 7.4 2Dアバター・チャット・システムを利用したコミュニケーション活動の活性化(事例1)
 7.5 学びを豊かにするICT環境をどう構築するか(事例2)
 7.6 多言語Web教材「長崎・言葉のちゃんぽん村」(事例3)
 7.7 外国人への日本語教育(事例4)

8 各分野におけるコンピュータ利用
 8.1 数学教育におけるコンピュータ利用
 8.2 化学教育における計算機の利用
 8.3 科学教育におけるICT活用
 8.4 理数教育における数式処理ソフトの活用
 8.5 法律学とコンピュータ ―法学教育の観点から
 8.6 経済学教育と数式処理システム
 8.7 会計教育におけるコンピュータ利用
 8.8 ビジネス教育とコンピュータ統計
 8.9 芸術教育におけるコンピュータ利用

9 社会人教育における授業法
 9.1 「知識伝授」モデルの特質と限界
 9.2 「講義」の可能性と限界 ―知識伝授・知識習得型の授業法
 9.3 「学習支援型」モデルの授業法
 9.4 「互学互習」モデルの概要と可能性
 9.5 「互学互習」における講師の役割
 9.6 プロジェクト型授業のメディア環境
 9.7 プロジェクト型授業と支援者の役割
 9.8 オンデマンド・ティーチングとプログラムド・ティーチング
 9.9 コーチングとファシリテーション
 9.10 授業法と知の獲得・習得 ―「学びのピラミッド」に込められた知見
 9.11 「目に見える議論」を生む「場と機会」を提供する ―コラジェクタ活用による議論の可視化
 9.12 社会人教育研修におけるアドミニストレーション実務

10 社会とコンピュータ利用教育
 10.1 世界情報社会サミット(WSIS)とインターネットガバナンス
 10.2 デジタル・デバイドと国際社会
 10.3 対話装置としてのWWWの実践
 10.4 ネットと放送「融合論」の錯誤
 10.5 市民メディアの発展と市民の情報発信の高まり
 10.6 政治活動へのインターネット利用
 10.7 マンガの新しい広がり ―紙からケータイへ
 10.8 ビジュアルリテラシー教育のための

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追伸.
 今日から夏休みです。レス悪くなります。それではよい夏を。

投稿者 jun : 2008年8月 7日 07:00


懐メロ

 先日、テレビリモコンを片手にザッピングしていたら、徳永英明が、昔の自分のベスト曲を歌う番組を見つけた。

 ホロ酔い気分でボーッと見ていたら、だんだんと懐かしくなってきた。別にとりたてて徳永英明のファンであったわけではないのだけれども、訳もなく懐かしさを感じた。

 試しに口ずさんでみると、意外なことに、あとからあとから歌詞がどこからともなく出てきた。

「別にオレはファンであったわけではないのに、なんで歌詞を丸暗記しているんだろう」

 その曲が、FMラジオで頻繁にオンエアされていた頃の自分思い出も、次から次へと脳裏に浮かんでは消えた。不思議な数十分を過ごした。

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 テレビが終わったあとで、「徳永英明」をネットで検索した。

 Rainy Blue(1986年)
 輝きながら(1987年)
 最後の言い訳(1988年)
 壊れかけのradio(1990年)

 驚くべきことに、僕がよく知る彼の歌が、だいたい今から20年も前の歌なのだという。20年前といえば、僕は中学生になったばかり。20年・・・その年月の長さに圧倒された。

 知らないうちに、ずいぶん、長い時間が過ぎたんだな、と思った。

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 子どもの頃、父親と母親が、よく、テレビの「懐メロ番組」を見ていた。当時、父親と母親が懐かしがっていた曲の多くは、いわゆる「グループサウンズ」とよばれていたもの。その当時からさかのぼって、だいたい20年くらい前のものが多かった。

 もちろん、子どもだった僕には、父親や母親の懐かしがる曲の真価はわからなかった。むしろ、「なんで、この人たち、こんな格好して歌ってるんだろう・・・なんでこれが懐かしいんだろう」とすら思った。父親と母親を不思議そうな顔で眺めていた。

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 ふと我にかえると、いくつかの疑問がわいてきた。

 僕が徳永英明を聞いて懐かしく思う気持ちは、あの頃の父親や母親がグループサウンズを聞いて懐かしがる気持ちと同じなんだろうか。それとも、違うんだろうか。

 さらに、僕が懐メロを聴いて懐かしく思っている様子を、愚息TAKUZOが見た場合、どのような「まなざし」で見つめるのだろうか。

 当時の僕と同じように、「なんで、これが懐かしいんだろう」とすら思うんだろうか。父親である僕の「中」に、自分のあずかり知らない歴史があることを知るのだろうか。

 そして、TAKUZOも人の父となり、いつの日か、ふとテレビのスイッチをひねって聞こえてきた「音楽」に、懐かしさを覚える日がくるのだろうか。

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 そこまで考えたところで、睡魔がおそってきた。
 しょーもないことを考えてないで、もう寝よう。
 明日もまた早い。

 でも、歴史は繰り返すのかもしれない・・・

 遠ざかる意識の中で、そう感じた。

投稿者 jun : 2008年8月 6日 07:00


11月のLearning bar : パフォーマンスコンサルティング・ワークショップ

 かなり先のことになりますが、次々回のLearning barの日程が決まりました。日程は11月21日(金曜日)4時30分から。次々回のLearning barは、久しぶりのワークショップです。(次回は8月22日:抽選が終了しています)

 昨年、ディナ=ロビンソンらの名著「パフォーマンスコンサルティング」を翻訳・出版なさった鹿野尚登さんをお招きして、パフォーマンスコンサルティングに関するワークショップを開催していただけることになりました。
(下記は課題書籍になります)

 パフォーマンスコンサルティングとは、「組織の業績を向上させるために行うシステマティックな介入方法論」でしょうか。
 誤解を恐れずに言うならば、「学習効果の高い研修」を生み出すことを目的とするインストラクショナルデザインをさらに拡張した方法論といえるかもしれません。

 パフォーマンスコンサルティングにおいては、「研修の提供」 - すなわち「教育的介入」を超えて、どのようにして「成果を生み出す組織や職場をつくるか」ということが問題にされます。

 ディナ=ロビンソンさんたちの主張は、「人材開発部門は研修提供から成果創造にシフトするべきである」です。今回のワークショップでは、そのための体系的な方法論を学びたいと思います。

 詳細は、またお知らせいたします。
 どうぞお楽しみに。

投稿者 jun : 2008年8月 5日 06:47


それって、課長の問題ですか?

 先日、ある人材育成関係者から「笑えない話」を聞いた。

 最近、企業人材育成の現場では、

「それって課長が問題ですか?」

 と思わずツッコミを入れたくなる事態が進行しているのだという。
 会社や職場の中で生じた、あらゆる問題の対処を行うのが「課長」とみなされ、彼らに対して「教育」という「短期的処方箋」が提供することで、Catch all(問題はすべて解決)だよね、というような「安易な風潮」が生まれつつあるのだという。

「いやー、課長研修お願いしたいんですよ。最近、うちの会社って元気がなくって。そこで、課長。バーンと、彼らに対してよい研修がないでしょうか」

 はたまた

「実はですね、課長向けの教育をうちたいんですよ。なんか、うちの会社って、Yesマンばかりが多くてね。そういう雰囲気を変えたい。で、まずは課長から。そういう雰囲気を変えられるのは課長でしょう」

 という感じ。

 ここで重要なことは、会社や職場に生じた問題が、どんな問題であっても、既に「課長向けの教育」という風に、担当者の中で「手法」が決まっていることである。

 おそらくは、担当者の中で、その「原因」が「課長」ではなく、組織や風土の問題であったり、役員やトップマネジメントの問題であることはわかっていたとしても、その対処を行うのは「課長」とされる傾向がある。
 だって、前者だとすれば、いわゆる「人材育成」の仕事ではないと考えがちだし、後者だとすれば「役員を対象に研修」なんて、勇気をもって企画できないだろうから。もちろん、そうであるならばまだいい方で、何も思慮なくターゲットが「課長」と設定されている場合も少なくない。

 かくして「課長」は、ただでさえ「クソ忙しい」中で、「会社を元気にするための研修」「会社のYesマンを減らす研修」を受講することになる。そもそも彼が「原因」ではないし、そもそも「彼ひとり」の力で対処できる問題ではないのにもかかわらず。

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 それにしても、こういう事態が進行すること自体が、僕からすると、不思議で不思議で仕方がない。ある意味で「新鮮」ですらある。

 だって、問題の原因も、その対処の仕方も「未知」であるにもかかわらず、それを調べたりすることなく、もう既に「教育的介入の中身」がきまっているのだから。それがどんなに大きな問題であっても、個人で対応することが求められるのだから。

 会社に元気がないこと・・・
 会社にYesマンが多いこと・・・

 それって、課長の問題ですか?

投稿者 jun : 2008年8月 4日 07:10


eラーニングには何ができるか!?という問い

 東京ビックサイトで開催されている「eラーニングワールド」で講演を行った。

 講演テーマは「成果につながる企業人材育成」。企業人材育成の現在の動向を、僕なりにまとめ、ふりかえった上で、「情報通信技術(ICT)には何ができるか」を全員でディスカッションする、という内容であった。
 拙い内容であったが、何とか終了。関係者の皆様に感謝します。本当にありがとうございました。

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 ところで、僕は、なぜ、講演の最後のディスカッションテーマを、「eラーニングには何ができるか」ではなく「情報通信技術(ICT)には何ができるか」にしたのか。

 この問いにこめた思いはこうだ。
 
 僕は、「今後の企業人材育成において、今よりもICTが活用されないこと」はありえないし、それが果たすべき役割も多くなると確信している。
 仕事のやり方、コミュニケーションの取り方、私たちの生活のあり方が、日々、望むと望まないにしろIT化が進んでいるのだから、その動向は不可避だと思う。

 しかし、今後、人材育成において利用されるICTのあり方が、今、いわゆる「eラーニング」という言葉で我々がイメージしてしまうものには、僕には、あまり思えない。

 むしろ、我々は「eラーニング」という言葉や、「eラーニングという言葉からイメージされるもの」を、いったんエポケーしつつ、「eの世界で可能になる学習」が、どのような教育的付加価値を企業人材育成に提供しうるのかを、「本気の本気」で考察するべきなのではないか。

 その際には、eラーニングとよばれる世界の人々だけ、仲間内だけで問題だと思っていることについて、仲間内だけで通じる「言語」で語るのではなく、一般の人材育成担当者、人事の方、経営者の方、経営企画に携わっている人々、現場マネジャー・・・様々なステークホルダーを巻き込みつつ、みんなにわかる共通言語で、もう一度、「eの世界が支援する人々の学習・成長・熟達化」のあり方を、議論するべきなのではないか。

 このような思いから僕は敢えて「eラーニング」という言葉を使わなかった。

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 僕は、数年前までいわゆる「eラーニング」の研究動向もウォッチしていたし、自分もたくさんの研究をしてきた。僕は、その渦中にいた。
 数年前からは、いったんそこを離れ、もう少しGeneralな立ち位置から - つまりはeであるかどうかは問わず、「企業・組織における学習」の問題を考えている。

 その二つの世界を垣間見た経験からすると、今の、いわゆる「eラーニングの言説空間」と、いわゆる「企業人材育成の言説空間」の間には、そこで使われている言語、そこで重視されている価値に、大きな隔たりがあるように感じる。

 昨日一日、eラーニングについていろいろ聞いたけど、そこで語られていることが、僕がふだん逢うことの多い人材育成担当者に響くとは、あまり思えないのである。

 もしかすると、それらの議論は、業界内部の人を対象にしていたり、情報システム系の人を対象にしているのかもしれない。真意はわからないけれど、とにかく、少なくとも人材育成でイシューになっていることと、eラーニングでイシューになっていることの間には、どうしても「接続」が見つからなかった。
 むしろ、二つの世界は、全く違った世界のようにも錯覚してしまうようにも感じる。

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 誤解を避けるために、繰り返し述べるが、僕は「eの世界で可能になる学習」には期待しているし、その流れが減速することはないと思っている。

 人材育成の現場の話を聞くと、「あー、ここにはデジタルが使えるのにな」とか「ここは携帯とか使えるだろうな」と思うことが少なくない。本当はもっと楽に、もっと効果的に育成支援が行えるのに、「eの世界」のことをあまり知らないがゆえに、それができない。そうした場面をたくさん見てきた。

 僕自身、現在、たとえば現場マネジャーの学習支援のために情報通信技術を利用するプロジェクトなどに関わらせていただいている。
 現場マネジャーがつみあげてきた経験の分析、そして仕事のやり方などを総合的に考察した上で、「現場マネジャーの研修」と組み合わせた情報通信技術のあり方をディスカッションさせていただいている。「e」にできることは本当に多いと思う。それは間違いない。
 そして、そこで話題になっていることは、いわゆる「eラーニングの世界」で話題になっていることではないようにも思う。

 繰り返しになるが、やれることはゴマンとあると思うし、これからなのではないかと思う。しかし、そのため前には、「本気の覚悟」と「本気の議論」が必要ではないか、と思う。

投稿者 jun : 2008年8月 1日 07:13