パッションとロジック
思うに、研究は「パッション」からはじまります。
世の中では、○○に実践されているけど、本来、それはおかしい。~のように考えれば、もっとよくなるはずだ。
巷では、こんな風に思われている常識があるけれど、どうもそれは違う。実態は~であるはずだ。
「パッション」という言葉がわかりにくければ、「怒り」といってもいい。「これはおかしい・・・このままにしてなるものか」という思いが、まずは必要ではないかと、僕は思います。
そうやって、自分が取り組む「問題」がわかったら、次に必要なのは「ロジック」です。
ロジックとは何か?
あくまで僕の専門分野で、ロジックを説明するのならば、それは「問題」「方法」「評価」「結果」を「1本の線(意味のつながり)で結ぶこと」です。
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1.解決すべき「問題」は何か?
→その「問題」に着目する理由は何か?
2.その「問題」の解決のために
とりうる「方法・アプローチ」とは何か?
→なぜ、あまたある手法の中で
その「方法・アプローチ」を選ぶことが妥当と
言えるのか?
3.その「方法」や「アプローチ」を、どのような
手法や手続きで「評価」するのか?
→その手法や手続きが、なぜ妥当と言えるのか?
4.その「評価」結果から、結局、どんな結果がでるのか?
→解決すべき「問題」は解決したのか?
→その「問題」を解決した際に
どのような新たな問題空間が見えたのか?
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ロジックが通っているとは、「問題」「方法・アプローチ」「評価」「結果」がすべて矛盾無くつながっている状態をさします。
別の言葉でいいましょう。
要するに「ロジックがたつ」とは、どんな角度から、自分の研究について、何を聞かれても、「学術的に理由を答えられる」ということです。
どんなことを聞かれても、「何となくやったのです」「思いつきを、ちょっとやってみたんですよね」と答えないですむということです。
さらに言うのなら、その分野の人だけでなく、異分野の人であっても、「誰にでもわかる言葉で、自分のやったことと、その理由を述べることができる」ということです。
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ロジックがたつことは、研究をする上でもっとも重要なことです。
どんなに実践として素晴らしくても、
どんなに効果があっても、
どんなに人々が喜ぼうとも、
どんなに目が輝こうとも、
ロジックがたたないものは研究としては認められません。
実践としての価値はあっても、ロジックが立たなければ、研究としての価値は疑問符がついてしまいます。厳しいようですが研究の世界とは、そのようなものです。
それではロジックをたてるには、どうすればいいでしょうか。
よほどの人ではない限り、ロジックは自分一人ではたてることは難しいように思います。
かくのごとく偉そうなことをホザいている僕も、ツメの甘い人間です。
「ロジックがたった!、いっちょあがり!」
とフラダンスしていると、他人に「ブスッ」とカン●ョーされちゃうんですね。ツメが甘い・・・あべし。
けだし、洗練されたロジックをつくるには、どうしても「他者のまなざし」「他者のチェック」が必要であることが多いように思います。
他人の目は、自分が予測できない角度から、自分の予測できない事を指摘します。それがとても重要なのです。
だから、研究には「仲間」が必要なのですね!
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今日は、「研究の世界」の事を書きました。あくまで僕の専門分野の話であり、また僕の信念です。何の一般性もないことを断っておきます。
ですが、実は・・・小さい声で本当のことをいうとね・・・これは「研究の世界」だけにあてはまることでしょうか? 研究の世界だけでなく、いわゆる実務の世界でも、企画をたてるとき、新しいことをはじめようとするときには、実は、同じようなことをやっていないでしょうか。
厳密さや緻密さは違っていても、実は、世の中のナレッジワーカーとは、基本的に「研究の世界」と同じことをやっているように思います。
たとえば某自動車会社。
企画書をつくるときには、上司や同僚から「なぜ?」「なぜ?」「なぜ?」と、理由を何百回も問われます。企画はA3用紙1枚にまとめることになっています。ロジックがすっきりしていれば、A3一枚で、まとまるのです。
たとえば、某テレビ局。
企画は、どんなに長編の番組であっても、シリーズものでも、A4用紙1枚でまとめなければなりません。
「なぜ、この番組を今放映する必要があるのか」
「どういう社会的意義をもっているのか」
「絵として何が撮れるのか?」
が繰り返し問われます。「なぜ?」「なぜ?」「なぜ?」
結局、同じことなのですよ。そして、大学院で学ぶべきことは、結局、こういうことだと思います。
投稿者 jun : 2008年6月18日 10:34